備中高松城 | あさの気ままなブログ

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ま、たまにみてやってください。

2015年05月04日(月) GW旅行その4

尾道ラーメンを堪能し、宿泊地の岡山に向かう。
ちょっと時間があるので、100名城にはありませんが、
秀吉・官兵衛の水攻めで有名な備中高松城跡へ。

って、ほとんど何も残っていないw




こちらは水攻めの案内板


花菖蒲がお出迎え


本丸跡




清水宗治公の首塚


そして辞世の句碑



資料館があったけど、見ることができず^^;


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備中高松城(Wikiより・・・)

別名:なし
備中国高松(現・岡山県岡山市北区高松)に存在した日本の城。城の形式は梯郭式平城で、石垣は築かれず土塁によって築城されていた。城の周囲は低湿地帯でこれらが天然の堀を形成していた。

松山城主・三村氏の命により、備中守護代で三村氏の有力家臣でもあった石川氏が築いた城である。1575年の備中兵乱で石川氏が主家三村氏とともに毛利氏に滅ぼされた後は、清水宗治が城主となった。清水宗治は備中兵乱の際、石川氏の娘婿・重臣でありながら主家を離れて毛利氏に加担したが、清水宗治が城主となった経緯は不詳である。石川氏滅亡以前より宗治が城主であったともいわれる。

1582年、織田信長の家臣・羽柴秀吉は中国攻めの先鋒を任され、4月、高松城攻め(備中高松城の戦い)にかかった。高松城の周囲は沼地に囲まれ難攻不落を誇っていたため、攻城戦は持久戦となった。5月8日(5月29日)に入り軍師・黒田孝高の献策により城を堰堤で囲むという、攻城というよりむしろ土木工事といえるものが開始された。これにより低湿地にあった高松城を水没させようというものである。世に言う「高松城水攻め」である。人夫に過分な金子を与え突貫工事で11日後に堤防が完成。折しも梅雨時で堰堤内には水が溢れ城は見事に水没した。



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