Tricolor with love | My Blog

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金曜に発生したパリでの痛ましい事件。


時差がないにも関わらず、知ったのはこちらの時間で翌土曜日の朝5時前だった。


ちょうど大使館の同僚がパリに出張中だったので、安否が気になる。


他にも、パリ在住の友だちの無事も確認したかった。


午後になっていずれも無事だとわかったからその点は一安心。


そっから、メディアやSNSではテロの話題が溢れ出した。


おなじみFacebookでは、これまたおなじみ「Pray for XX」


プロフ写真にトリコロールを重ね、哀悼の意を示す人々が続出。


半日くらい経つと、今度は「前日にはレバノンでも爆発が起きていた。なぜパリの事件ばかりフォーカスしてレバノンは語られないのか」という投稿がちらつきだした。


「パリやレバノンだけではない。シリアやイラク、パレスチナ、アフリカ(括られてる感が否めない)だって、罪のない人が攻撃されたり家を追われている」


トリコロールを重ねることへの違和感を発信する人がたくさん。


その状況に違和感を感じる自分がいた。


だって、レバノンでの事件も報道はされていた(日本でもNHKが金曜の午前には取り上げてる)わけだし、戦争犯罪とか人道支援関係者、人権活動家は毎日のようにそういった世界中の悲痛な事件の情報に触れている。


そして、実際に哀悼の意を表したり批判の声を挙げている人もたくさんいる。


現代は情報化社会で、情報ソースは無限と言えるくらいたくさんある。


ネットや衛星放送で世界中のニュースにアクセスし、さらには発信までできる環境にいる中で、いまだメディアに対して受け身でいることはとても危険だ。


ものすごい狭い範囲での情報ソースの中で「語られていない」と言うのはどうなんだろう。。


わたしが見た中では、「語られていない」と言っている人のうち、パリの事件以前にレバノンの事件に言及した人は一人もいない。


そして、パリの事件がなかったらそのままレバノンの事件についてこれだけの声が上がらなかったようにも思う。


これに関しては、メディアは少なくとも「語っていない」と批判される立場にないんじゃなかろうか。


自分から意見や思想を発信することのできる環境を持ちながら「語られない」との批判は、怠慢だ。


それに、わざわざ「レバノンでも他の場所でも日々事件があるんだから、自分はトリコロールはやらない」って、わざわざ宣言する必要もないこと。


トリコロールを重ねる人々はそれぞれの思いがあるはず。


家族がいる。友だちがいる。恋人がいる。パリが大好き。よくわかんないけど大事件だから。


わたしはFacebookのタイムラインを見ながら、トリコロールを重ねる友人たちの本気の哀悼を感じたし、こうして連帯が生まれるんだと考えていた。


「トリコロールはやらない」と宣言することで、やってる人を制しているようにも取れ、それが自分にとっての違和感なんだとわかった。


SNSが、他者を批判したり制したり釘を刺したりする場ではなく、明らかに誰かを傷つけるような手段にもされず、自分にとっての大切なことを自由に発信できる場でありますように。