第二章、大艦巨砲時代終わる
日本は正面攻撃では多大の被害を出し、攻略目的を達成するのは困難だと、判断しました。正解です。背後のマレー半島に上陸して、背中から攻めかかりました。要塞砲は背中を撃つ事は出来ないのです。
南雲機動部隊がハワイ空襲を始めたちょうど同じ頃、1941(S16)年12月8日未明、マレー半島の中間、タイ国の最南端シンゴラ、コタバル、両海岸に上陸した山下兵団は、歩兵全員が自転車で、シンガポールを目指します。
この自転車部隊は銀輪部隊と呼ばれます。英国は歩兵部隊は当然歩いて進軍してくるものと思い込みますがそのスピードに圧倒され、迎撃準備が間に合いません。
まさか歩兵全員が自転車に乗ってくるとは思わなかったのです。マレー半島は、殆ど山間部が無く、平坦で、時折ゴム林の続く、自転車にはうってつけの地形です。貧乏国日本の機動部隊は、非常に安上がりでした。
マレー半島を南下、シンガポールを目指す銀輪部隊
最新鋭戦艦登場、プリンスオブウエールズ、&レパルス
タイ国に日本軍が上陸中、との報告を受けたイギリス極東艦隊は、これを狙ってとてつもない大物を出してきました。半年前、竣工直後にビスマルクと死闘を演じた、50口径38センチ砲10門、52㎞(28ノット)の最新式戦艦プリンスオブウエールズ、と36センチ砲6門の巡洋戦艦レパルス、です。
この方面の日本艦隊は、戦艦金剛、榛名、の二隻ですが、どちらも艦齢30年の古強者。レパルスとは戦えても、プリンスオブウエールズとは戦えっこ無いのです。撃破撃沈されるのは見え見えです。あとは重巡しかいません。近藤司令長官は、真っ青になりました。
輸送船隊は引き返そうとします。
ここで航空部隊が俺に任せろとばかり、出撃します。インドシナ(ベトナム)のサイゴン(ホーチミン市)から、九六式陸上攻撃機30機ほどです。爆弾を積むのですが、半数は魚雷でした。高速で戦闘行動中の戦艦を、航空機では沈める事はできない、と云うのが当時の学説、定説でした。結果は一時間足らずの間に、二隻とも撃沈してしまいました。
戦闘行動中に飛行機に撃沈された最初の戦艦、プリンスオブウエールズ、
大艦巨砲時代が終わる
師匠の教え
英極東艦隊司令長官、トムフイリップス中将は、沈み行くプリンスオブウエールズの艦橋にたたずみ、退艦を薦める周りの幕僚達に、にっこり微笑んで一言、”ノーサンキュー”と言い、この巨艦と運命を共にしました。この事が世界中に報道され、英国騎士道の華と唱われ、敵国とはいいながら、日本中がフイリップス中将を偲び賞賛したのです。この太平洋戦争も最初のうちは騎士道や、武士道の入り込む余地がまだまだあったのです。
しかしこの事で後に、日本の艦長達も、沈み行く艦と運命を共にしなければ、格好が付かなくなったのです。この時まで日本には、沈み行く艦と一緒に運命を共にする、などと言う慣習はありませんでした。明治健軍以来、戦艦が機雷に触れて沈んだ事はありますが、華々しく撃ち合って撃沈された事は無かったのです。
黄海でも日本海でも、帝国海軍の戦艦が撃沈された事など一度もありません。しかしトムフイリップス司令長官の潔い散り方が、世界中に大受けするや、日本海軍としてもこれを取り入れなければ、引っ込みが付かなくなってしまいました。最もこの時はまさか日本戦艦、空母が相次いで撃沈されるなどとは考えてもいなかったのですが、何しろ日本海軍の師匠ですから、イギリスは。。。余談になりました。
この時の命中率は80%を超えていて、世界中はこれをデマだと言って、信じない者が殆どでした。通常は5%程度で、希に10%にもなると、万々歳だったのです。
このプリンスオブウエールズとレパルスの二戦艦は、戦闘航海中に航空機に沈められた最初の戦艦になりました。しかし戦闘状態の戦艦を、世界で最初に沈めたのは、空母艦載機ではなく、基地の双発大型陸上機でした。
ちなみに日本空母は、この大戦で大活躍はしましたが、行動中の戦艦を沈める機会は無かったのです。
余談ですが第一次大戦のジュトランド海戦で、巡洋戦艦の悲惨な結末を知らされた列強海軍は、軽装甲の巡洋戦艦を廃棄処分、もしくは少々速度は落ちても重装甲の戦艦、に改装していました。つまり巡戦の時代は終わったと言うのが世界共通の認識だったのです。
その結果、金剛級4隻は重要部の装甲板を追加強化し、戦艦として生まれ変わったのですが、重くなり速度が落ちた分を、第二次改装で機関(エンジン)を取り替え、さらに船体を長くしてスピードアップを図りました。つまり鈍重な戦艦にはならず、軽快な高速戦艦に化けたのです。
金持ちアメリカはこんな事はせず、全部廃棄して、新しく高速戦艦を建造しました。家に例えれば、日本はリホーム、アメリカは新築と言うことです。10隻も。
イギリスの場合はアメリカのようにしたかったのですが、一次大戦で国力を使い切り、新造は限られた数しかできませんでした。つまりワシントン条約と、後のロンドン条約の数隻を維持するのに精一杯、キングジョージ五世級5隻をやっとの思いで建造したのです。
勿論巡戦の大改造まで手が回らず、軍事評論家や海軍関係者の意見を僅かばかり取り入れ、ささやかな改造を施し、その上で戦艦に生まれ変わった、と言うことにし、派手に世界に宣伝したのです。実態は巡戦のままでした。
きな臭い時代に突入し、列強は自国の軍備を、少ない物はより多く、弱い物はより強く、オーバーに喧伝し、恫喝と抑止力の切り札にしたのです。スタンドプレーとフェイントで仮想的国を翻弄し、時間を稼ぎ、その間に本物の秘密兵器、決戦兵器をこっそり研究作成しようというわけです。
アメリカの戦艦ミズリー、イギリスの上記プリンスオブウエールズ、ドイツのビスマルク、そして日本の大和、等がその秘密兵器という訳です。
戦艦に生まれ変わったという宣伝を信じていた日本海軍は、パールハーバーの半年前、1941年5月(日本はまだ参戦していません)北大西洋における、ドイツ戦艦ビスマルク追撃戦で、イギリスの戦艦フッドがビスマルクの砲撃で、一瞬のうちに轟沈させられた事に驚愕します。ビスマルクの第三斉射(三回目の一斉射撃)で主砲塔天蓋を打ち抜かれ、自艦の弾火薬庫が爆発し二つに折れて沈みました。
ジュトランド海戦の時の英国巡戦、クインメリーやインティファティカブルと同じ運命をたどったのです。
海戦の射撃で第三斉射で命中と言うことは、初弾命中と同じ意味なのです。それは後ろに撃って、手前に撃って、その間に撃って、命中、と言うことですから。砲撃理論では初弾命中なのです。一般的にはドイツの砲撃精度の凄さ、カールツアイスの照準装置、ドイツの光学技術を賞賛するのですが、海軍省、連合艦隊はイギリスに対する見方を変えます。
”どーも怪しいな、改装して戦艦になったてのは嘘なんじゃないかな、調べてみるか、、、”英国駐在武官に訓電です。
”戦艦レナウン及びレパルス、の防御装甲の現状、を調査、報告せよ、、、”
要するにスパイしてこいと言うことです。
巡戦上がりの戦艦は、フッド、レパルス、レナウンの三隻ですが、フッドが沈み、残りはレナウンとレパルスだけです。スカッパフロー軍港に停泊中の両艦を観光船から、あるいは釣り船から、こっそり撮影します。カメラ持ってるのがばれるとスパイで”ご用だ”です。
現像してみれば外形は一見明らかに巡戦時代とは大幅に変わっていますが肝心なところが変わっていません。それは、主砲塔の天蓋の厚さ、つまり最低でも10㎝や20㎝は背が高くなってなければならないのに、元のままです。艦幅も相当広くなってなっていなければならないのにほんの僅か、装甲板が付けられただけ、煙突も周囲に探照灯やら対空機銃やら、装備は増えましたが、元のままです。
結論は、”肝心の防御力は元のまま、つまり高速戦艦に改装されたというのは偽りで、艦橋の高さや装備が、対空機銃や高射砲が新設されただけで、巡洋戦艦のままである”
と言う結論になりました。
安上がりな機銃や探照灯等は増設できても、いちばん金と時間のかかる防御装甲までは手が回らなかったのです。イギリスはことある事にレパルスを戦艦と呼称していました、無論沈められた後も、、しかし日本は沈めたのは戦艦レパルスではなく、巡洋戦艦レパルスとして統一したのです。その裏には世界に対して、
”何を隠しても日本はお見通しだぞ”、
と言う諜報能力の高さを誇示する意図が有ったのです。
これは敵国に対するよりも、同盟国ドイツに対して、イニシアチブを取ると言う意図が大きかったのだと思います。
本題に戻ります
こうして英極東艦隊の二巨艦を航空機で葬った、日本は、月月火水木金金と云われる程猛訓練を重ね創意工夫の限りを尽くした、艦隊決戦での日米決着の機会を、自ら失う事になったのでした。ちなみにこのマレー沖海戦は、戦艦大和完成の、1週間前の事でした。
ともかく、開戦後、僅か3日で米英の太平洋方面主力を全滅させた日本海軍は、正に無人の野を征く無敵海軍の様相でした、、、続く。