(311)伊勢商人と近江商人 | 江戸老人のブログ

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この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




(311)伊勢商人と近江商人

 

 川柳に「町内に伊勢屋、稲荷に犬の糞」といわれたほど、江戸には伊勢出身の商人が多くその商業活動はめざましかった。日本の江戸期の前から、商業活動がどのくらいだったか、ご紹介します。このような商業の発達はおそらく世界で最も盛んだったと思っています。
 

 中世の伊勢は、東国に広く分布した伊勢神宮領から集まってくる年貢米の荷揚げや集散を行う大湊などの港が発達していた。そして、畿内と東国を結ぶ流通の要衝として桑名のような自治都市が次々に成立し、多くの廻船問屋や問屋が活躍した。
 

 また、安濃津(あのつ)のような海外貿易港も発達し、山田の三日市・八日市には多数の市座商人が活躍した。
 これらの商人の中には、大湊の角屋のように海外貿易に進出する者や、小田原の城下に進出して住みつく者、会津若松に行商する者も現れた。

 

 徳川家康は、慶長八年(1603)、江戸に幕府を開き、江戸の町の区画整理を行い、日本橋筋を整備し税を免除して商人を招いたので、小田原や京、堺に住んでいた伊勢商人が多く江戸に移住してきた。こうした商人の中から、のちに大店商人として大成したものが出ることになる。日本橋蛎殻町に大店を構えた三井高利(たかとし)や上野に店を構えた大田利兵衛も、伊勢の出身だった。

 

 伊勢商人は、そのころ需要が爆発的に増えた木綿を扱うことによって大きな利益をあげた。木綿は十四世紀ごろ中国から輸入されたが、庶民の衣類には依然として麻が使用されていて、十六世紀後半になって、ようやく東海地方や畿内でワタが栽培されるようになり、庶民の日常衣料として莫大な需要が生まれた。伊勢松坂はそのワタ栽培の盛んな地方であった。

 伊勢の商人は、大消費地でもあり関東・東北への物資の集散地でもあった江戸の大伝馬町に出店を構え、呉服物を取引して巨額の利潤をあげた。なかでも、延宝二年(1674)に江戸に出店し、そこから関東・東北に木綿を販売した長谷川次郎兵衛は代表的な木綿問屋であった。次郎兵衛は、伊勢出身の江戸の呉服商を集めて問屋組織をつくるなど、その連帯を強固なものにした。

 

 呉服屋、木綿問屋だけでなく、紙問屋、茶問屋、荒物問屋などにも進出した。これらの店で働く奉公人たちはほかの地方の出身者は採用されず、ほとんど伊勢出身者で固められていて、台所で働くものだけが江戸者で、しかも女っ気のまったくない完全な男所帯であった。

 東廻り航路と西回り航路を開拓した川村瑞賢(かわむら・ずいけん)も伊勢の出身で、江戸の材木商として、明暦の大火で巨利を得、新田開発も手がけた進取の気象に富む商人であった。


行商から出発した伊勢商人

 伊勢商人と並んで広く活躍したのが近江商人で、江州商人ともいわれ、行商から出発して江戸時代には全国的な流通販売網を持って、徹底した利潤追求をしたことで有名である。近江商人はすでに鎌倉時代後半に姿を現し、延暦寺領の近江国蒲生郡得珍保(とくちんほ)の「保内(ほない)商人」と呼ばれる商人が、室町時代初期から各地に行商をした。
 

 荘園内の農業生産だけでは生活が苦しい農民が、近江と伊勢を結ぶ八風(はっぷう)街道や千草(ちぐさ)街道を通って、伊勢国まで行商をした。国境の鈴鹿山脈を越えて行商に行ったので、彼らは「山越商人(やまごえ)」とよばれていた。

 

 これら近江商人は、延暦寺や守護の六角氏から麻、紙、陶磁器、塩、若布、海苔、伊勢布などの独占販売権を得て、牛馬を運送手段として活発な取引を行っていた。さらに、その牛馬を独占的に売買する伯楽座(はくろうざ)を組織したことにより、ほかの商人より商品輸送の点で有利となったため、その活動はますます活発になった。

 

 このような山越商人には、保内商人のほかに、蒲生郡の石堂商人、神崎郡の小幡商人、愛知(えち)郡の沓掛商人がいて、これらは合わせて「四本商人」と呼ばれていた。しかし、天正五年(1577)に織田信長が近江における牛馬売買の権利を安土に限定したため、保内商人は伯楽座の権利を奪われてしまい、その後は衰退して行った。
 

 さらに戦国時代末期に活躍したのが,八幡商人と日野商人である。現在の近江八幡市を根拠地とする「八幡商人」は、初め海外貿易を行っていたことは、正保四年(1647)に菱川孫兵衛と西村太郎衛門が日牟礼八幡(ひむれはちまん)に奉納した安南渡海船図絵馬によっても知ることができる。

 

 しかし、鎖国によってそれができなくなると、国内を行商して回るようになり、利潤を得ると、大阪、京都に大店舗を構えるまでになった。江戸にいち早く出店したのも、八幡商人であった。現在の蒲生郡日野町を根拠地とする「日野商人」は関東地方に醸造業を起こし、蝦夷地では松前藩から漁場を請け負ったりもしたし、さらに、南千島に進出して水産物の流通にも貢献した。一方で、各藩の大名にも高利で金を貸し付ける「大名貸し」を行い、福井藩には十二万五千両も貸し付けたといわれる。

 

 このような近江商人の商法は正直、勤勉、倹約を旨とし、行商先の産物を仕入れて帰りの道中で売り歩くという往復商売をするもので、「のこぎり商い」と呼ばれた。そのため得る利潤は大きく、多少金ができると、有望な土地を選んで出店をして商圏を拡張し、それが繁盛すると江戸の日本橋、大阪の本町、京都の三条通に大店を張った。
 こうした店の経営は、本家と出店を分離する独立採算制とし、人材の育成には丁稚制度をとった。丁稚制度は従業員を丁稚として年少のうちに雇い、経験を積むにしたがって手代、番頭と昇進させてゆく。この丁稚制度の中で鍛えられた手代、番頭を経営に当たらせ、本家から別家・分業させることで彼らに報いた。

 また、各商家は独自の家訓を持っていたが、その共通する所は、質素、倹約、正直といった商人道徳だったのである。


引用本:『旅の民俗誌』 岩井宏實著 河出書房新社 2002年