主語がないことが怖い。現在。
主語がないことが怖かった。あの頃も。

あの人たち、は、主語を言わずに話すことが多かった。
そして、叱ったり禁止したりする時は名詞か代名詞をつけていた気がします。
あれはダメ、これはダメ、お前はダメ、それはしょうがないんだよ、、、
「お前はバカだ」は、「僕はお前はバカだと思う」と意味は同じなようで違う。
何が怖いのかすら説明がつかなくなっていた。
怖いものがあっちこっちに出現するから。
イジメ、イジメの見て見ぬ振り、無視、よくわからないコミュニケーション、意味がわからないまま怒られたり非難されたりする、私を分ってくれない、私を正当に守ってくれない、私も相手も日本語を話しているはずなのに何かが通じない、、、
私の子供時代の事です。

私は3歳から5歳の間に一年程度、家族でアメリカのシカゴにいて、保育所、幼稚園での集団生活もあった。
3歳児レベルだろうけど英語も話していた。
日本に帰国して、保育所の年長組、幼稚園(私の地域では一年)、小中学校までを同じ町で過ごした。
母が言うには、アメリカの生活に慣れて戻ってきた当時の私は、日本人のコミュニケーションの仕方などが分らずに困っていたそうだ。
私の記憶がある範囲では、少なくとも小学校低学年あたりから、日本人のコミュニケーションを把握して慣れるまで、二十歳頃までずっと困っていた。

主語のある世界から、主語が省略される世界に帰国して、
小さな私は何が何だかわからずとても怖かったんだろうな。
英語は必ず主語を言う言語、日本語は主語を必ずしも言わない言語。
今は、私が日本社会に慣れていく過程で修正されたかもしれないけれど、
子供の頃に「よしこちゃんは、私は、私は、って言うね」と言われた。
多分、自己主張が強いよね、我が強いよね、という意味を含んでいた。

ひと月ほど前、「何が怖かったの?」とある人から聞かれた時、私はうまく答えられなかった。
怖いことを「誰が」したか、すごくぼんやりして、何をされたかの切れ切れの記憶はちゃんとあるのに、
全体に靄がかかっているみたいだった。
それは、動作主体が曖昧な世界なんだな、と今日ふと気が付いたのでした。
彼ら自身も、「自分」と「他人、みんな」が曖昧な世界にいて、その世界で暮らしていた。


情動的でツッコミどころ満載でうまく整理されていない感が強いが、
今の状態を記録しておいた方がいいと思って、
いや書き出さずにはいられない衝動があって、ツイッターでは全部を語りきれなくて、
この話をさせていただきました。
主語が無いこと、主語がおかしいこと、主語の在り方とその人や社会の在り様について、思索していきたいと思います。