(353)食の記憶でたどる昭和史
[クジラとコロッケがご馳走だった]川本三郎
図書館で「食の記憶でたどる昭和史」と言う本を見つけ、あまりに自分のケースに似ていて、後世に役立つかとご紹介します。また括弧内は自分自身の記述です。
食べるものが少なくてさぞ大変だったと思うかもしれませんが、子供は、美味しいものがたくさんあるなんで、まったく知りませんから、楽しくやっておりました。笑顔が明るく親達も救われたのではないでしょうか。
昭和十九年(1944)に生まれ、戦後の貧しい時代に育ったから、素食に慣れている。今でもあまりご馳走を有難いと思わない(私は思うけど)。
御飯と納豆、海苔と味噌汁がいちばんおいしい。幼稚園のときは弁当だったが(幼稚園は午前中で終わったけど)、小学校に入ってから給食が始まった。(給食の時間になると、いつもは優しい笑顔の先生が怖い顔をしてクラスじゅうを見回した。不味いからと食べない生徒ににらみをきかせたのだ))。貧しい時代だったし、母親が働いている生徒も多かったから、休職は必要だったのだろう(家での昼飯は腐りかけたジャガイモ一個+食塩)。
アメリカのララ物資(アジア救済連盟Laraが送ってくる食料)が給食にまわってきたのだが、この中にあったのが例の脱脂粉乳、見かけは牛乳なのだが、飲んでみるとおよそ牛乳の味はしない。(大人になってから、あれは豚の飼料ときいた)その不味さは、われわれの世代なら誰もが知っていよう。時々同窓会が開かれるが、いまだにあのまずさが話題になる。(そうはいっても栄養はあったからアメリカも優しかった。だが、本当にまずかった。でも確かにカルシュームは摂れた)
給食の中にはおいしいものもあった。
好きだったのはクジラの立田揚(たつたあげ)。あの頃はまだクジラの時代で、社会科の教科書には、クジラがどんなに役立つか、無駄な所がひとつもない、と記されていた。南氷洋の捕鯨の様子がよくニュース映画で紹介されていた。
だからクジラの立田揚は有難くおいしいご馳走だった。今日の給食がクジラだとわかるとクラスはにぎやかになったものだった。
いまでも大衆食堂などに思いがけずクジラの立田揚があると、迷わずに注文する。(食糧危機が来ると、クジラが役に立つ。その頃は技術者がいなくなっているから、危険だ)
(土曜日になると「あげぱん」といって、コッペパンを丸ごと油で揚げ、砂糖をまぶしたのがホントに美味しく楽しみだった。またクジラのベーコンがよく出た。弁当箱のフタがいっぱいになるほどの大きな真っ白なもので周囲が食紅で縁取られていた。小学生の私は好き嫌いが多く食べられなかった。年寄りになってから居酒屋で「クジラベーコン」を見つけ、食べてみると美味だった。しかし結構な値段だった。)
杉並区の阿佐ヶ谷という町で育った。このあたりは空襲はあまり受けなかった。学校の近くの商店街に戦前から続いているというコロッケ屋があった。
割烹着を着たおじさんが、大きな油鍋でコロッケを揚げる。おじさんは、職人がよくするように、通りを歩く人に向かって仕事の様子を見せる。
油で揚げる音、匂いにつられてコロッケを買う人が多くなるためだろう。子供たちは学校の帰りに、店の前に群がり、おじさんがコロッケを揚げるのを見物した。
その店ではコッペパンも売っていて、揚げたばかりのコロッケをそれにはさみ、ソースを思い切りたくさんかけて食べる。子供にはそれが最高のご馳走だった。ソースの味がしみたコッペパンもおいしかった。
その頃、子供たちに人気があった漫画家、杉浦茂の漫画に、その名も「コロッケ五円の助」というキャラクターが出てきて、よくこのコロッケをはさんだコッペパンを食べていた。あの時代のご馳走のひとつだったわけだ。価格は五円だったのだろう。
小学校の高学年になると、世の中もだんだん落ち着いてきた。朝鮮戦争の特需が言われ、隣国の不幸が、この国の経済をよくした。
そのころ商店街に洋菓子店ができた。
そこは子供にとっては夢のようなところだった。シュークリームやデコレーション・ケーキというものをはじめて知った。(まだ、バタークリームだったけれど)
この店には、ガラス張りの仕事場があり、職人がデコレーション・ケーキをつくるところを通りから見ることが出来た。ここにも学校帰りの子供たちが集まった。白いクリームをたっぷりと三角錐の袋に入れ、その先から絞り出してケーキの飾りを作ってゆく。
それを飽きることなく眺めた。といってもコロッケと違って値段が高いから、簡単に買うことが出来ない。高嶺の花だった。
初めてケーキを食べたのは、お金持ちの女の子の家に遊びに行ったときだった。見た目もきれいで、たべるのがもったいないくらいだった。
のちに、昭和二十六年(1951)に作られた小津安二郎監督の『麦秋』を見たとき、原節子が銀座辺りで買ってきたショートケーキを、子供たちには内緒で兄嫁の三宅邦子とこっそり食べる場面があり、“ああ、あの頃はどこの家庭でもショートケーキはご馳走だったんだ”と納得したものだった。
お金持ちの女の子の家では、サンドイッチも出してくれた。それが柔らかくて、おいしい。普通のサンドイッチと違う。よく見るとパンの耳の所を全部カットしてあった。子供心にも、ずいぶん贅沢なことをする家だなと驚いたものだった。(後略)(イギリス滞在中にサンドイッチはたくさん食べたけど、耳はついていました)
かわもと・さぶろう●1944年東京都生まれ。評論家
『大正幻影』でサントリー学芸賞受賞・毎日出版文化賞