教会員であるという事と祝福家庭であるという事は別なのだという事を今更ながら痛感します。
改めて考えると、今の「教会員」とは「統一教会」という組織に属する一員の名称なのです。
だから組織にとって都合の悪い人は「切る」という決定をすることが出来るのす。
だから「神山威氏」は「祝福家庭」ではあるけれど、組織から教会員である事はならぬと「除名」されたのです。
「家族」として出発した「教会」が、いつの間にか「組織」へと変貌した。
悲しい現実です。
文師はどんな人も切らなかったのも皆様は承知のとおりです。
韓総裁は「原理講義の声が絶えない草創期の教会に戻りなさい」という趣旨の事を言っています。
草創期の教会は組織ではなく家族だったと多くの証を聞いています。
親の為、兄弟姉妹の為、子供の為と互いが互いの為に銭金関係なく喜んで生きていました。そこに兄弟姉妹という関係はあっても上司部下という関係性は存在していなかった。日本を開拓した西川氏も当時一緒にいた方々に「お父さん」と未だに慕われています。
お金がなくとも、食べるものがなくとも、分け合い、助け合い喜びに満ちていた生活を送っていたので人も増えたと思います。
この様に草創期の教会は組織(機能集団)でなく家族(共同体)であったと思います。
文師はイスラム教であろうと仏教であろうと祝福を与えました。
この事からも解るように「祝福家庭」であることは必ずしも「教会員」でなくともいいという事です。
神を愛し、世界平和の礎となるのは「祝福家庭」である。
統一教会という組織に拘るのは組織によって生活の糧を得ている方々であり、生活の為に組織を保持し、維持していかなくてはならないから世界平和は2の次になるのは組織人の性でしょう。
献金実績を上げる為に益々機能集団化、組織化していく必要があり、そこに「摂理」という言葉を持ってきて「大義名分」をつける事で自分を納得させているように思います。
しかし文師は再三、組織解体の方向性を示している。
ホームチャーチしかり、個団しかり、氏族メシアしかり、訓読家庭教会しかりである。
都度、組織は個人になったら弱い、個人は何も出来ない、個人では信仰が保てないと強弁し、組織が維持に努めてきた。
神が立てられた中心を中心としてという「中心性」を訴え、アベルと一つにならなければならないという「アベルカイン」を誤用し、組織解体を阻止してきた。
組織維持する為の文化を作り、その「組織文化」によって道を踏み外し、遂には誤った教義がまかり通り、組織保持の為に嘘が横行するようになっています。
どの組織も同じ過ちを犯す可能性は内在しています。
組織に都合の悪い事は隠し、都合の悪い人は切る、組織を守る事が全ての善のように錯覚していきます。
今こそ、祝福家庭のコミニュティ(共同体)が必要です。
何でも語り合い、本音を言っても崩れないような繋がりが必要です。
神を知った人達で心情文化を形成しる事が必要です。
「文化が組織を主導する」は真実だと思います。
そのように作った組織には隠ぺいも、虚栄も、嘘も入れない。祝福家庭の共同体はそうでなくてならないし、そうでなければ神が働けないとも思います。
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