これまた2カ月も経過しましたが、ようやくブログ書きます(^^ゞ
2014/08/16(土)日帰り弾丸城攻めツアー。
朝4時前に福井を出発、最初の目的地はここ「吉田城」
愛知県豊橋市の豊橋公園にあり、公園内なので朝6時半すぎでも
普通に入れました。
車を停めて、公園内を歩いていくと、ウォーキングされている方がちらほら。
どんどん公園の奥に入っていくと、門を発見。
中に入ると、鉄櫓
結構、石垣が残っています。
豊川の対岸からみると・・・
まさに背水の陣!!
吉田城(Wikiより・・・)
別名:吉祥郭、峯野城、歯雑城
1505年に宝飯郡の長山一色城主・牧野古白が今川氏親の命により、渥美郡馬見塚村(豊橋市今橋町。現在の同市馬見塚町とは位置が異なる。)の入道ヶ淵に臨む岡に築城したとされる。1506年松平氏と今川氏の戦いの後、牧野古白・野瀬丹波が討死。今橋城から近い東方の二連木城(豊橋市仁連木町)や半島の田原城に拠点を持つ戸田氏と、牧野氏が争奪戦を繰り返すため城主が次々と入れ替わった。
1529年、西三河から松平清康(長親の孫)が進出し吉田城を攻略。戸田氏まで屈服させて、三河支配権を、ほぼ確立させた。しかし、1535年には清康が横死して松平氏の直臣の城番が撤退、かわって非直臣の城番の一人牧野成敏がそのまま城主となるが、1537年には牧野氏を追った戸田宣成が城主となった。
1546年、牛窪城主(長山一色城主)の牧野保成の要請を請けて今川氏が戸田宣成を攻めて吉田城を陥落させ、これを管理下に置いた。1560年、今川義元が桶狭間の戦いで討たれると支配力を低下、次第に歯止めが利かなくなる。1565年には、今川氏を離反した松平家康によって攻略され、小原鎮実は退避。今川氏は三河支配権を喪失する。豊川を後背地とする背水の陣となるのを嫌ったのか、家康は本城として用いずに信任の厚い重臣の酒井忠次を城代に任命。
1590年、豊臣秀吉により家康が関東に移封されると、池田輝政が東三河4郡を統べる15万2千石の城主となった。輝政は吉田城および城下町の大改築や吉田大橋(豊橋)の架け替えを行った。整備は11年間にわたって行われたが、関ヶ原の戦いの翌年1601年に輝政は播州・姫路に移封された。