ポーランド亡命政府 | 郵便学者・内藤陽介のブログ

 ポーランド亡命政府

 いよいよ<JAPEX >(10月28~30日、東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催)と反米の世界史展(11月1~10日、東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館で開催)が迫ってきました。というわけで、ここ数日、その最終追い込みに追われる日々が続いています。


 作品制作は余裕をもって行うべきだとお考えの方からすると、僕のようにギリギリまで作業をしている人間は段取りが悪いということになるのかもしれません。しかし、僕自身は、どんなものを作る場合でも、自分を追い込んで、最後の一瞬まで粘って頑張ったほうが、結果として良いものができると信じています。“火事場の馬鹿力”ってのは、けっこう侮れないものですからね。まぁ、この辺は人それぞれなので、どちらが正しいという筋合いのものではないのですが…。


 さて、<JAPEX >の特別展示“1945年”のコーナーに出品する「“戦後”の誕生」は、欧州・日本・中国(含台湾・香港)・朝鮮・東南アジアの5つの地域それぞれの、第二次大戦の終戦直後の状況をまとめた5つのミニコレクションから成り立つ短編集のような作品とお考えいただければよいかと思います。で、現在、最終チェックとあわせて本格的に手を入れているのが、作品の構成上は一番最初に来る「欧州:東西冷戦の開幕」の部分です。


 東西冷戦のルーツをどこに求めるかは、いろいろと議論が分かれるかと思いますが、とりあえず、ポーランド問題をめぐるソ連と西側の対立が一つの発火点となったことは間違いありません。


 第二次大戦中、独ソ両国によって分割されたポーランドの旧政府は、当初はパリに、後にロンドンに亡命政権を樹立。1941年の独ソ戦勃発以降は、ポーランド全土を占領したドイツ軍と戦っていました。


 1944年、ドイツが敗走を重ねる中で、ソ連軍の解放地域がワルシャワ近郊にまで及んでくると、ポーランド亡命政府系の国内軍は、それに呼応するかたちで8月1日にワルシャワでの武装蜂起を行います。いわゆるワルシャワ蜂起です。しかし、戦後のポーランドを衛星国化する意向を既に固めていたソ連は、親英的な亡命政府がポーランドに復活することを望まず、ワルシャワを目前にして進軍をストップ。イギリスの度重なる要請にも関わらず、蜂起を援助しなかったどころか、イギリスによる支援も妨害しました。この結果、ワルシャワ蜂起は失敗に終わり、ドイツ軍による懲罰的攻撃によってワルシャワは徹底的に破壊にされ、レジスタンス・市民約22万人が虐殺されました。


 ポーランド亡命政府は、失敗に終わったワルシャワ蜂起を宣伝する切手を発行し、自分たちこそがポーランドの解放のために戦っていることをアピールしようとしています。この亡命政権の切手が貼られたカバー(封筒)が↓です。


 ワルシャワ蜂起


 一般に、亡命政権の切手というと、実際の郵便には使えないラベルのようなものが多いのですが、ポーランド亡命政府に関しては、“ポーランド(もちろん、亡命政府のことですが)”船籍の船で運ぶ郵便物などで実際に使用されました。このカバーもその一例で、1945年2月3日にロンドンの亡命政府からニューヨークの亡命政府の大使館宛に送られたもので、裏面には3月19日の到着印も押されています。


 こうして、ワルシャワ蜂起を見殺しにし、亡命政府に打撃を与えた上で、いよいよ、ソ連はポーランドに衛星国を樹立するのですが、その辺の事情を語るマテリアルについては、機会を改めてお話しすることにしましょう。


 *右側のカレンダーの下のブログテーマ一覧に1945年 ( 34) のコーナーを作って、<JAPEX >の特別展示“1945年”に関連する過去の記事をまとめてみました。展示の予告編としてご覧いただけるようになっていますので、よろしかったら、クリックしてみてください。