人づてに聞いた話だけれど、、、

「母が末期癌で医者からも余命三ヶ月と告げられて、死ぬ前に何がしたいか尋ねたら『歌手になりたい』って言うから老人ホームのツアーを組んで好きなだけ歌わせたら、結果的に癌も完治して今でもピンピンしています」って?

この話の真贋はともかく、それはそうだと思える。

人はいやなことをしていると病気になり、
人はすきなことをしていると元気になる。

だからって、すきなことだけで生きていける人は良いが、
そうでない人は、いやなことに対する一定の対処法が必要。

克服する
適当にする
避ける

克服することが立派で避けるのは卑怯だとも言えないと思う。
その人の立場や環境、持ちうるリソース(人間関係も含めて)次第だから。

更に、
いやでも出来ることもあれば、すきでも出来ないこともある。
感情と能力は別だから、

話を組織に置き換えると、いま目の前には誰かがやらねばならない職務がある。
職務配分は原則として能力に応じて行うのだから
そこに好き嫌いを考慮するとやりくりができないし、考慮すると不公平との不満も出る。

他方、組織内でも人材(キャリア)開発的に考えると、
長期的なモチベーションの維持のためにも、当人の意向を尊重することが効果的である。

前者、職務配分は組織側の論理であり、後者、人材開発は申すまでも無く人間側の論地である。

そこで両者の矛盾を最小限にする工夫の為に次の様に分類する

1.いやでも出来る → さっさと済まそうと思うだろう
            (ユーストレスであればだが)
2.いやで出来ない → もう苦痛でしかたがない
3.好きで出来る  → 楽しくて仕方がないし成果が出やすい
4.好きで出来ない → 何とかできるようになろうとする

組織の維持には、いま出来ることが必要なので、[1と3]のバランスをよく考えることだが、現実的には [1>3] となるのはやむを得ない.

人材の将来を考慮すると出来ない事を出来るようにするのだから[2と4]のバランスを考えるのだが、経験的にはトータルで1.3.4.のバランスがよければ、2.のいやで出来ないことも然程苦痛と感じずにとりくんでくれるものだし、出来るようになってくるとそのいやさ加減も減ってくる。

社員と仕事をよく見ている経営者や上司には、これらは理解しやすい話だと思う。

モチベーション(≒やる気)を必要とするのは心が何かの奴隷である証拠。


それが自分のとっての本当の目的や目標であるならば、
そのための行動にモチベーションはいらない。
楽しみながら取り組んでいるうちにゴールに辿り着いてしまうだろう。


それを他人が見て、「彼はモチベーションが高い」というのは自由だが、
本人にとってはそのモチベーションって何って話。


モチベーションが奴隷に必要なものであるなら、
コーチング(正確にはビジネスコーチング)は奴隷づくりに最適な道具。

「彼が自律的になるようにコーチングをお願いします」って、
真のコーチングは自律(更には自立)した人にしか使えないのですが?

では、企業という組織の中で自分にとっての目的や目標と組織のそれらを矛盾なく持てるのは社長だけ。
とするならば、企業内でコーチングの対象は社長でしかない。


業務的にはモチベーションもビジネスコーチングも扱うが、
これらは本質(魂レベル)では最も毛嫌いしていること。

このあたり、ビジネスと割り切っているとは申せ、
自分の不誠実さを払拭しきれていない部分。

モチベーションとは騙しのテクニックであり、
ビジネスコーチングとは、それを騙しと覚らせないテクニックなりと理解して、
当面は毒は毒なりに上手く使うしかないだろうな。
そろそろコンサルタントに戻ろうか?-北総電鉄

いつも思うが北総鉄道の車輛の中には驚くほど古くてボロっちいのがあるが何だか昭和風でノスタルジック。
毎日毎日、同じ路線を生真面目にコツコツと走ってきたのだろうなと愛おしく感じる。

かつては新幹線、これからはリニアモーターカーだと技術の進んだ電車が話題を呼ぶが、
多くの人の日常の足廻りを支えているのはこういう地味な電車だ。

これは組織(特に企業)と人材の関係でも同じで、やたらハイパフォーマーの採用だの育成だというが、
彼らハイパフォーマーは社員の数%にすぎず、収益全体では何%を稼ぎ出しているのだろうか?

目立たなくとも日々こつこつと働く多くの社員が収益にしても、その多くを稼ぎ出しているのだ。
そうでなく、一部の人で相当な収益を稼いでいるとしたら、それはむしろ相当酷いマネジメントだといえる。

以前、カンブリア宮殿で良品計画 会長の松井 忠三氏が話していたが、
http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/backnumber/20130919.html

スーパー店長に頼ることなく、
「普通の人が普通に、当たり前のことを当たり前にやる経営」
属人的経営から組織(システマティック)的経営への移行が必要だ。

全く同感で、実はこういう会社にこそ優れた人材が育ち、入ってくるのだ。
言い継がれている諺って、すんなりと受け入れていますよね。


その意図するところや教訓的な機能に水をさすつもりはありませんが、むやみやたらと不適応な用いられ方をしている場合も見受けられます。


別次元の話ですが、先日の宇宙物理学の勉強会で、物理学者から「塵も積もれば山となる」というのは嘘だという話になりました。


山を破壊すれば塵となるが、その塵を集めただけでは絶対に山はできないというお話。

ある「場」に一定量集まった塵に、ある「圧(何らかのパワー)」を加えてはじめて山になるということです。


「場」と「圧」を社会科学的に言い換えれば、
「機会」と「意図」という事になるような気がしました。



『塵も積もれば山となる』というのは、
小さな努力も厭わず、コツコツと積み重なれば、必ず成果は出るのだよという意味ですが、
これは言い換えれば、成果がでていないのは君の努力が足りないからだという、
何だか上から目線の批判として用いられていることもあります。


・努力を活かせる場を提供する。
・その努力を後押ししようというような意図を持つ。


自己責任論だけでなく、この様な機能を持っている組織(企業)こそ、
人をその気にさせ努力が継続できるのだと考えます。


あなたのいる組織(企業)では、

塵が積もって山になっていますか?

それとも、

塵が積もって薄汚れているだけですか?
似ているようだが、「満足」と「満足感」は別のことだ。


満足が、まさに充分に満ち足り申し分のない状態であるのに対して、
ここに「感じる」が付け加わるだけで、何らかの刺激に対する感覚的な反応のこととなる。


そこで、満足を与える、あるいは得ることが困難であるときは、
代わりに満足感を与える、あるいは感じさせることで凌ぐということが多く行われている。


例えるならば、満足というのは積分的であるのに対し、満足感というのは微分的である。

つまり満足とはじわーっと長きにわたり充足状態を満たし続けてくれるのに対し、
満足感とは瞬間風速のようなものであるということだ。


報酬で申せば、不満とまではゆかなくとも自分の給与に満足しているということは非常に稀なことである。

このような時には、知ってか知らずかは別として、インセンティブ等で満足感を刺激するということが報酬制度として用いられる。

年に数回のインセンティブで別途のお小遣いが得られるならば、これを含めても年収にすればたいした額でなくとも、またインセンティブをもらえるよう頑張ろうという気持ちに導け、使う側とすれば総額人件費を抑えることができる。


つまり、短期的視点な人ほどコントロールし易いわけである。


こういう報酬政策を取り続けるには、人材にあまり知恵がついてくれるのは困ったことなので、どうしてもスキルトレーニング中心のものとなり、じっくりと考えさせたり、振り返らせる時間を大切にしようとしない。

また、このような餌付けをされた社員の側も即効的な研修しか好まなくなる。


経営が戦略的で、そのもとに意図してこのような人事政策(報酬や教育)を行っているならば、ES(従業員満足度)は別として、これはこれで賢い(狡い)経営である。

経営が戦略的でなく、収益上已む無くこのような人事政策を取らざるを得ないのであるならば、人材は発達・成長せず疲弊してゆく。


概ね、人材の定着の悪い会社はこういうものであるし、
そこの経営者は、うちの社員はやる気がないと仰る。
妙なタイトルだが、そのように感じた。


丁度一昨日、東京で誰もがCMで知っており、
実際にも使っているだろうと思われる製薬メーカー様で
役員の方々に面接(インタビュー)の研修をさせていただいた。


ご承知だと思うが、インタビューには
構造化インタビューと非構造化インタビューがある。
中間で半構造化インタビューというのもあるが。


構造化インタビューとは、聞き出すことを想定しておいて、
チャンクダウンで追い詰める(オイオイ)ようなインタビューであり、
非構造化インタビューとは反対に雑談のような多岐にわたる会話の中から
意外な事柄を引き出すのに向いている。


書籍を買うとき、
買う書籍が決まっているときはアマゾンで検索し、「購入」をポチする。
早くて便利、合目的的であるがちっとも面白くない。


他方、書店をブラブラしてあちこちで、「なにこの本?」って調子であれこれ物色するのは、
時間が過ぎるのを忘れる程楽しく、意外な書籍を見つけることができる。

まぁ、買ってみてからつまらなかったというのもあるが。


そこで、このタイトル。

アマゾンは構造化インタビュー型であり、
書店で物色は非構造化インタビューと一緒だと思う次第。

どちらが良いかではなく、どちらも必要。


人間にも、指示されたことをしっかりと、その通りやり遂げる事が得意な人もいれば、
自分で思いついたことをするのが得意な人もいる。

持ち味を見極めて活かさないで、皆ダメだダメだと言っていることをよく聞く。

こういう人の事を「アマゾン」ならぬ、「マルゾンさん」とでも呼ぼうか。

落ちないオチで終わってしまった!

只今、セミナー前に三宮でモーニングカフェ中。

心地よく好きな珈琲が飲めるお店として時折入るこの店は、
さりげなくお客様を選び、その結果、お客様に心地よい環境を提供できているのだと感じさせる。

BGMにしてはほんの少し音量は大き目でクラッシックを流している。

会話の邪魔にはならないが、会話目的で来るお店ではない。

といって、識者然とクラッシックを聞くのだという堅苦しさもない。

メニューも全体として、若干の高めの設定だが、
珈琲豆の銘柄は多く、好きなマンデリンやガテマラという風に、その時の気分で選ぶことができるうえに、
今日の時流ではないが一杯ずつサイホンでいれてくれる。

ここでは自制できないような大声で話す人や、無神経に座席で携帯をかける人は来ない。

そういう人には居づらくできているのだ。

だからこそ、ゆったりと自分の時間を過ごすことができる。

お店のコンセプトがしっかりとしているというのは、誰をお客様とするかということが明確なわけで、
当然のことながら、そこを選んだ側にも心地よい。


「総合何とか業」であるとか、「全ての皆様に」という場合、
しっかりとしたコンセプトのうえに、ターゲッティングをしたうえなら良いのだが、
ただ単に目先の商売だけを考え間口を広げているようで、その結果、
誰にも満足されないようなビジネスになっているように感じる。
昨夜、amebaを書こうと思ったらメンテナンス中だった。

メンテナンスは大切ですね!


さて、昨日は家内の誕生日でした。

いつも大したことは出来ない(しない?)のですが、
これはいけないなと思い、心ばかりのプレゼント。


家内は昨年から五十肩です。

経験者なら分かるのでしょうが(わたしは未経験者。だいたいあまり肩も凝らない)
痛みが酷く夜も眠れず、利き手の右手も充分には使えないほどでした。

さすがに一年近く経過し、徐々に良くなり家事も出来ることからしてくれていますが、
五十の手習いで、男子厨房に入り浸りはなかなかの激務でした。

献立を考えるのも大変ならば、どう調理するか?

でも、主婦だからでは済まさず、こういうことを30年近く毎日毎日してくれていたのだなぁと思うと、美味しいとも言わず黙々と食べてたって失礼なことだったなと反省。


この一年間、仕事と家事の両立で大変だと自分を甘やかし、
色々と言い訳をしたり、疲れを理由に手を抜いていたことも多かった。

会社の仕事であれ、家事と言う仕事であれ、
相手が喜んでくれてこと成立するもの。

見返りが先に来る様な働き方はいけないと、改めて感じました。


さて、その誕生日プレゼントですが、家内がもう長年使っており、
これも随分以前、何かで?プレゼントしたきりなのでかなり痛んでる
財布にいたしました。

色柄や使い勝手、サイズと手に持ったときの感触を重視し選びました。

それと、抱えきれないほどの花束。
いえ、結局は抱えて帰ったのですがね。


男が花を買うと言うのも、何とも照れくさいもので・・・

家の近くのフラワーショップに電話をして帰りに立ち寄り受け取りました。

大輪や香りの強い花は使わないようにお願いし、
できるだけ淡い色で小さな花が沢山密集しているようなものを沢山使ってくれるようお願いし、
素適なアレンジメントとなりました。


思ったより良い出来栄えで、わたすのも恥ずかしかったですが、
財布共々、花も喜んでもらえ、一安心!

上手く言葉に添えられませんでしたが、何よりも感謝の気持ちを伝える事ができていれば
良かったと思っています。

この一年、元気で日々を楽しく過ごしてください。

いや、元気で楽しく暮らせてイイネ!$そろそろコンサルタントに戻ろうか?
先週の土日は自己啓発としてセミナーを受けていたので、
明日は14日ぶりのお休みです。

ということは?

14日分の家事のツケが溜まっている訳で、仕事しているよりも忙しいかも?

忙しさは、必要とされている事と感謝して、、、

朝寝坊だけは、させてください。
好きなピアニストといえば、グレン・グールゴとアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ。


共に、天才とも奇才とも言われてきた。


中でもグールドの異才ぶりは突出しており、
音楽だけに関わらない多くの著作がある。
日本では出版されていないが小説まで書いているとか。


最近 出た指揮者の小澤 征爾さんと作家の村上 春樹さんによる対談、
「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(新潮社)の中で、
小澤 征爾さんからグールドに関して、多くのエピソードと共にグールドの凄さが語られている。

興味深いのは、ピアノコンチェルトで巨匠と言われる指揮者と共演する際でもマイペースというか自分のスタンスを貫くところで、バーンスタインは指揮前に聴衆に向かって「私はこのテンポを相応しいと思わないが仕方なくピアニストに合わせる」とコメントしたり、ジョージ・セルだったかリハーサルでぶつかり、本番では指揮を副指揮者に任せたという類の話しは多いようだ。


ところで既にクラシック音楽界の帝王と呼ばれていたカラヤンに対しても、当時まだ若造のグールドは自分流を通し、勿論俺様流では年季の入っているカラヤンもマイペースで指揮をし、それでいて面白い様に合っているというのは流石というべきか。


バーンスタインとの共演によるブラームスのコンチェルトだったと思うが、
第二楽章でオケがメロディーをとっているときに、ピアノはアルペジオ風の伴奏をするパートがあるのだが、大半のピアニストは作曲家がスコアに書いたとおりの伴奏を奏でるのだが、グールドが奏でると同じ音符でありながら、オケのメロディーに対峙するポリフェニックなラインのように聞こえるというのが面白い。

休憩時間、近くの書店の棚に並ぶグールドに関する書籍をみて、こんな風なことを考えていました。$そろそろコンサルタントに戻ろうか?-グレン・グールドに関する書籍の一部