YOSHIHIRO KAWASAKI ~道草食って、夢から醒めた~

YOSHIHIRO KAWASAKI ~道草食って、夢から醒めた~

川崎芳勲(カワサキヨシヒロ)
1990年生まれ

青年海外協力隊として
2014.7.7~2016.7.6の2年間、ウガンダにいました。
過去の旅のことやウガンダでの日々を綴っています。

Amebaでブログを始めよう!

更新頻度が全く安定しません、川崎です。

2018年7月より、「はてなブログ」でブログを更新し始めました。
リンクはこちらになります。
道草食って、夢から醒めた。

理由はいくつかありますが、
今後はこのアメーバブログで綴ってきたことを整理しながら、
別の場所で自分自身と向き合うことを楽しんでいきたいと思います。

青年海外協力隊としてウガンダに派遣される前に始めたこのブログ。
本当にこの場で発信することを通して、自己研鑽ができたように思います。
様々な方々に読んでいただきましたことを、この場をお借りして、御礼申し上げます。

なお、このブログは削除せずに、
過去に書いた記事を今後のブログは、将来の出版に活かしていくつもりなので、
ゆっくりと見返していこうと思います。
 

今後とも応援、宜しくお願い致します。


そんな私川崎ですが、
7/27より約半年の海外旅に行ってまいります。
海外からも写真や文章、ガンガン更新するつもりなので、応援よろしくお願いします♪

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写真等は、Instagram、Facebookがメインになるかと思います。
こちらも合わせてフォローよろしくです。

川崎芳勲
 

 

前回、前々回と言葉に対してのこだわりや、

自分自身のなかでの観念的な話を書きましたが、

今日は、じゃあどうやって、言葉を磨いていくのか?という話を。

 

前々回投稿記事→「人」に“力”を与える〇〇力って?

前回投稿記事  →毎日、磨くもの。

 

 

 

というより、自分自身はどういう風に磨いてきたのか。

これを機会に振り返ってみようと思います。

 

〇〇を磨くための△△の方法、だったり、

何日間で〇〇をマスターする!なんて本とかを、

よく本屋で見かけますが、

ああいう類の本は、購入して読んだだけでノウハウを習得した気になってしまう。

 

 

ぎくっ。

 

 

経験ある人、きっと多いはずです。

 

 

読みながら、「なるほどね、ほな明日から!」と行動できる人ばかりではない。

 

無論、私もその一人で、続いていないことの方が圧倒的に多い。

読者が読んだあとに簡単に実践できてしまっても、困るけどね。

本売れなくなってまうやろうし。

だから似たような本が出回るっていう現実があるんかな。

 

良い本に出会えたことは確かかもしれない。

でも、本当にその本の価値を高めるのは、その後の行動の質を高めることにある。

冊数より、良き本に出会い、

自分自身の価値基準を上質なものに変化させられるか、が大切なわけです。

 

書いてあることはほとんど同じでも、読みやすく体系化されているものが売れる。

でも、本の内容も大事だけど、読んだ人の“実行力”に懸かっている。

と、くどいぐらい念を押したうえで始めます。

 

言葉の磨き方、ゴリゴリの自論、スタート。

 

 

 

 

 

1.世の中への疑問

 

まだまだ発展途上の自分の言葉力ですが、

しっかりとこだわりを持てるようになるまで、どうやって言葉を磨いてきたのだろう。

そう自問自答したのは、前回のブログを書き終わったときでした。

 

今から書く文章は、

ある種、無意識的に磨いてきた言葉力を意識的に解明していくという、

なんとも滑稽で生産性のあるような、ないような話です。

 

意識的に「よし、磨こう!」と磨いたことは、ない。

誰かにアドバイスを受けたことも、そういやない。

 

“好きこそ物の上手なれ”で、気づけば今の自分が出来上がっただけ。

荒削りの我流でしたが、気づけば文章を書く仕事や

講演などの依頼もありがたいことに受けるようになりました。

 

自分自身の言葉で、自分自身の経験を語る。

 

それが誰かの背中を押すことにつながるのはとっても幸せなこと。

その楽しい扉を開けるに至ったのは“世の中への疑問”があったからでした。

 

 

辞書的に解釈できることばかりじゃない。

「これか、こう。あれは、こう。」と、あたかも誰もが持っている共通認識のように、

自分の観念を押しつけてくる大人、いるでしょう。

 

心底納得いくように説明してくれたならいい。

でも、だいたいが“押しつけ”で終わってしまう。

 

世の中は意外とシンプルだけど、

はっきりと答えが用意されているものばかりではないし、

グレーゾーンのなかにあるものほど、大事なものがあると気づいた。

 

グレーゾーンってなんや…?

人によって異なる“価値観”そのものです。

 

 

子供だった頃に、大人はなんでも必要な答えを持っていると思っていた。

 

自分のなかで好き嫌いはあっても、

小学生の頃から、こう生きていこうっていう“価値観”とかはなかったし、

まわりで支えてくれる人、指南してくれる人がいたからこそ、

ここまで生きてくることができた。

 

それは紛れもない事実です。

 

 

今年で28歳、この年になって思う。

何かに迷っている大人も大勢いるし、必要な答えを持っている人ばかりでない。

 

自分自身がどこから来てどこに向かっているのか、わかっている人ばかりではないし、

そう、世の中は、はっきりしていないことの方が多かった。

 

 

学校で教わらなかったことは、そのまま生きていくうちに見つけてこいと、

“社会”という名のジャングルに放り出される。

 

それでいいと思う。

でも、そのせいで迷っている人は、本当に多い。

それが理由になっているかは断言できないけど、

多くの大人は、大人になっても(大人になったからこそ?)いろんな問題に悩まされて、

病気に罹ってしまう。

 

答えの見出し方を、大人になった途端に、ゆだねられるわけですよね。

「自分で考えなさい。」と。

学校で教わった方程式や四字熟語じゃ解決できないことを知る。

ここで、初めて、自分と向き合うことを知るのでしょうか。

 

 

まわりの大人が答えを教えてくれないから、

「仕方ない。自分で答えを見出すことにするか」と、幼少期に割り切ったわけでは決してありません。

そこまでませてないです。笑

 

でも、自分と徹底的に向き合わざるを得ない時間を神様がプレゼントしてくれた。

世の中に対する疑問や自分自身の人生に対し、自分自身で答えを見出して、

納得のいくものにたどり着くまでのプロセスを、楽しみ始めたのが、すべての始まりだった。

 

あらゆる疑問に対する自分なりの”解”をもとに自分の人生をデザインしていこうと思った。

そうすれば、ストレスなく都合のいい世界のなかで呼吸ができると、直感した。

それが高校2年生の頃。

 

 

 

 

世の中は不条理なことや納得のいかないことだらけ、という人も多い。

確かにそういうこともあるかもしれない。

 

でも、思考を放棄し、受け身に走った人ほど、そう言う。

本当に不満があって、真剣に変えたいことがあるなら、

人は考え、“行動”するはずだから。

(だから、歴史の教科書には偉人がたくさんいるんだなと納得できる。)

 

 

世の中に対して、また自分自身の人生に対して、“考え始めた”ことが、

後々言葉で表現する上での論理的思考を養ってくれたと思う。

 

 

だから、講演でも学生に伝えます。

「疑問に思ったことをそのままにせず、掘り下げてください。」と。

「その力が、事実がいつか人生の糧になる。」と。

 

高校生相手なら、高校生時代の自分が欲しかった言葉を、

大学生相手なら、大学生時代の自分が欲しかった言葉を、伝えるようにしています。

 

高校2年生のボクは、静かに考え始めました。

今から約10年前の17歳の冬でした。

 

 

 

 

 

2.自分自身の言葉で表現する

 

本を読んで影響を受けた。もちろんアホほどあります。

誰かの一言に魂を揺さぶられた。数え切れないほどあります。

 

人は、意識下に行ったか、無意識下に行ったか別して、

互いが互いに影響を与え合っている生き物です。

社会的な生物というか、関係のなかに自我を見出すこともきっとあるでしょう。

 

言葉が持つ影響力は、凄まじい。

 

だからこそ、一度腑に落ちた言葉は2度と体から離れない。

しっかりと染みついて、血や肉となり自分自身を支えてくれる。

 

その想いがあったからこそ、

世の中に対して、また自分自身の人生に対して、“考え始めた”ことは、

次の段階へと向かった。

 

あらゆる疑問に対し、自分の”解”を与える作業は、

世界で1つだけの都合のいい辞書を、脳内に創造していく作業に他ありません。

時間はかかる、でもこんなに価値のあることはない、と

当時の足りない脳みそではそう考えていた。

 

 

 

その道の途中で、新たに生まれた問いは、

「自分自身の言葉で表現するにはどうしたらいいのだろう?」

 

 

 

 

付け焼き刃ではなく、内側から生まれた言葉でないと、

本当に骨の髄まで、“自分色”に染めることは難しい。

かと言って、赤子が政治討論を始めることはありえなく、

誰もが始まりは“言葉を借りる”わけです。

 

 

 

誰かを真似る。

 

誰かの受け売りで「〇〇が言うには~。」みたいな言い回しを使うこともあるでしょう。

 

簡単です。ググってパクればいいわけだ。

 

でも、実体験でない限り、説得力は弱まります。

だって、その人の内側の芯から染み出た言葉でないと、なんか薄く思える。

 

 

実際にこう言われたら、どうでしょう。

「かの有名な野球選手、イチローもこのように言いました。持続力が大切ですと。

明日からも一丸となって頑張りましょう!」

 

そう発言した上司が、

誰よりも早く出社することを持続している姿勢を部下に見せているならいい。

でも、発言者が何を持続しているかわからないフワフワしている人なら、

馬耳東風。「また、なんか言ってんなぁ~。」って、なる。

 

 

そのへんにある自己啓発本の表現を真似たような言葉は、

誰にでも言える。

 

でも、言葉の裏にある実体験や温度までは、真似できない。

 

 

これです。

 

Q.「自分自身の言葉で表現するにはどうしたらいいのだろう?」

 

A.「実体験」があれば、自分自身の言葉で表現できる可能性が高まる。

 

 

間違いない。

 

経験ベースであれば、当事者でない限り、当時の想いってやつを再現できないわけだから。

 

今度は、「実体験」をよりリアルに再現する語彙力と感性の出番なわけです。

 

 

 

 

 

3.“伝える”と“伝わる”の違い

 

誰かの話を聞いていて、感動する。

もしくは、誰かの文章を読んで共感するってことはよくありますよね。

 

人の共調意識に訴えかける話は、響きやすい。

でも、声高に叫ぶだけではダメ。

自分自身の話であるかのように、

置き換えられるように伝えることが大切だと感じる。

 

 

当事者意識をかき立てるような表現や臨場感のあるような話。

この人話うまいなぁ~と思った人の共通点を昔分析したことがあります。

 

総じて言えたのは、話を聞いている途中でも、

過去の自分の体験を振り返ってイメージし、重ねたくなるような、

比喩表現や言い回しが多かったことに気づきました。

 

その発見と同時に、

誰もが誰かに、自分ってやつを重ねたいんだ。

そう、思いました。

 

綺麗に重なることがあるのなら、

この人は自分をわかってくれるという想いがこみ上げてくるのでしょう。

 

 

 

発信者が発言する。

それに対して、

受信者は言葉を受信した際に、自己完結する対話(自問自答)を、

心のなかでしたかどうかです。

 

過去の自分を発信者の話の内容に重ねるように、

「自分はどうだろうか、できているだろか。」とか、

「今後も私はこうしたらいいだろうか。」と、

受信者が自然と“自分会議”を始めたくなるような話は、記憶に残りやすい。

 

 

 

実体験をただ伝えるだけなら、誰にでもできる。

 

「おもしろかった」

「やばかった」

「きれいだった」

小学生ばりの語彙力しか持たない大人も数多くいますが、この差は場数で決まる。

 

 

場数ってなによ?

 

インプットとアウトプットの総数です。

 

比率は、ぼくのなかでは4:6ぐらいでアウトプット優勢だろうか。

 

ある一定レベルを超えると、

インプットなしでも、好きな文章を好きなだけを書けるようになる。

ほんとです。

 

 

だから、表現力やコミュニケーション力にまつわる本を読んだところで、

結局なにも変わらないのは、場数不足(=アウトプット不足)。

そして、ポイントは詰め込めばいいわけじゃないってこと。

吐き出し方も訓練しないと、結局未消化でそれはただの排泄物です。

 

 

インプットとアウトプットで、語彙力を磨く。

これは、実際に本を読んで文章を書くのも、

人の話を聞き、人に話すのも同じ。

 

(適切な質問をぶつけてくれる人が近くにいたら、

その人と対話を重ねることをおすすめします。

脳フル回転させながら、言葉を選ぶ訓練になります。)

 

 

 

インプットの数をこなしていくうちに、本であれば自分好みの作家に出会うはずです。

生の対話であれ、この人との時間は面白いと思うようになるはずです。

 

本であれば、読み込んでその作風の背景にある想いや根源は何かを探ります。

それぐらいのインプットをこなした人は、

人にもよりますが、自分でも書きたくなってくるに違いない。笑

 

 

 

そして、

 

実体験と言っても、〇〇に行った、とか、△△をした、みたいな、

事実ばかりではないわけです。

 

人が知りたいのは、そういった事実を体に通した結果、

「あなたはどう感じたか」です。

 

受信者側は、「自分ならどう感じるだろう?」っていう自問自答をしたいわけです。

 

 

A:オーロラを見に行ってん!

 

B:へぇ~そうなんや!どうやった?

 

A:めっちゃきれいやったで!一生に一回は行くべき!

 

B:へぇ~ええな!

 

 

よくねえよ。笑

何がどう綺麗だったか、教えてくれよ。笑

 

 

ぼくはそういう人間なので、聞きたいことには、しつこく質問します。

適切な質問をすれば、人の言葉力を引き出すことも、きっと可能になる。

 

旅をしていても、上記のような表現しかできない旅人より、

スナフキンのように静かに自分のことを語ってくれる人の方が大好きでした。

 

そして、旅をし始めたときは、そういうオーラを放つ人たちに、

憧れていたものでした。

 

実体験を補強する「①語彙力」と「②感性」という話をしましたが、

 

感性の磨き方は、正直わかりません。笑

 

いい音楽聞いて、いい絵をたくさん見て、きれいな景色をたくさん見ることですかね。

右脳の鍛え方は、専門家ではないので、ここでは下手に説明できませんが、

自分の幼少期を掘り返すと、この経験が感性を育てだんだろうな、と思うことはあります。

 

音楽に触れたこと。

たくさん本を読んだこと。

大自然のなかで、遊んだこと。

親に、感謝です。

 

 

「実体験」をよりリアルに再現するには、

インプットとアウトプットを積み重ね、語彙力を磨き、感性を育てていく。

 

 

お話しは、出口へと向かい始める。

 

 

 

 

 

4.自分自身を知るということ。

 

実体験、それを補強する語彙力と感性。

これがあれば、言葉が磨けるのか!よし!

 

でも、…あれ?

となるでしょう。

 

人に話すような経験ねえよ!!!!!

 

 

 

 

心の中で、「ほんまそう!」と手を打った人、いますか?

 

 

 

 

それ、間違っています。

 

対話の相手が自分自身では不十分ですか?

ぼくはそうは思いません。

 

むしろ、入口も出口もそこにあると思っています。

 

 

どういうことか?

 

無意識に楽しんでいたとは言え、言葉を磨いてきて本当によかったなと思うこと。

 

人前で講演できるようになったから?

違います。

 

ライターとして仕事の依頼が来るようになったから?

違います。

 

フォトエッセイブックを4冊も発行したから?

違います。

 

 

 

もちろん、それらもとっても喜ばしいこと。

でもなによりよかったなと思ったことは、

 

「川崎芳勲という一人の男の味方になることができた。」と、いうことです。

 

 

言葉を磨いてきたから、考えるようになった。

 

言葉を磨いてきたから、迷わなくなった。

 

言葉を磨いてきたから、解を自ら創造する楽しさを知った。

 

言葉を磨いてきたから、自分と向き合うようになった。

 

言葉を磨いてきたから、自分という一人の生き物を知ることができた。

 

 

言葉に真摯に磨き、こだわることは、

自分自身との対話を楽しむことに直結します。

 

人は、どこから来て、どこに向かうか、決まっています。

でも、その道中がどうなるかなんて、誰も知りません。

靄がかかっていて、よく見えないこともあるでしょう。

 

そんな靄を吹き飛ばしてくれたのが、ぼくの場合、「言葉」でした。

それだけの話です。

 

 

 

文章を書くことは大好きですが、本業はPhotographerです。

これを機会に一端の表現者として、言葉の磨き方に対する想いが整理できて、

よかった。

 

最後まで読んでくれたあなたに、一礼。

 

 

 

 

~まとめ~

①    世の中に疑問を持つ

②    自分自身の言葉で掘り下げていく

③    インプットとアウトプットを積み重ねる

④    自分のスタイルが見つかる

⑤  自分自身の言葉で、”私”と向き合う

 

 

 

毎日使うものを磨く。

 

一日着た服を洗濯し、干して乾かす。

 

少し疲れた顔をした靴を、艶出しのために磨く。

 

曇った眼鏡をTシャツの裾で拭く。

 

 

日常で何気なく行っているこういった動作は、

本来あった状態(あるべき姿)にするための、ごくごく自然な動作と言える。

 

つまりは、”維持”への意識。

 

0を1にするわけでもなく、

1を2にするわけでもなく、

1を1として維持しようという心掛け。

 

日本人はこれをきっと”習慣”と呼ぶのだろうけれど、

普段していなかったことを習慣化する、これが本当に難しい。

 

 

「今日から毎日〇〇をする!」

 

ダイエットであったり、勉強であったり、日常的な作業であったり。

 

何度挫折したことか…なんて人がほとんどのはずです。

 

 

これらに共通していることは、

おそらくすべては「自分が強化・美化されるから、維持するから」ではないかと思う。

 

よりたくましくなるための毎日腕立て100回。

健康にいるための風呂上がりのストレッチ15分。

虫歯ゼロで大人になるための歯磨き10分。

 

何においても、損なことはない。

 

しかし、持続が難しい理由がある。

 

習慣といえども、1を1として維持しつつ、衰退しかけるものを維持するので、

ある程度の力が働いているとも言える。

無意識にできるようになるまでには、それ相応のエネルギーがいるのだと、

なんとなく想像できる。

 

 

 

話は次の段階へ。

 

1を1として維持しようという心掛け。

よりよく使い、生きるために毎日する「磨き」の精神。

 

僕がもーっと磨きたいものは…。

 

 

いたってシンプル。

 

”言葉”です。

 

出たよ。笑

そう思った人も、付き合ってください。笑

 

 

 

 

 

言葉は磨きようのないものなのか?

 

使いこなしていると思っているのは、僕らの身勝手で行き過ぎた自意識で、

当の本人?は飼いならされているとは全く思っていない。

 

そういうことはよくある。

 

自分自身が舵を握り、手綱を握りしめているつもりになっていても、

実は、うまいこと手のひらで転がされ、尻に敷かれていることだってよくあるのだ。

 

「自分は大丈夫だろうか…。」

そうドキッとしたアナタは、おそらく、後者の人間でしょう。

 

 

 

僕が磨きたいものは「言葉」

 

 

 

ライターとして、文章を書く仕事もちょくちょくしてはいますが、

何より毎日使うものだし、一生付き合っていくものだから。

磨いていきたいという想いが生まれるのは当然です。

 

もちろん、磨きたいのは、言葉だけではありません。

 

写真の技術や、スピーチ力、プレゼン力や交渉力も磨きたい。

今後の人生できっと必要だから。

 

 

そんななかで気づいたのは、

「言葉」の存在は私の磨きたいリストのトップに君臨しているということ。

そう、すべては、「誰かに伝えるということ」が前提になっていると気づいた。

 

 

ここまでつらつら書いた文章を読んでいただいてお気づきのように、

どうやら僕は、人に何かを伝えたく、

また、自分の想いを共有したくて仕方のない人間らしい。

 

 

中学生あたりからか、その魅力にはうっすら気づいていたように思う。

行動に移していなかっただけで。

 

高校生で「自分自身の言葉」を紡ぐ楽しさを覚え、その表現の無限性に虜になっていく。

大学生で本格的に感性のなかに生きる楽しさを見出したのだと思う。

 

世界各国で素晴らしい出会いに恵まれたからこそ、

磨かれていった表現力や感性があったのかもしれませんが、

その基盤になっていたのは前の記事でも書きました、

まさに「言葉へのこだわり」でしょう。

 

過去記事

「人」に“力”を与える〇〇力って?

 

 

 

その扉を開いてくれたのは、アフリカで過ごした2年間という歳月だった。

 

 

バナナの木に囲まれたレンガの家で、子供たちの笑い声をBGMに、

ウガンダで感じたことをよく綴るようになった。

反射的に「カタチに残しておかなければ。」と本能が働いていた気もする。

 

それぐらい、特殊な時間軸のなかで呼吸をしていた。

やはりその場所で「生活」しなければ見えてこないことがあると再確認したのも、

ウガンダでだった。

 

 

言葉にこだわりを持ち始めた。

すると自然に、言葉が持つ特性について、自分なりに掘り下げていくようになりました。

 

 

言葉を磨くということは、

靴や歯を磨くのとはわけが違うし、

料理の腕を磨くのとも話が違うような気もする。

 

ベクトルは一緒かもしれないけれど、

その道中でやるべきことはいったい何だろうか、と問いかけた。

 

 

「数」と「質」への反復練習に加えて、

料理的な「温度」「湿度」「味」にも気を配った上で、

五感を言葉に集結させる浸透力が必要になってくるように思えた。

 

 

簡単に言えば、

言葉で、「聴覚」「視覚」「味覚」「嗅覚」「触覚」を表現するわけだから、

言葉の表現力は、つまり感性の反射神経と感度の向上に見事に比例するようにできている、

ということだ。

 

 

もっと簡単に言おう。笑(わかりやすく一般化するのがマジで苦手。)

豊かな感性があれば、言葉の語彙も増えて、表現力豊かな人になるよね♪

ってこと。

 

 

自分自身と向き合うにも、ボキャブラリーがいる。

モヤモヤとした感情を言葉で表現できて初めて、その出所と行方を探る気になれる。

3歳児が自己分析を強いられないのは、それがゆえです。

 

 

ここ10年で私の言葉力と感性は磨かれただろうか。

 

数字的な根拠こそないけども、実感としては間違いなく、“向上している”

その証拠に、発信欲が年々、いや日に日に増していくのを感じている。

 

それは“こだわり”を持ち続けているからであり、

何よりその道中を楽しんでいるからに他ならない。

 

と、いうことは…?

 

言葉の表現力は「磨くことのできるもの」と私は結論づける。

 

 

 

 

 

私が思う言葉の特性について。

 

まずは、自分のため。

でも、人のためになればよりハッピーなこと。

 

言葉が持つ特性について。

 

 

 

ひとつ事例でも。

 

台風が通過した。

家の前にたまっていた落ち葉を掃いたとしよう。

確かに、自分の家の前だけでなく、公共の場も少し掃いた。

そこへ偶然に近隣の人が通りかかったら、掃いてくれた人にお礼を言いたくなるだろう。

 

お礼を言われた人は、自分の不快な思いを一掃したいがために、

文字通り落ち葉を一掃したにすぎない。

でも、お礼を言ってもらえた。

 

双方にメリットがあった心地の良い朝になった。

よくある話。

 

 

 

求めている世界は、この極論にある。

 

自分自身の体内に向けた自問自答も、その次元によっては、

芯まで届いたあと何かに呼応するかのようにして跳ね返り、

皮膚を破って、外に飛び出す可能性があるわけである。

 

将棋で言えば、歩がト金に変わる。

相手の陣地に入った瞬間に力が増大し、強い影響力を及ぼす存在になる。

 

人に影響されやすいタイプの人は、この逆にあるのだろう。

僕も少なからずそうだった。

 

 

自分で考えていたことも、人に言われるのでは、

全く同じ言葉であったとしても、その影響力には大きな差がある。

 

なぜなら「私」と「あなた」という境界線を越えた瞬間に、

言葉は「化ける」からだと僕は考えている。

 

言葉を発信することの真骨頂は、ここにある!

 

 

 

自分の思っていることが、そのまま伝わればいいなんてサラサラ思っていません。

何より不可思議で面白いのは、ここに発信者側の人柄や表情、身振り手振り、

その人が成してきたものによって、化け方は掛け算式に増大していくし、

 

受信者側の過去の体験や受信時の心情によって、

言葉が加速し、芯に食い込んでいくエネルギーを帯びることもあるということ。

 

その姿は、発信者によって増強されうるし、

受信者によっていくらでも加速しうるものです。

 

だから、ある意味危険。諸刃の剣。

でも、コントロールできれば、こんなに面白いことはないぞ!

そう思ったのが、約8年前。

ちょうど海外にいきはじめたところでしょうか。

 

 

面白いやんか、言葉。

魅力的やんか、言葉。

深いやんか、言葉。

 

そう、だからこそ、今なのだ。

アクセル全開で、突進しようとしている今だからこそ。

私は、私に問いかけたい。

 

 

 

 

 

27年と10か月経った今だからこそ。

 

この世に生を受けて、もうすぐ28年。

昨年、生誕10000日目を突破した私は、午前8時の男なのだ。

 

人生の1/3が過ぎたのだろうか。

人生の1/4が過ぎたのだろうか。

 

僕は少なくとも80歳まで生きることになっているから、

一日で例えると、朝8時を回った頃だろうか。

 

 

朝8時。

世界が目を覚まし、動き出すとき。

太陽が顔を出し、草木が輝きだすとき。

 

あえてここで道草を食っていこう。

 

そんな余裕があってもいい。

 

傍からみると、手持無沙汰で時間の無駄遣いに見えるかもしれない。

でも、僕はまったく、まったくそうは思わない。

 

道草の上にしか存在しない「煌々」を知っているから。

 

その「煌々」をこれからも強く追い求めていくという思いを込めて、

ブログのタイトルを急に変更致しました。笑

 

 

 

自分自身を取り巻く感情と言葉で、徹底的に遊ぶ人生にすると決めた。

 

写真と言葉を通じて、人の役に立つ人間になると決めた。

 

 

写真を撮り、言葉を添えることで、物語は歩き出す。

 

撮影した分だけ、物語を生み出すことができ、

そのなかに過去の自分自身を投影し、

複数の空間で、複数の私を生きる。

 

一度きりの人生でも、

数万人の息遣いを耳にし、鼓動を感じ、感情に胸を震わせることができ、

数万人の時を生きる心地がするから。

 

見てくれる、読んでくれる、そして出会う人の心の中に、

特別な空間を生み出せるような存在に。

 

合わせて、少しずつ”私”という生き物を晒していこうと思う。

 

 

アタマノナカヲサラケダセ。

 

ミガケ、コトバ。

 

カガヤケ、イノチ。

 

 

1.〇〇力について

 

“〇〇力”と言われて、何を思い浮かべるだろうか。

 

例えば、観察力、分析力、コミュニケーション力、情報収集力、文章力等々、

磨いて損なし、百万力~♪な〇〇力ってたくさんある。

 

資格とかで、その実力を測定でき、公認されているような「語学力」とかは、

わかりやすくて伝えやすい。

 

でも、上記であげた「力」とされるものは、いったい何を基準に評価されるのだろうか。

何をもってして「力」と認定されるのだろうか。

 

メディアに取り上げられたら?

 

対価をもらったら?

 

職業になったら?

 

 

ん~なかなか難しい。

 

 

最近、考えていました。

 

このことを、ずっと。

 

 

 

自分のなかの合格ラインと世間が設ける基準の間には、差があって当然のもの。

 

目には視える、視えないは、正直関係ない。

でも、少なくとも自分のなかでの基準は、欲しいところ。

 

移り変わっていく私の「力」に対する“こだわり”を少し掘り下げてみました。

写真を切り口に色々と綴っていきます。

 

 

 

 

2.写真の力を見直す

 

写真の入り口は、「空間飛行」にあると私は考えている。

 

遠くで起きた出来事を近くの人に伝えることができ、

近くで起きた出来事を遠くの人に伝えることができる。

 

だから空間飛行。

 

 

ときに、距離を超えて。

ときに時空を超えて。

 

だから空間飛行。

 

 

 

SNSが当然の存在感を帯びてきた今、

写真が果たす役割は非常に大きいものになってきている一方で、

改めて価値を見直すべき「時代」に突入しているように思う。

 

スマホを開けば、各国に一瞬で精神旅行ができるようになった。

写真だけでなく、いろんな映像も飛び交っている。

だから、感じることがある。

媒体が「疲弊」しているような…。

 

 

同じような写真があたりを埋め尽くすと、

人はこだわりとかを持ち始めて、人とは違ったなにかを求めようとする。

それは当然。僕だってそう。

オリジナリティがある方がやっぱりかっこいいから。

 

でも、流行りに乗りかかろうとすると、結果“溢れる”ようになる。

「インスタ映え」という言葉をいろんなところで見聞きするが、

いったい何が何に映えるのか…いまだにわからない。

少なくとも心に映るものとしての“映え”にはなっていない。

 

誰が、どんな目的で写真を撮ろうが、なんだっていい。

でも、溢れすぎると、どこか危険を帯びるようになる。

 

感覚が麻痺しはじめたとしても、

自分を取り巻く大多数の人が同じような感じだと、気づけない。

だから危ない。

 

 

 

 

3.写真が果たす本当の役割

 

そこで考えたい。

 

空間を飛行するのは、

果たして、二次元の瞬間を捉えた一枚の画としてだけなのか?

 

 

 

そんなはずはない。

 

撮影者の思いや興奮、被写体の喜怒哀楽、空間の雰囲気まで、

空間飛行していく。

 

映え切らない写真が世のなかを埋めつくしているのは、

撮影時に魂を込めずに記録として撮る程度のものだからなのだろうか。

 

正直わかりません。

 

撮影力がある云々の前に、想いを込めて撮影しているかどうか、なんだ。

 

 

そこが、おそらく頭のなかで引っかかっている何かの正体な気がする。

 

 

撮影時の温度や振動、手触りさえも蘇るような、

空間のエネルギーさえも飛んでいってほしい。

 

現場で見たもの、感じたものを正確に再現できたら、それに越したことはない。

撮影者の細かい心境まで正確に体感できるようなサービス永遠に生まれないと思う。

一旦に触れることはできたとしても、百聞は一見に如かず、だ。

 

フォトグラファーとして歩み始めている身ですが、

人間が五感で捉えた衝撃や興奮まで、機械で再現できるものなのか。

その疑問はいまだにぬぐえない。

 

その葛藤は消えることはないけれど、

100%とはいかずとも、近づけることは可能であると思う。

 

写真に「付加価値」を与えるための武器として、手の込んだ編集技術よりも

ぼくは「言葉を添える」ことを選んだ。

 

 

 

 

4.こだわりの入り口

 

よって、写真は入口であって、出口ではないわけです。

 

ただ、後戻りのできない入口で、“迷う”は必然。

ある意味幸せなことだ。

 

 

「こだわり続けることができる」から。

 

 

 

自分が美しいと思う瞬間を切り取ることは、さほど難しいこととは思わない。

ただ、その“美しい”を成立させているその場を臨場感や音まで切る取ることは、

そう簡単なことじゃない。

 

 

ボクが目指す写真は「静止画が放つ音の解放」だった。

 

その瞬間に凝縮したエネルギーまでも掬い取ること。

視覚を超えた、写真を通して聴覚までも満足させる作品づくり。

そして、それを言葉によって、加速させることだった。

 

言葉を添えることで、写真が躍り始める。

 

そんな瞬間を創ろうと個展でもこだわってつくってきた。

 

 

 

そこにひとつの“こだわり”を追加しようと思う。

 

ぼくの力を仮に撮影力と文章力と置き換えるのであれば、

自己評価基準をひとつ追加することでもある。

 

 

「見たり、読んだりした人が幸せな気持ちになれること。」

 

 

出口のない道の上。

のぞむところ、こだわりの人生。

 

 

 

 

 

 

毎朝、下りのエスカレーターを使っていた。

横向きに乗ると、当然景色は斜め下へと流れていく。

 

 

壁には「転職」を促す広告がズラリと並ぶ。

 

“そうは言ってもなぁ…”

タメライとアキラメが混じったため息が聞こえてくる。

 

そのまま、目には見えない地下空間へと食い込んでいきそうな錯覚を覚える。

前日の疲れを残した悲壮感たっぷりのサラリーマンたちは、地下へと消えていく。

 

 

ありとあらゆるものが抜け落ちた朝だった。

 

無色透明であるがゆえに有害な朝だった。

 

きっと、このまま時は流れていくと思っていた。

 

でも、一歩踏み出せたから、新しい朝が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

1.この国の日常を包むもの。

地球の裏側の国では、日常を牛耳っていたのは”太陽”だった。

 

太陽とともに目覚め、太陽のもと汗を流し、

太陽が沈むのに合わせて、一日の活動は収束へと向かう。

太陽を崇め、祈り、自然とともにあることを誇りとしていた。

 

 

ここ日本では、日常を牛耳っているのは、いったいなんだろう?

 

「タスク」だろうか。

 

「時間」だろうか。

 

タスクに舵を握られ、追われ、こなしていくというライフスタイル。

主導権を握られているから、どこから来て、どこへ向かっているのか、

簡単に見失ってしまうのだと思う。

 

 

紛れもなく、僕自身も見失いかけていた一人の人間だった。

 

 

朝のひととき。

 

「あぁ、今日も一日が始まってしまった。」という、電車のなかに充満するあの空気感は、

無形文化遺産に登録されていいほど、端から見ていて、おもしろく、つらい。

 

いつしか、自分もそのおもしろつらい人のうちの一人になりそうで、

本当に怖かったのを、よく覚えている。

 

 

 

無防備。

 

スキだらけの夜明けののちに迎えた、「なんてことない平凡な朝」に安堵しつつも、

毎日これが続くとなると身体に悪い。

 

やはり僕は、病的なほどの回遊魚で、ちょっぴり危険を好む性なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

2.自分の住む世界は〇〇でできている。

無防備な夜明けを解体しよう。

その先に見えるものがあるかもしれない。

 

それと同時に、あらゆるものに対して無意識に投影している自分自身を、

浮き彫りにしてやろうと、ある朝、思った。

 

 

 

「僕が生きる世界は、何でできているんだろう。」

 

こう投げかけておいて、やっぱりすぐに答えはでてくる。

けど、検証してみたい。

 

 

僕が生きる世界は「言葉」でできているという仮定の上に立つ。

いや、やっぱり仮定もくそもない。

 

 

言い切ってやろう。

 

僕らが、正確には“僕が”住んでいる世界は「言葉」でできている。

 

 

人の言動が生む喜怒哀楽があるのなら、

それはどんなものであれ、できるかぎり「美しいもの」として捉えている自分がいる。

 

そう、無条件に希望が織り交ぜられた日常に生きていることに、気づく。

 

 

 

何を呑気な、よくそんなことが言えるな、そう思う人がいるかもしれない。

この思考回路を持つことができること自体贅沢で、恵まれていることは知っている。

 

それでも、この想いが足かせにならないのは、

同じような考え方や生き方をしている人たちと世界各国で出会ったからだ。

 

私はこのままでいいのだ、という確信にすでに変わっているのは、

振り向いてくれる人が一人でもいたら、「続けてみる価値のあるもの」と、

僕自身が身勝手な線引きをしたに他ならない。

 

 

だから、躊躇なくやめた。

 

自分に嘘をつき続けることをやめた。

 

そう吹っ切れた瞬間に、気持ちは面白いぐらい楽になった。

 

 

思い切ったね、とか

そう甘くないよ、とか

退職してから色んな人に色んなことを言われたけども、

僕からすれば、みんなの方がすごい。

 

自分自身に偽り続けることを選ぶことに、到底僕が耐えきれなかっただけの話。

その忍耐力がなかっただけ。

 

自分の在り方を、全力で肯定してやろう。

そうすれば、僕が住む地球(言葉でできた世界)は、再び自転するような気がした。

 

そして、その予想は間違っていなかった。

 

今まで綴ってきた言葉たちが、独り歩きをやめ、こちらを振り返り、微笑んだ。

顔を上げると、幾千の手が差し伸べられていた。

 

 

 

 

 

 

 

3.”言葉を紡ぐ”という価値。

言葉は、同じ時代に生きていたとしても、簡単にカテゴライズできるものではない。

それは言葉を操る使い手の人間に、依る。

 

同じ音であっても、決して同義ではない。

僕の「美しい」とあなたの「美しい」は絶対に均等ではなく、重さも同じなはずがないわけだ。

 

 

それぞれが独自で、それぞれが異常であって、“普通”的なものは、ない。
人が生きているだけで、唯一無二の個性であるのと同じ。

 

この非同義性が生まれるのはなぜか、

少しずつ解体を進めていきたい。

 

 

 

言葉や感情で成り立つ世界。

この言葉を、言葉として存在させている媒体はなんだろうか。

 

すべての言葉が何かしらの想いや思惑が練り込まれた完成形であるはずがなく、

知らぬ間に、手を離れ、この世に生まれた不届きな言葉もある。

勢いで書きなぐっているこの文章も、そのひとつかもしれない。

 

葉の上に垂れた一滴でしかない言葉も、大地に染み込めば、やがてそれは川となり、海となる。

たかが、大海の一滴、されど大海の一滴。

だからこそ、侮ってはいけないし、

その秘められたエネルギーには気づくべきだと、僕は思う。

 

朝起きて、顔を洗い、歯を磨くのと一緒で、

無意識のもと行われている習慣のひとつに、「言葉を紡ぐ」がある。

実際にタイピングしたり、口に出したりせずとも、

ものすごいスピード、音が行き交っている。

 

些細な言葉であったとしても、自分自身との対話をする上で、

ぼんやりとした感覚を外の世界に解放するには、やはり「言葉」がいるんだ。

 

そして、この紡いできた回数、時間に比例して、

ひとつの言葉に対する認識のねじれが生まれる。

 

 

 

 

 

 

 

4.言葉の栄養素

 

解体したパーツを離れて観察してみよう。

 

言葉を紡ぐためのエネルギーは、どこから生まれるのか?

 

言葉に栄養を供給するのは、何か?

 

 

木々が酸素を生み出すには、葉緑体や太陽の光、水分が欠かせない。

 

 

でも、言葉に置き換えたときはどうだろう。

特別な栄養素は必要になるのだろうか?

 

 

 

必要なものは、

 

「経験」?

 

「教養」?

 

「鍛錬」?

 

 

 

答えが思い浮かんでない状態で、ふと閃くようにして生まれた自問自答。

 

だいたい思いつきで始まる気まぐれな問いかけ。

でも、すぐに答えに到達しない方が、考える価値があるように思えて、面白い。

 

言葉に栄養を供給しているのは、あくまで僕自身のなかでは、

言葉が持つ可能性を知っているがゆえの「こだわり」に過ぎない。

 

これが無限の栄養を供給しているのは確かだ。

言葉に対する執着心と言葉が持つ可能性に懸ける想いがあってこそのもの。

 

なんてことないドレミファソラシドも

組み合わせとテンポで、語り継がれる旋律になる。

それと同じで、言葉も組み合わせ次第では、計り知れない爆発力を持つ。

 

そのポテンシャルを知ってるがゆえに、

丁寧に紡ぎ続けることで、見えてくるものがあったから、こうして続けているのだと思う。

 

 

使い慣れた言葉を丁寧に見つめ返し、静かに織り込んでいく。

出来上がった布は、何よりも暖かく、柔らかく、安心できる香りがした。

 

父のように丈夫で、母のように優しかった。

 

 

だからこそ、紡ぎ続けるエネルギーは無限に湧いてきて、

僕が住む世界は少しずつ強く、優しくなっていった。

 

 

 

 

言葉にこだわり始めてから、強く思うようになったことがある。

 

「よくわからない人生はいやだ。」

 

 

捉えきれない感情に”納得”という文字のハンコは押せないということ。

細かい条件とかを見ずして、怪しい保険に加入するようなもの。

 

自分自身を駆り立てる何かがあるのなら、はっきりとその存在理由を知りたい。

 

「やりたいこと」

「やっていること」

「できること」

 

三拍子の調律がとれて初めて、言葉を使って奏でる自由を得ることができる。

 

 

駄々をこねる子どものような表現でも、素直に

せっかくなら、自分が過ごした時間を大好きだったと言って、旅に出たい。

 

その願望があったからこそ、多くの人と出会い、多くの価値観に触れて、自分が生きる世界を知り、

自分がどこから来て、どこへ向かうのかを、推し量ったのだった。

 

その願望があったからこそ、多くの国を歩き、アフリカに浸かり、

人間とは何かを考えたのだった。

 

 

 

いろんな要素が記憶を構成するのと同じで、

複数に分化した自分の「中心地」にはいったい何があるのかを、知ろう。

 

吐息と同じように、体のなかで織り込まれた言葉を丁寧に吐き出していく。

 

きっと見えてくる呼吸の色がある。

 

挽きたてのコーヒーのように香ばしかったり、

小川のせせらぎのように、透き通っていたり。

 

 

 

 

 

 

 

5.伝えるということ

衝動に対する「許容」と「自制」

 

無意識のうちに選択できるものと、意識しないと選択できないものがある。

 

偶然掬い上げた一瞬の感情かもしれない。

でも、その衝動に込められている自分の本音を大切にしたい。

 

通り過ぎていく気持ちそのものに心臓は宿っていない。

胸の中にあるうちに血液を送らないと、

数時間で、いや、数分で死ぬ。

 

一時のひらめきや、思いつきが、大きなパンチ力を持つのと同じで、

一過性を帯びる物質にも、れっきとした存在理由と価値がある。

 

 

言いたいことを、表現したいように、表現していいのか?

 

 

本来は、網に引っ掛かった言葉を、そのまま机上に並べるのが気楽だし、シンプル。

 

でも、そこに「多くの人に伝えたい」が入ると、カタチは変わらざるを得ないのだろうか。

 

「多くの人に伝えたい」というと、使命感のように聞こえるけども、

求めていない人からすると、それは一方的な強要でしかない。

 

受け手の受け皿のカタチや深さを一切考慮せずに言葉を解放すると、

上から降り注ぐ言葉の洪水に耐えきれる人だけが残る。

 

だから、”丁寧”に解放する必要がある。

 

 

 

個性を消さずに、より個性的に生きていく時代の到来。

面白い。

 

 

 

無防備な夜明けが、地平線の上に顔を出した。

 

気づけば、あっという間に陽は上り、昼を迎える。

 

 

現実世界こそ、美しい。

だからこそ、言葉でできた世界のなかで、深呼吸して老いていきたい。

 

 

太陽を押し上げ、月を出迎える地平線の気持ちが、

今なら少しわかる。

 

ご報告が遅れましたが、3月25日をもって、

フォトエッセイ展 『憩-Ikou-~ねいろ横丁の住人たち~』が終わりました。

 

初めて海を渡った8年前の夏から数えて、

多くの国に足を運び、感じ、考え、見つめ、愛し愛され、優しさを受けた。

言葉で言い尽くせないほどの経験と変化が、この8年には凝縮していたような気がする。

 

その8年の集大成として、

私個人の想いを、ねいろ横丁の住人たちに代弁してもらいました。

 

 

初めて挑んだフィクション世界と現実世界の融合。

昼夜逆転しながらも、毎日必死に、本当に必死になって、

言葉を紡ぎ、ほどき、練り直しては引き延ばし、

実体のない物質を手のひらの上にのせ、見つめるような、途方もない作業をしてきました。

 

でも、無事に終わりました。

 

様々な方との出会いがあったから、この作品は生まれました。

ある意味、川崎芳勲の人生には必然として現れた作品だったように今は感じます。

 

応援してくださった方々、

心の底から、ありがとうございました。

 

そして、来てくださった方々、

ボクのために貴重な時間を割いていただき、本当にありがとうございました。

みなさんとの対話で生まれたこの感覚を忘れないうちに書き残しておきます。

 

以下、前回の投稿の続き、個展の意義の再発見について。

 

 

 

 

4度目の個展にして、初めて気が付いた感覚がありました。

 

「対話による急激な理解の深化」について。

 

 

 

個展の会場にずっと在廊していたこともあり、

足を運んでくださった方々には、必要であればかなり細かく説明をさせていただきました。

 

時間が許せば、作品についてだけでなく、

写真の撮影背景や各国の情勢や各都市の細かい様子までお話しさせていただきました。

 

お一人ずつじっくり時間をかけて話せればそれに越したことはないですが、

そうもいかないので、じっくりと、できる限りの時間を過ごしていただけるように意識しました。

 

そんななかで、重ねていった対話。

作品に対する説明は一方的にするわけでもなく、お客さんからの質問にも答えます。

気づいたことがひとつ。

 

 

 

 

多くの「Why? How?」の質問を受けて、作品への捉え方が変わっていきました。

 

もちろん100%オリジナルの作品です。

 

自分自身で産み出した我が子です。

 

 

細部にもこだわって言葉を選びました。

 

足を運んでくださった方々の作品に対する解釈が、この作品の終着駅ではありますが、

少なからず、ここに気づいてくれる人どれだけいるかなぁ~?っていう、

作品のカラクリを理解するためのキーワードや布石になるものを、おそらく100個以上仕掛けました。

 

 

 

意図して、つまりは計算して組み合わせた言葉も上記で示したように、たくさんあります。

 

でも、無意識にあふれ出た言葉のなかに、

予期せぬ深層心理が織り交ぜられていました。

 

自分のなかで当たり前に出てきた言葉も、間違いなく過去27年間の経験のなかの偶然の産物に過ぎません。

 

 

でも、自覚症状がまったくなかった。

だからこそ、ギャラリーに来てくださった方々との問答のなかで、

我が子は飛躍し、まったく予想だにしない表情でこちらを振り返ったように思えました。

 

過去3度のフォトエッセイ展では、ここまでの感覚を得たことはなかったのは、

ある意味、蓄積の途中だったせいか、

もしくは、発信の質量が一定のラインを超えていなかったせいか、

 

いずれにしろ、春がじわじわと細胞に染み込んでいくように、ソレはやってきたわけだった。

 

 

 

 

「行ってきます。」

 

産み落とした我が子は、もう独り歩きを始めている。

二度と書き起こすことができない、今、全力の、最大限の何かが手元を離れた気がした。

 

 

 

 

僕の中での「人間」の定義。

 

“想いを言葉にのせて、解放する自由を持つこと”

 

抽象的で、実体のない定義であるように自分自身でも思う。

現時点では、これ以上の言葉は見つからない。

でも、どこから来て、どこへ向かうかは、なんとなくわかる。

 

 

自由はときに、諸刃の剣になる。

しっかりと手綱を握りしめておかないと、暴走しかねないところも多分にある。

 

ただ、この感覚を面白いと感じてやまない自分がいる。

こんなに面白いことを一生続けていいんだ、そう感じたときは、

涙が出そうになるような、胸のなかで何かが飽和状態に入った気がした。

 

これを守ることができる人生を、価値を置ける人生を送ることに、強い意義を感じる。

そして、生まれ変わったとしても、ボクはまた人間に生まれ、同じことをするはず。

 

晴れて人間になったことによって、見えてきた新たな自分の役割があった。

これは、また次回の投稿にでも。

 

 

 

「仕事」辞めて、「人間」始めた。

 

憩、今まで、ありがとう。

 

羽ばたけ、そして、また地球のどこかで。

 

 

 

あと数日で4月になる。

 

次第に暖かくなって、草花が起き始め、

ぼくらは、わかりやすく”春”がやってきたことを知る。

 

 

始まりの季節だ。

 

何かが始まるということは、興奮と緊張が入り混じる。

何かが終わるということも、また同じ。

 

古い記憶や関係に別れを告げ、新しい自分を育むために土慣らしをする。

 

 

種まきはすでに終えただろうか。

 

水やりの準備はしただろうか。

 

肥料は手元に用意できているだろうか。

 

 

よりよく咲きほこり、視覚からの心地よい風を、心は待ち望んでいる。

だから人は、花を美しいと感じる。

 

心を込めて育てれば育てるほど、不思議と美しく見えてくるから、素晴らしい。

 

 

 

季節が移り変わっていくのに、明確な境界線などない。

というより、必要ないのかもしれない。

 

暖かくなってきたと思ったら、急に冷え込むあの気まぐれさから考えても、

Mr.季節は境界線に存在意義を求めてなどいなかった。

 

ただ、「変化の兆し」は与えてくれる。

そこが彼らの優しさなのかも、なんて思ったりする。

 

 

 

 

自分自身の変化はどうだろう?

 

身長や体重のように、数値化できるような変化ばかりで、日常は成り立っていない。

 

目には見えないがゆえに、「気づいたら変わっていた」ことがほとんどだったりする。

 

少しずつ蓄積されていき、ある到達点を過ぎると、実感がじわじわと湧く。

だから季節と同じで、明確な境界線はなく、

昨日のボクは今日にはおらず、明日のボクは、今日のボクとは別人だ。

 

常に更新され続ける自我が、孤独に年輪を重ねていった。

 

 

 

 

2017年12月末をもって、9ヶ月働いていた会社をやめて、

フリーランスカメラマンとして生きていく決意をした。

 

自分がやりたいこと、できること、それに対して実際にやっていることの乖離が激しくて、

居ても立っても居られなくなったのが理由です。

他に大きな夢があって、はっきり目標があったのに就職したのは、

なぜでしょう、自分の気持ちを試したかったのだろうか。

 

 

「たった9か月かよ、我慢がならねえな。」

 

「3年働かないと、次の再就職厳しいんじゃない?」

 

世間はそう言うかもしれないが、僕からすれば、判断がちょっと早まっただけで、

微塵も後悔はしていない。

 

むしろ、やめてこの三か月で生むことができた変化を考えれば、

なぜ9ヶ月も悶々と時間を過ごしてしまったのだろう。

 

その後悔の方が強い。笑

 

 

 

今は、撮影・コンサル・ライター・講演など自分ができることは何でも引き受け、チャンスをつかんでいます。

少しずつ、焦らず、でも着実に実績を作りながら、時間を有効に使っています。

 

前回、前々回の投稿で紹介しましたフォトエッセイ展ですが、今日が、個展最終日。今はお昼の13時前。

 

あっという間に時間は過ぎ去り、今日で終わってしまうのも寂しい気がしますが、

せっかく産み落とした卵の行方を見守りたい気持ちもあるので、

東京でも同じ内容をやるかと思われます。乞うご期待。

 

 

 

 

そう、個展5日目にして感じたことがある。

 

“個展をやる意義”の再発見についてだ。

 

 

 

今回は、4回目のフォトエッセイ展。

ボクのなかでは過去に4人の子供を産み落としてきたことになる。

 

今までは(正直今でも?)、多くの人に見てもらいたい、という想いから、

個展に足を運んでくれた「人数」ばかりに気を取られていた。

 

 

確かに、それも大事!!

 

仮に、“来場者数ゼロ”となってしまったら、

せっかく時間をかけて編み出したセーターを、誰にもプレゼントせずに、

ゴミ箱に捨てるようなものだから、ちょっとモッタイナイと思わざるを得ない。

 

でも、創っていく過程が何より楽しいから、雑巾を絞るように、言葉のエキスを絞り出していく。

想いを一滴ずつ抽出する行為を、ボクのなかでハッキリと優先していた。

 

 

 

もちろん、個展をやる理由は、それだけではない。

 

再会と新しい出会いの場として、感謝の気持ちを示す場として、個展は機能していたように思う。

 

 

15年ぶりに会いにきてくれた友人もいた。

友人の紹介で来ましたと、新しい出会いも満載で、作品やボクの生き方に対する良き理解者にも出会えた。

 

 

「そういう場所でいいんだ。」

 

そう心から思います。

 

 

SNSでフォローしあっていて、

あぁ、あいつはどこでどんなことをしているんだと把握していても、

あくまでその情報は大海の一滴でしかなく、

事実、日本で生活しているにも関わらず、ボクは常に旅をしている人間だと、

よく勘違いされる。(I Love Kobe)

 

そう、いつでも会える距離や、いつでも連絡できる距離に人はいつしか安堵し、

対面で温度を感じる重要さを忘れつつある。

 

人生の時間なんて限られているから、もう二度と会えない人だって、きっといる。

いつでも会えるっていうあの感覚は捨てた方がいい。

明後日予定があっても、明日死んだらどうしようもないんだから。

 

 

 

個展の会場がいつしか、様々な“再び”がギュッと凝縮した場になっていた。

記憶を掘り起こし、いつの日かの思い出を再び語り合う。

学生時代の夢はどうだった?再び自分に質問を投げかけあったり。

 

人数を重要視していた姿勢は、

“思考の区切りをカタチにすること”と“場の提供”へと姿を変えていった。

 

 

 

しかし、今回新たな意義を見つけた。

 

「対話による急激な理解の深化」について。

 

 

 

 

次回へ続く。

 

 

 

 

こんにちは。

大阪は福島の個展会場より、川崎ですん。

しとしと雨が降っておりますが、ご機嫌いかがでしょうか。

 

個展直前に、講演があり、別の仕事でアップアップになっていまして、

17日個展開始日当日、設置完了後に貧血気味になり、

死ぬかと思いましたが、なんとか持ち直しまして、3日目です。

無理していた気は全くなかったのですが、体は悲鳴をあげていたんですね…
気をつけます。

 

今回の個展は、

完全なるフィクションと写真のコラボというわけで、

産みの苦しみが強かったので、難産からの産後の体調不良ということで、

腑に落ちました。笑

 

◆大阪・福島でのフォトエッセイ展情報

『憩-Ikou」~ねいろ横丁の住人たち~』

日時:2018年3月17日(土)~3月25日(日)
   12:00~19:00
   ※3月19日(月)は休み

場所:STUDIO COOTE GALLERY
   http://coote.club/
   〒553-0003 大阪市福島区福島1-5-18
   大阪環状線福島駅より徒歩5分

   JR東西線新福島駅より徒歩3分

      阪神福島駅より徒歩1分

 

 

◆JICA関西での個展情報はこちら(→現在展示中です。)

 

HAT神戸にあります、JICA関西でも写真展が開始しました。
ショートエッセイ付の写真を20枚ほど展示させていただきます。

在廊はしておりませんが、近くに県立美術館もありますし、
約2か月間展示させていただきますので、神戸に来た際には、ぜひお立ち寄りください♪

 

『彩風-イロカゼ- ~Color of Life~』
日時:2018年2月17日(土)~4月8日(日)
場所:JICA関西 1階ロビー
   〒651-0073
   兵庫県神戸市中央区脇浜海岸通1-5-2
   https://www.jica.go.jp/kansai/office/access.html

 

 

フォトエッセイ展『憩』ですが、

今回は仮想世界と現実世界のコラボレーションです。

 

世界40ヵ国を歩いてきましたが、

自分のなかで膨らんでいったある仮説を描き、それを仮想世界として書き起こしました。

そして、その仮想世界に実際に存在する人を登場人物として招待しました。

 

以下、個展紹介文です。

 

==========

 

~『憩』ができるまで~

 

世界40ヶ国以上を旅してきました。

雨が降らない乾いた村、迷宮都市、嵐が毎日来る島、鐘の音が響き渡る街…

爽やかな風が、けたたましく震える音とともに、体を突き抜けていきました。

 

各国で写真を撮影していくなかで、無意識に惹かれる人がいました。

彼らの神妙な表情を切り取るために、地面に伏せて何十分も待つこともありました。

その一瞬に宿るエネルギーに魅了されて、カメラを握るようになりました。

 

彼らがまとっていた特殊な雰囲気を感じ、頭に自然と浮かんできた考えがありました。

「本当に何かしらの能力がある人たちなのかもしれない。」

特別な力が働いて、この世界の“歯車”が回っているとしたら、

世界の秩序を支えているのは、この人たちなのでは…?

 

狂いつつある世界を調律する者のみが、立ち入ることを許された空間が、

この広い広い世界の片隅に、きっとある。そう信じるようになりました。

 

太陽が昇って、月が沈んで、太陽が沈んで、月が昇って。

「そんな当たり前すぎる日常を支えているのは、実はボクらだ。」

そんな声が聞こえた気がした。それが始まりでした。

 

カラス(太陽)とウサギ(月)と住人たちのいる横丁は、

明るく希望に満ち溢れ、活気があって、どこか懐かしい香りがしました。

 

各国で自分が生み落としてきた卵は、静かに孵り、歩き始めていました。

もちろん、再び足を運び、その地を訪れても化身が存在しているとは限りません。

でも、ふとした瞬間に、予期せぬ場所で過去の自分と対峙するから、おもしろいんです。

 

だから、旅はやめられません。やめるつもりもありません。

ボクは一生、地球を歩き続け、撮り続け、言葉で遊び続けることを、やめないでしょう。

すくい取った自分自身との“対話”を、そっと、住人たちに託しました。

 

ねいろ横丁にて、憩う。

 

==========

 

今日で3日目。

もし、このブログを見てくださっている方々のなかで、

お近くにお越しになる予定がある方は、ぜひお立ち寄りください!

 

個展開催中は、私HIROはずっと在廊しております。

平日なので、のんびりお話しができるかと思います。

協力隊に興味ある人はもちろん、写真や旅、本などに興味ある人も、

大歓迎です♪

 

会場はカフェギャラリーとなっていますので、

ゆっくりお茶をのみながら、楽しんでいただけると思います。

 

お待ちしております♪

 

 

 

ご無沙汰しております。

 

協力隊を終えて帰国して、すでに1年半以上経過しており震えておりますが、

ご報告したいことがたんまり、HIROです。

 

形骸化しつつある当ブログですが、毎日20~30のアクセスがあるのを見ると、

書かなきゃ、うん、書こうと毎度思うのですが、

あれよあれよ時間は過ぎ、なんと次の個展の宣伝になってしまいした笑

 

タイトル通り、4度目の個展を実施します!

そして、なんと今日から!!!!笑

 

大阪・福島でのフォトエッセイ展情報

『憩-Ikou」~ねいろ横丁の住人たち~』

日時:2018年3月17日(土)~3月25日(日)
   12:00~19:00
   ※3月19日(月)は休み

場所:STUDIO COOTE GALLERY
   http://coote.club/
   〒553-0003 大阪市福島区福島1-5-18
   大阪環状線福島駅より徒歩5分

 

大阪のオサレなカフェギャラリー、カフェクートさんのもとで、

本日3月17日より実施予定です。

 

 

そしてそして…

実は、神戸でも個展開催中です。笑

 

JICA関西での個展情報はこちら(→現在展示中です。)

 

HAT神戸にあります、JICA関西でも写真展が開始しました。
ショートエッセイ付の写真を20枚ほど展示させていただきます。

在廊はしておりませんが、近くに県立美術館もありますし、
約2か月間展示させていただきますので、神戸に来た際には、ぜひお立ち寄りください♪

 

『彩風-イロカゼ- ~Color of Life~』
日時:2018年2月17日(土)~4月8日(日)
場所:JICA関西 1階ロビー
   〒651-0073
   兵庫県神戸市中央区脇浜海岸通1-5-2
   https://www.jica.go.jp/kansai/office/access.html

 

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はい、話を戻しますが、本日3月17日より実施予定の個展。

サブタイトルを見て「あれ?」と思った人もいるかもしれません。

 

お気づきの通り、今回はフィクション世界をエッセイで描いております。

しかし、もちろんタイトル通り、フォトエッセイ展ということで、

写真も展示させていただきます。

 

そう!

今回は仮想世界と現実世界のコラボレーションです。

 

世界40ヵ国以上を歩いてきましたが、

自分のなかで膨らんでいったある仮説を描き、それを仮想世界として書き起こしました。

そして、その仮想世界に実際に存在する人を登場人物として招待しました。

 

四度目の個展でもちろん初の試み。

そしてやってみて、思った。

 

 

 

非常に面白い。笑

 

 

 

可能性が広がっていくことが、手に取るようにわかった。

 

構想2か月、実働2か月と合計4か月準備に費やしました。

それだけ想いの込めた作品になっています。

 

以下、この個展を開くにいたった経緯をまとめた文を紹介します。

 

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~『憩』ができるまで~

 

世界40ヶ国以上を旅してきました。

雨が降らない乾いた村、迷宮都市、嵐が毎日来る島、鐘の音が響き渡る街…

爽やかな風が、けたたましく震える音とともに、体を突き抜けていきました。

 

各国で写真を撮影していくなかで、無意識に惹かれる人がいました。

彼らの神妙な表情を切り取るために、地面に伏せて何十分も待つこともありました。

その一瞬に宿るエネルギーに魅了されて、カメラを握るようになりました。

 

彼らがまとっていた特殊な雰囲気を感じ、頭に自然と浮かんできた考えがありました。

「本当に何かしらの能力がある人たちなのかもしれない。」

特別な力が働いて、この世界の“歯車”が回っているとしたら、

世界の秩序を支えているのは、この人たちなのでは…?

 

狂いつつある世界を調律する者のみが、立ち入ることを許された空間が、

この広い広い世界の片隅に、きっとある。そう信じるようになりました。

 

太陽が昇って、月が沈んで、太陽が沈んで、月が昇って。

「そんな当たり前すぎる日常を支えているのは、実はボクらだ。」

そんな声が聞こえた気がした。それが始まりでした。

 

カラス(太陽)とウサギ(月)と住人たちのいる横丁は、

明るく希望に満ち溢れ、活気があって、どこか懐かしい香りがしました。

 

各国で自分が生み落としてきた卵は、静かに孵り、歩き始めていました。

もちろん、再び足を運び、その地を訪れても化身が存在しているとは限りません。

でも、ふとした瞬間に、予期せぬ場所で過去の自分と対峙するから、おもしろいんです。

 

だから、旅はやめられません。やめるつもりもありません。

ボクは一生、地球を歩き続け、撮り続け、言葉で遊び続けることを、やめないでしょう。

すくい取った自分自身との“対話”を、そっと、住人たちに託しました。

 

ねいろ横丁にて、憩う。

 

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今日から開催するにあたって、遅すぎる告知ですが、

もし、このブログを見てくださっている方々のなかで、

お近くにお越しになる予定がある方は、ぜひお立ち寄りください!

 

個展開催中は、私HIROはずっと在廊しております。

協力隊に興味ある人はもちろん、写真や旅、本などに興味ある人も、

大歓迎です♪

 

会場はカフェギャラリーとなっていますので、

ゆっくりお茶をのみながら、楽しんでいただけると思います。

 

お待ちしております♪

 

 

 

ひぐらしが鳴き始めて、やっと「夏が来たんやな」と実感してる今日この頃。

あちい日が続いていますが、

めっちゃお久しぶりです、一人情熱大陸こと、川崎です。

 

しばらーく放置していたブログ、今後ガンガン書いていく復帰一発目に、

告知!!笑

 

 

テーマ:「語-katari-~小さな物語が世界を創る~」

日時:2017年7月29日(土)、30日(日)
   2017年8月5日(土)、6日(日)
   10:00~21:00
   ※週末のみの開催で、

     最終日のみ20:00閉館とさせていただきます。

場所:谷六Village

          http://www.taniroku-village.com/
     大阪市営地下鉄谷町線「谷町六丁目駅」から徒歩5

 

もう先週末から、始まっちゃってる後手後手の告知ですが、

今週末も大阪で三度目の個展を開いています。

 

このブログをご覧頂いていた方々、

偶然ページをご覧頂いた方々、

クーラーの効いた古民家で、言葉と写真で良い思い出作りましょ♪

 

せっかく来ていただいたのに、のんびりできないギャラリーは面白くないし、疲れる!

ということで、今回は古民家を貸し切っての個展です♪

 

写真はもちろん、今まで通り、想いを練り込めたエッセイや動画、

フォトエッセイブックや写真販売等も行っています。

 

ぜひぜひ遊びに来てください♪

 

以下、Facebook上ではありますが、イベントページと僕のFacebookページです。

 

 

Facebookイベントページ:

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