2016.7.7 15:00〜 三宅洋平選挙フェス 有楽町イトシア前

安冨歩氏の演説をIWJで視聴して、

衝動的に写経的な気分で書き起こしてしまったので、アップします。

http://iwj.co.jp/channels/main/channel.php?CN=5



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みなさん、よく集まってくださいました。

そして私をこういう場に呼んでいただいて本当に光栄に思っています。

私が作った曲が時々流れるかもしれないんですが、

 

三宅さんという政治家に私が非常に前の選挙で大きな関心を持って、ジャパンイズバックという本を安倍政権ができた直後に書いたんですけども、その中で注目すべき政治家として三宅洋平さんの名前をあげていました。

なぜかというと、私は政治というのは人間のコミュニケーションをどうやって統合していくかとか、どうやって人々の間で豊かなコミュニケーションを発生させるかっていうそういう活動だと思っています。

それに対してもう一方ですね、政治を暴力によって人々のコミュニケーションが押しつぶされていくようなものによって力を生み出そうという勢力もあります、そういうことをする人々もいます。

かつて社会主義というものが元気だった時代にはいわゆる社会主義というものの背後にはですね暴力革命というものを持っていて、もう一方にですね、純粋な暴力であるところの全体主義というものがあって、どちらも非常に強い、妖しい魅力を放っていたので、左翼も右翼も力があったんだと思います。

しかしですね、その社会主義的な暴力というものが崩壊してしまった今、全体主義的な暴力だけが妖しい力を放っていて人々を惹き付けていて、それのアメリカンであるところの保守的な勢力というのが力を強めているのに対し、リベラルな勢力はそういう魅力を放つ事ができなくて人々の支持を失っていってですね、今私たちはこういう状況になっているんだと考えています。

それに対して対抗するにはですね、暴力に対して暴力で対抗するのではなくて、暴力に対しては非暴力で対抗しないといけないということを教えたのがガンジーという人で、その非暴力はですね、アートとしての魅力を持たないといけないと私は考えています。

それを示したのがまさにガンジーという人で、例えばですね、塩の行進というものは現代から見れば、巨大なアートパフォーマンスだったと思っています。

1人の老人が歩き始めるとですね、何十万という人々が共にやってきて塩を作るというのは、巨大なですね、アート、アートパフォーマンスだと思っています。

その意味でですね、私たち、暴力に対して非暴力で対抗するのであればですね、それはアートとしての魅力、パフォーマンス、エンターテイメントでなければならないと考えるのですが、残念ながらリベラルな政治家の間にそういう魅力を持った人が非常に限られている、これが私たちがですね、現在憲法が改正されるような状況まで追い込まれている大きな理由だと考えています。

そういう風に考えていた私にとって、三宅洋平さんという人はですね、まさに

暴力に対してアートで対抗するという本来あるべき戦いの方針を日本において最初に政治の場面で実現した人だと思っていて、そのためにですね私は今日、彼と一緒にこの舞台に上がりたいと思って、三宅さんを応援したいというよりも、このような大きなムーブメント、暴力に対してアートで対抗するというそういう政治のあり方っていうものを一緒に実現するための場に一緒に立ちたいと思って今日参りました。

ですからみなさんに私がお願いしたいことは、三宅さんに投票してくださいということではないんです。

そうではなくて、みなさんひとりひとりが生活の中でアートを生み出して欲しいと思います。

それが、暴力という恐ろしいものによって人々を惹き付ける、そのような妖しい権力という、そのようなものよって私たちの社会が踏みつぶされてしまうのを防ぐための一番大事な方法だと思うのです。

ですからここに集まっているみなさんには、私の話を聞くとか三宅さんの話を聞くのではなくて、一緒にアートに参加して欲しいし、おひとりおひとりが、それぞれのアートを生み出してほしいと思っています。そのための三宅さんという人はですね、あるいは山本太郎さんも同じだと思うんですね。

彼は政治をですね、アートにするためのいろんな技法を私たちに見せてくれました。

例えば、天皇に手紙を渡すというパフォーマンス。

国会で、お焼香してみせるというパフォーマンス。

そういうタイプのパフォーマンスというものは、非常に大きな抵抗のための指標だと思います。

彼らを先頭にして私たちひとりひとりが、アーティストとして、政治という場面において声をあげていくのではなくて、日常生活の中のあり方を楽しんでいくということが彼らがもっとも恐れることであろうと思っています。

そのための先導者として三宅さん、それから山本さんという人と一緒に舞台に立ちたいと思って、今日参りました。

ありがとうございます。

 

まだ時間がありますね。まだ時間があるようですので、

私はですね、先ほど紹介していただいたように、東京大学というところに勤めています。

東京大学というところに来て分かったことは、そこにいる人々がですね、私自身も含めそうですが、非常に病んでいるということです。

エリートになるということは、心の中の感じる心、私たちの身体の中の感じるとか喜ぶとか、こういうものを切り捨てるっていうことが必要であって、何故ならですね、権力という非常に大きなものに対して巨大な力に寄って接近していこうとするとそこにはですね、耐えざる暴力が発生してしまうんですね。ミクロな暴力が発生してそこで私たちひとりひとり、いわゆるエリートという人々ひとりひとりの上に降り掛かってきて、それを自分自身の身で受けながらかつ権力をふるうというような状況に置かれた時に人間は人間であることをやめてロボットになってしまいます。

そしてそのロボットであることが露呈しないようにあたかも正常な人間であるかのように振る舞う、特に言葉によってそれを誤摩化す。

そのような技法が満ちている空間であるという風に私は理解しました。

そのことがですね、人々の目に焼き付いたのが、あの東日本大震災の時の原子力発電所の事故のあと、テレビで次々と東京大学卒業したり東京大学の教授であるようなエリートたちがテレビにでてきてですね、信じられないような言葉を次々投げかけて、しかも、特にですね、あのような大事故を前にしながらへらへらとしているのを見てみなさんは心の底から恐怖されたのではないかと思いますが、あれは、日常的に展開されている暴力の隠蔽という東大的な権力的なシステムが、原子力発電所の爆発という覆い隠しようのないものを言葉で覆い隠そうとする、そのような状況に追い込まれたが故に露呈したものに過ぎません。

それはそこに限られるのではなくて、私たちの全ての空間、日々の生活、学校のあり方、会社のあり方、全てのところにですね、そのような隠蔽がしみ込んでいます。

それが私たちが日々、暴力を受けながら、それは暴力ではなくて、それに耐えられない私たちが悪いんだと思うような罪悪感を駆り立てられて、その罪悪感を刺激されることによって支配される、そのようなシステムに私たちが包まれているということを示した、そのような出来事だったと思っています。

ですから、私たちは自分自身の精神に投げかけられる暴力をひとつひとつを拒絶し、そして自分自身のですね感じる心をその中に満たされてくるものを、それをアートとして表現するということが、私たちのひとりひとりの生活を取り戻し、同時にこの国をこのような暴力から取り戻す、そのための大きな方法であると思っています。

ですから、三宅さん、山本さんといった人々を先頭にですね、ともに私たちはアートというものを、芸術というものを、音楽というものを、そういうものを生活の中で、喜びをもって実現していくということが、私たちにとって最も大切な、暴力から身を守り、非暴力の国への作り替えていくそのための最も大切なことだと考えています。

そろそろ、前座は終わりに致しまして、山本太郎さんがいらっしゃいますので、マイクをお渡ししたいと思います。

どうもありがとうございました。



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