いきるって、こういうこと。「ある精肉店のはなし」を見て。 | ゆるぎなく たゆたう

ゆるぎなく たゆたう

つながる いきる 私のからだ 


「ある精肉店の話」 


この映画、ずっと見たかったのです。



見終わっての感想はずばり、いい意味で期待を裏切られました。
ぐわぁ、そこですか。。。

矢がささって核心を突かれたというより、とても広くて大きいものに、核心を包み込まれたよう。


生きる。ってこういうこと。

今の時代を生きる。



ある精肉店のはなし




サブタイトル?に「いのちを食べて いのちは生きる」とあるように(実はさっき知った)

食肉を通しての「いのち」の話かと思っていました。


スーパーに並んでいる「お肉」になる前の姿、私たちはこういうのを食べているんだよ。
いのちをいただくことのありがたさ。


みたいな話を想像していたのです。
たしかにそれもある。

でもそれだけじゃなかった。


いのちを生きる、だけじゃない。
生活する。

生きる。活きる。
ってこういうことなんだと思った。





上映後にあった、纐纈あや監督のお話で印象的だったのが、

 誤解を怖れずに言うと屠畜解体は美しいもの。
 機械化されて無機質なものではなく、残酷でも冷酷でも、暗くもない。
 そこを表現したかった。

というようなことを仰っていたこと。

それはとても伝わった。






牛の飼育から、屠畜解体、食肉としての販売。
それを一貫(一環)して家族で行う。


その仕事は、それ以下でもそれ以上でもない。
ただ、そういうこと。





残酷だとか、可哀想だとか、そういうことではなく

いのちと真剣に向き合う、尊い仕事だと思っていたけれど
事実そうなんだけれど、そういうことでもなく
それよりも

ただ、そういうこと。


いきる。ってそういうことなんだと思う。




北出家(主人公の食肉店)のみなさんの生活を通して見て、そう思った。






いのちって、美しい。

いきるって、美しい。

北出家のみなさんは幸せだな。



エンドロールが流れている時、そんなことを感じていたら

私も幸せだ。あぁ、ということは、今この会場にいるみなさんも幸せなんだな。
と思った。


それは同じ映画を見たみなさんも、幸せを感じているだろうというわけではなく、
私が幸せなら、周りみんなが幸せなのは当然。というか。

静かに当たり前すぎに感じて、不思議だった。


これが、いのちはつながっている。ということ?
なんて考えるときりがないので、やめ。




それ以上でも、以下でもない、私の感じたこと
でした。