(358)フナの甘露煮と納豆 | 江戸老人のブログ

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(358)フナの甘露煮と納豆



 父の死から四十五年が経っている。シベリア寒気団が南下して日本列島をおおい、西北寄りの烈風に関東平野が身をよじる厳冬期、私は父を想い起こす。
 父、犬田卯(しげる・1891~1957)は人に知られない作家である。画聖小川芋銭に学び、若くして地主制度の解体と小作農の解放を夢見、農民文学運動に情熱をかたむけたが体制の固い壁にさえぎられ挫折を重ねた。つきまとう貧苦と病苦。ようやくにして迎えた戦後、生涯の夢としてきた農地農民の解放は米占領軍の手によってあっさり実現する。

父は喪失感に打ちのめされ、自前の運動による改革開放でない限りいずれ破綻の憂き目を見るに違いないと焦慮する。ついに精神のバランスまでくずすに至った。

六十六歳の死は、年齢上はまだ若い死と受け取られそうだが、父は全エネルギーを消尽して果てたのだと思う。

その、まるで打たれるためにのみリングに上がったボクサーのような父が、年に一度、意気揚々の風貌に変わる季節が会った。厳冬期である。

かやぶき屋根の父の生家の足もとに沼が広がっていた。芋銭(うせん)の河童(図)で名高い牛久沼である。厳冬期には必ず氷結した。西の果てには富士が望めた。その氷がわずかにゆるむ昼前、父はかねて用意のアミとヤスを抱えて、沼に下りていった。

そのいでたちもあざやかに覚えている。母が手編みにしたラクダ色の毛糸のシャツとズボン下に真綿を入れた縞の着物、スソはからげ、首にはやはりラクダ色の手編みのマフラー、足もとは足袋にワラ草履。
氷の下で冬眠中のフナを小舟の上からヤスで突いてとるのである。小一時間もすると父は帰ってきた。右手に持ったアミの中には大きな金ブナや銀ブナが折り重なってウロコをきらめかせていた。

その顔といったら・・・・・・。双の瞳はフナのウロコをしのぐほどにかがやき、ひげの口元はおおきく笑みわれ、頬には笑いじわが強くきざまれ、父は正真正銘の美丈夫に変身してした。
 井戸端にえものを運ぶや、料理にとりかかる。ウロコをはずし、ワタを除き、大鍋に移して仕事机のかたわらに切った小ぶりの炉にかけ甘露煮に仕上げるのである。
 

父は嬉々として、鍋の面倒を見た。コマメに炭火のぐあいを見、煮かげんをはかり、調味し大切に大切に甘露煮のお守りをした。夜は埋み火にして朝まで都合二十四時間以上、煮続けたのではなかったか。
 骨までやわらかくなったのを家族六人が堪能し、残れば煮こごりにし、一片の身も一塊の煮こごりもあまさず食べつくした。その間父の美丈夫ぶりは続いた。
 

やはり厳冬期、母は納豆を仕込んだ。夏の間に育て、秋に収穫しておいた大豆をゆっくりやわらかく煮て、新藁で筒(つと)をつくりそこに詰めて、納屋で寝かせるのである。湯たんぽを抱かせて、熟成を上手に促した。この納豆のふくいくたる芳香、威勢よく引く無数の糸。
 朝日のさしこむ食卓で糸がまばゆくきらめいたのを思い出す。このときの母の顔もまた見ものだった。いつも立てている眉間のタテの三本ジワは消えていて、喜色満面、母は断然美人になっていた。

 

生涯、失意と共に生きた父、その父をときに叱咤、ときに抱擁して根を限りに生きた母(住井すゑ)。この両者がこどもに見せた喜色満面、得意の絶頂と言うにふさわしい顔貌はフナと納豆というたべものを振る舞ったときにあらわられた。
 思えば私たちこどもは、親の笑顔をごちそうとして育ったのであった。

 父の死後、母は看病から解放され、年来のテーマである部落差別の根源に切り込むべく『橋のない川』(七部)の執筆にとりかかった。そのとき五十五歳。一九九七年九五歳で命を終わったが、その体力を支えたのは一にも二にも貧窮時代に身についた食習慣であったと思う。
 魚は霞ヶ浦産のワカサギやハゼの甘露煮(牛久沼は汚れてフナはとれなくなった)どまりで、エビ、カニ、マグロの類は見向きもせず自分の野菜畑でとれるほうれん草や里芋をよろこんだ。
 ある正月、超有名料理店謹製のおせちをみやげに帰省したが母は眺めただけで一切手をつけなかった。「フーン」といったきりだった。「フーンの意味をいまも推しはかっている。



まずだ・れいこ(ジャーナリスト)
●1929年東京都生まれ 東大卒 毎日新聞社へ
 『母住井すゑ』84年 日本記者クラブ賞受賞



「食の記憶でたどる昭和」から 増田れい子(ジャーナリスト)