津城 | あさの気ままなブログ

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中高生2人の娘を持つアラフォー親父です。
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基本的に食べ物(特にラーメン)か、城めぐりを中心に更新します。
ま、たまにみてやってください。

2014/09/14(日)三重日帰り旅行の続き

松坂城を出ると、既に夕方でしたが、現在に住んでいる元同僚と
9年ぶり?の再会のため、津市へ。
待ち合わせは津城(笑)

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改修者の一人、藤堂高虎公が留守番をされておりましたw

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現在は公園となっており、ちょこっとだけ立ち話。
ずいぶんと久しぶりに会ったのに、全然変わってないな。
こっちはこんなに老けこんだのに(笑)

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津城(Wikiより・・・)

別名:安濃津城
三重県津市丸之内にあった輪郭式平城。

津城の起源は戦国時代の永禄年間(1558年 - 1569年)に、長野氏の一族の細野藤敦が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたことに始まる。1568年、織田信長の伊勢侵攻により織田掃部頭(津田一安)が入城。翌年には織田信包が入城した。信包は城郭を拡充し、石垣を普請し堀を巡らせて、本丸・二の丸・三の丸を整備した。1577年には5重天守と小天守を落成した。

豊臣氏の時代になると、1594年信包は秀吉の命により丹波国柏原へ移され、翌年、豊臣氏家臣の富田一白が5万石(6万石とも)を与えられ入城した。一白の子、信高は1600年の関ヶ原の戦いで東軍につき、西軍方の毛利秀元・長宗我部盛親軍3万の軍勢に城を攻撃された。迎える信高軍は1,300人と劣勢であったため苦戦を余儀なくされ、城内の建造物の大半を焼失した。奮戦の末、木食上人の調停により開城となった。しかし、この奮戦により戦後、江戸幕府より2万石の加増を受けた。(安濃津城の戦い)

1608年信高は伊予宇和島藩に移封となり、代わって伊予今治藩より藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石をもって入城した。高虎は城の大改修に着手し輪郭式の城郭に変貌させ、城下町を整備した。以後、明治維新まで藤堂氏の居城となった。大坂の役の功により、1615年と1617年に5万石ずつの加増を受け、藤堂氏は32万3,000石の大大名となった。


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