松茸の時期も終わっただろうと、太尾山城に行ってきました。


太尾山城。

鎌倉時代に東山道・北國街道を抑える目的で、近江守護・佐々木氏によりこの地に築城された、といわれている山城です。その後、鎌倉末期には佐々木高氏(バサラ大名・京極道誉)の支城となりましたので、おそらくこの時期に大改修が行われたのではないか、と推測できます。(理由? 太平記の時代に大軍勢が往復した東山道・北國街道が丸見えの城を手に入れて、道誉が手入れしないとは思えないもん。すぐ近くの番場宿で道誉が六波羅探題・北条仲時を討った時も、ここから出陣するのが一番理にかなってると思うしね。)戦国時代に入って、この地は六角氏と京極氏・浅井氏間の争奪戦の場となり、両勢力間の境目の城として重要なものになりました。最終的には浅井氏が抑えたのですが、例に違わず織田信長により灰燼に帰しました。

城としては単純な山城で、細長い尾根筋に階段状に郭を配置したものです。ただ、主郭が南北2つのピークに別個に設けられており、「別城一郭」と呼ばれる構造をしています。遺構はフルセットあり、堀切・竪堀・横堀・土塁・櫓台・説明板があります。



多賀の田舎もんのあれやこれや


米原駅から見る「太尾山城」。新幹線からも在来線からも見えます。

写真の山の全体が城域となりますが、今回の記事は、南側ピークにある「太尾山南城」のものです。



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現地案内板の縄張図。

太尾山は全体がハイキングコースになってますから、特別な装備無しでも、簡単に登れます。でも、松茸山に入っちゃダメよ!



さて、では行ってみますか。


案内板の「現在地」から湯谷神社を抜けると、そこはもう城域。


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太尾山城の濱田口です。

ごらんの通り、広めの道が整備されてますから、登るのは楽勝(*^o^*)


と思いきや、この先は九十九折れで急傾斜( °д°)


でもまあ、藪が無いだけましか(^▽^;)



てな事で、ゼイゼイいいながら登って右手の竪堀をかわすと、見えてきました大堀切。


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冬枯れ+小雪なら、駅から見える大堀切延長部(竪堀)。岩盤削って作ってあります。

広いです、深いです、転げ落ち甲斐あります。

なので、ガードレールが設えてあります!


って、誰か落ちたことあるんだろうか・・・・


ここを過ぎると、まもなく稜線。南城の北端に着きます。

まずの見ものは、大堀切。



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土橋から西側を。そして、


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寄せ手側から東側を。

うーむ、デカい・・・・



この堀切南方が城域で、階段状に曲輪が構成されています。

まずは、堀切登ったところに、北端曲輪があり、


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次いで、一段高い主郭が、


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主郭には、更に高く櫓台を置き、


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その先には、南端曲輪を配置し、


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最南端に浅めの堀切(斜面の竪堀と連結した)を、


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ピラミッド状に設えています。

なんていうか、高雄型重巡の主砲配置みたいですね!



あ、そうそう、主郭には土塁が残っていました。


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わりと高めの土塁が、東方向からの防御用に設えてあります。西方向には土塁がありません。

西方防御は不要なのか?


と、つらつら考えてみるに・・・・


①西斜面は急斜面過ぎて、大軍勢での攻撃は難しい。

②南北両堀切から連なる竪堀で、防御は充分。

③西方を北國街道が通っているものの、街道の先は内湖で軍勢を集められない。

④仮に西方から攻撃されても、北城から背後を突ける。


てのがミックスされて、敵の攻撃は東方が主力、と想定したんじゃないかと愚考(^_^;)

はてさて、専門家の意見はどんなもんでっしゃろ???




そうそう、このお城、結構見晴らしもいいんですよね。

櫓台から東(中仙道)を眺めたり、


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西(琵琶湖)を眺めたり、


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出来るように、ベンチが置いてありました。

なので、当然座り込んで、おにぎりをば頂きましたとさ(*^o^*)