第二章、大艦巨砲時代終わる

マレー半島クアンタン沖、1941年12月10日正午頃
シンガポール軍港は英国の、極東植民地経営の最大の根拠地で、かっての旅巡要塞を凌ぐ、大要塞で堅固に防御されていました。シンガポール軍港は、海からの攻撃に備えて、十重二十重にトーチカ陣地が構築されていました。その砲火は海からの侵入者を、ネズミ一匹、アリ一匹、通さぬほど緻密に構成されていたのです。


日本は正面攻撃では多大の被害を出し、攻略目的を達成するのは困難だと、判断しました。正解です。背後のマレー半島に上陸して、背中から攻めかかりました。要塞砲は背中を撃つ事は出来ないのです。


南雲機動部隊がハワイ空襲を始めたちょうど同じ頃、1941(S16)年12月8日未明、マレー半島の中間、タイ国の最南端シンゴラ、コタバル、両海岸に上陸した山下兵団は、歩兵全員が自転車で、シンガポールを目指します。

この自転車部隊は銀輪部隊と呼ばれます。英国は歩兵部隊は当然歩いて進軍してくるものと思い込みますがそのスピードに圧倒され、迎撃準備が間に合いません。


まさか歩兵全員が自転車に乗ってくるとは思わなかったのです。マレー半島は、殆ど山間部が無く、平坦で、時折ゴム林の続く、自転車にはうってつけの地形です。貧乏国日本の機動部隊は、非常に安上がりでした。

ヨネ店長のブログ 「日本海軍戦艦物語 鉄と血の世紀」


   マレー半島を南下、シンガポールを目指す銀輪部隊


最新鋭戦艦登場、プリンスオブウエールズ、&レパルス
タイ国に日本軍が上陸中、との報告を受けたイギリス極東艦隊は、これを狙ってとてつもない大物を出してきました。半年前、竣工直後にビスマルクと死闘を演じた、50口径38センチ砲10門、52㎞(28ノット)の最新式戦艦プリンスオブウエールズ、と36センチ砲6門の巡洋戦艦レパルス、です。


この方面の日本艦隊は、戦艦金剛、榛名、の二隻ですが、どちらも艦齢30年の古強者。レパルスとは戦えても、プリンスオブウエールズとは戦えっこ無いのです。撃破撃沈されるのは見え見えです。あとは重巡しかいません。近藤司令長官は、真っ青になりました。
輸送船隊は引き返そうとします。


ここで航空部隊が俺に任せろとばかり、出撃します。インドシナ(ベトナム)のサイゴン(ホーチミン市)から、九六式陸上攻撃機30機ほどです。爆弾を積むのですが、半数は魚雷でした。高速で戦闘行動中の戦艦を、航空機では沈める事はできない、と云うのが当時の学説、定説でした。結果は一時間足らずの間に、二隻とも撃沈してしまいました。ヨネ店長のブログ 「日本海軍戦艦物語 鉄と血の世紀」
 
  戦闘行動中に飛行機に撃沈された最初の戦艦、プリンスオブウエールズ


大艦巨砲時代が終わる


師匠の教え
英極東艦隊司令長官、トムフイリップス中将は、沈み行くプリンスオブウエールズの艦橋にたたずみ、退艦を薦める周りの幕僚達に、にっこり微笑んで一言、
”ノーサンキュー”と言い、この巨艦と運命を共にしました。この事が世界中に報道され、英国騎士道の華と唱われ、敵国とはいいながら、日本中がフイリップス中将を偲び賞賛したのです。この太平洋戦争も最初のうちは騎士道や、武士道の入り込む余地がまだまだあったのです。


しかしこの事で後に、日本の艦長達も、沈み行く艦と運命を共にしなければ、格好が付かなくなったのです。この時まで日本には、沈み行く艦と一緒に運命を共にする、などと言う慣習はありませんでした。明治健軍以来、戦艦が機雷に触れて沈んだ事はありますが、華々しく撃ち合って撃沈された事は無かったのです。


黄海でも日本海でも、帝国海軍の戦艦が撃沈された事など一度もありません。しかしトムフイリップス司令長官の潔い散り方が、世界中に大受けするや、日本海軍としてもこれを取り入れなければ、引っ込みが付かなくなってしまいました。最もこの時はまさか日本戦艦、空母が相次いで撃沈されるなどとは考えてもいなかったのですが、何しろ日本海軍の師匠ですから、イギリスは。。。余談になりました。



この時の命中率は80%を超えていて、世界中はこれをデマだと言って、信じない者が殆どでした。通常は5%程度で、希に10%にもなると、万々歳だったのです。

このプリンスオブウエールズとレパルスの二戦艦は、戦闘航海中に航空機に沈められた最初の戦艦になりました。しかし戦闘状態の戦艦を、世界で最初に沈めたのは、空母艦載機ではなく、基地の双発大型陸上機でした。


ちなみに日本空母は、この大戦で大活躍はしましたが、行動中の戦艦を沈める機会は無かったのです。



余談ですが第一次大戦のジュトランド海戦で、巡洋戦艦の悲惨な結末を知らされた列強海軍は、軽装甲の巡洋戦艦を廃棄処分、もしくは少々速度は落ちても重装甲の戦艦、に改装していました。つまり巡戦の時代は終わったと言うのが世界共通の認識だったのです。


その結果、金剛級4隻は重要部の装甲板を追加強化し、戦艦として生まれ変わったのですが、重くなり速度が落ちた分を、第二次改装で機関(エンジン)を取り替え、さらに船体を長くしてスピードアップを図りました。つまり鈍重な戦艦にはならず、軽快な高速戦艦に化けたのです。


金持ちアメリカはこんな事はせず、全部廃棄して、新しく高速戦艦を建造しました。家に例えれば、日本はリホーム、アメリカは新築と言うことです。10隻も。


イギリスの場合はアメリカのようにしたかったのですが、一次大戦で国力を使い切り、新造は限られた数しかできませんでした。つまりワシントン条約と、後のロンドン条約の数隻を維持するのに精一杯、キングジョージ五世級5隻をやっとの思いで建造したのです。


勿論巡戦の大改造まで手が回らず、軍事評論家や海軍関係者の意見を僅かばかり取り入れ、ささやかな改造を施し、その上で戦艦に生まれ変わった、と言うことにし、派手に世界に宣伝したのです。実態は巡戦のままでした。



きな臭い時代に突入し、列強は自国の軍備を、少ない物はより多く、弱い物はより強く、オーバーに喧伝し、恫喝と抑止力の切り札にしたのです。スタンドプレーとフェイントで仮想的国を翻弄し、時間を稼ぎ、その間に本物の秘密兵器、決戦兵器をこっそり研究作成しようというわけです。

アメリカの戦艦ミズリー、イギリスの上記プリンスオブウエールズ、ドイツのビスマルク、そして日本の大和、等がその秘密兵器という訳です。


戦艦に生まれ変わったという宣伝を信じていた日本海軍は、パールハーバーの半年前、1941年5月(日本はまだ参戦していません)北大西洋における、ドイツ戦艦ビスマルク追撃戦で、イギリスの戦艦フッドがビスマルクの砲撃で、一瞬のうちに轟沈させられた事に驚愕します。ビスマルクの第三斉射(三回目の一斉射撃)で主砲塔天蓋を打ち抜かれ、自艦の弾火薬庫が爆発し二つに折れて沈みました。


ジュトランド海戦の時の英国巡戦、クインメリーやインティファティカブルと同じ運命をたどったのです。


海戦の射撃で第三斉射で命中と言うことは、初弾命中と同じ意味なのです。それは後ろに撃って、手前に撃って、その間に撃って、命中、と言うことですから。砲撃理論では初弾命中なのです。一般的にはドイツの砲撃精度の凄さ、カールツアイスの照準装置、ドイツの光学技術を賞賛するのですが、海軍省、連合艦隊はイギリスに対する見方を変えます。

”どーも怪しいな、改装して戦艦になったてのは嘘なんじゃないかな、調べてみるか、、、”英国駐在武官に訓電です。

”戦艦レナウン及びレパルス、の防御装甲の現状、を調査、報告せよ、、、”
要するにスパイしてこいと言うことです。

巡戦上がりの戦艦は、フッド、レパルス、レナウンの三隻ですが、フッドが沈み、残りはレナウンとレパルスだけです。スカッパフロー軍港に停泊中の両艦を観光船から、あるいは釣り船から、こっそり撮影します。カメラ持ってるのがばれるとスパイで”ご用だ”です。


現像してみれば外形は一見明らかに巡戦時代とは大幅に変わっていますが肝心なところが変わっていません。それは、主砲塔の天蓋の厚さ、つまり最低でも10㎝や20㎝は背が高くなってなければならないのに、元のままです。艦幅も相当広くなってなっていなければならないのにほんの僅か、装甲板が付けられただけ、煙突も周囲に探照灯やら対空機銃やら、装備は増えましたが、元のままです。


結論は、”肝心の防御力は元のまま、つまり高速戦艦に改装されたというのは偽りで、艦橋の高さや装備が、対空機銃や高射砲が新設されただけで、巡洋戦艦のままである”
と言う結論になりました。


安上がりな機銃や探照灯等は増設できても、いちばん金と時間のかかる防御装甲までは手が回らなかったのです。イギリスはことある事にレパルスを戦艦と呼称していました、無論沈められた後も、、しかし日本は沈めたのは戦艦レパルスではなく、巡洋戦艦レパルスとして統一したのです。その裏には世界に対して、
”何を隠しても日本はお見通しだぞ”、
と言う諜報能力の高さを誇示する意図が有ったのです。


これは敵国に対するよりも、同盟国ドイツに対して、イニシアチブを取ると言う意図が大きかったのだと思います。


本題に戻ります 
こうして英極東艦隊の二巨艦を航空機で葬った、日本は、月月火水木金金と云われる程猛訓練を重ね創意工夫の限りを尽くした、艦隊決戦での日米決着の機会を、自ら失う事になったのでした。ちなみにこのマレー沖海戦は、戦艦大和完成の、1週間前の事でした。
ともかく、開戦後、僅か3日で米英の太平洋方面主力を全滅させた日本海軍は、正に無人の野を征く無敵海軍の様相でした、、、続く。


短期決戦を狙ったドイツ軍は、夏の装備のまま冬を迎えたのです。結果は明らか、何もかも凍り付くロシアの大地、かつてのナポレオンと同じ運命の始ったところでした。

防衛側のソビエト軍は、冬は俺の物、凍り付く寒さは慣れっこです。アメリカからの大量の援助物資も有り次第に勢力を回復してきました。援助物資のラジオ、から流れるヴォーカルで売り出したばかりのナットキングコールのザ、クリスマスソング、初めて聞くジャズの新鮮な驚きに癒されながら、祖国防衛の決意を新たにしたのでした


ニューヨークフレンチ ヨネザワ 公式ブログ


ナットキングコールの ザ、クリスマスソングを聴きながら 昭和16年12月真珠湾攻撃の直前


同盟の相方ドイツの勝利を信じ切って、ロシアにおけるドイツの優位を信じ切って、お付き合い開戦をしてしまった日本、ドイツ総統大本営の景気の良い勝利の発表、日本人は総じてお人好しなのでしょう、まるまる信じて、人口70万のスターリングラード市一つ陥落させるのに、四ヶ月かかってもまだ完全占領できずにいるドイツの大本営発表を、毛筋ほども疑わず”バスに乗り遅れるな”とばかりにハワイを攻めてしまいました。


武士道精神旺盛な日本の軍人達、情報戦を卑しい物としてさげすむ傾向のある日本人、個々の決闘には達人でも、国家の総力を挙げた戦争には不向きなのかも、と考えてしまいます、、、


考えてみればヒトラーがソ連に攻め込んだのも、英本土上陸作戦が制空権が奪えず失敗に終わったからなのでしょう。独裁者は敗北や失敗は隠さねばならないのです。


上陸に先駆けて大兵力を投じた航空戦、バトルオブブリテンもイギリスの防空戦闘隊の前に莫大な損害を出し、中止せざるを得なかったのです。数少ないイギリスの戦闘機隊が常にドイツより優位な位置で、待ち伏せ出来たのは、世界に先駆けて実用化されたレーダーのせいでした。そのためドイツ爆撃機は英本土上空に来る直前で、スピットファイアやハリケーン戦闘機に、鷹に襲われたヒバリのように、上空からの一撃を受け、燃え上がったのでした。


ドイツではまだレーダーは実用化されていませんでしたが、日本が参戦する2年も前からイギリスはレーダーを実用化していたのです。まさに情報戦の勝利でした。


ですからソ連に攻め込んだバルバロッサ作戦に使われた兵力は、イギリス本土侵攻用の部隊だったのです。無論装備も、、、ロシアの冬に耐えられるような装備などあるはずも無かったのです。その事を日本は知らなかったのです。


参謀本部もちょっと頭をひねって、”冬の装備持ってねーんじゃねーか”、とか、
”もしかしたら日本がシベリアを攻めないのがばれて、それでスターリンの奴、シベリア軍団を自分の名前を付けたスターリングラードの援軍に回したんじゃねーのかな、上層部、あるいは天皇の周辺にスパイがいるんじゃねーか”
等とどうして考えなかったのでしょうか、、、、


もし、10月下旬頃からのスターリングラードでのドイツ軍の停滞、苦戦を知らされていれば、山本長官、何が何でも真珠湾攻撃は取りやめたと思うのですが、、、、余談です
  
ニューヨークフレンチ ヨネザワ 公式ブログ                冬の装備を持たないドイツ軍キャンプ、寒さに震えて


このハワイ攻撃には6隻の空母が参加しますが、その護衛に当たった戦艦は比叡、霧島、の二艦です。改装に改装を重ね、56㎞の高速戦艦に変わったとは言え、その艦齢は日本戦艦中、最高齢で、実に建造後30年近くたっているのですが、日本戦艦で56㎞出るのは、この金剛級4隻だけです。


飛行機を空母甲板から飛び立たせるためには、風に向かって高速で走らなければなりません。飛行機の速度と、空母の速度、風力の三つの要素が大きい程スムーズに発刊出来るのです。これを合成風速と云います。この為空母は皆56㎞(30ノット)以上が望ましいのです。


我が空母加賀は、基本設計が戦艦なので、艦幅や機関馬力、船体の長さ、等の都合で53㎞(28.5ノット)しか出ませんでした。開戦時での最新式航空機にとっては、この速度がぎりぎりの速度です。パイロット達は多少の不自由を感じながらも、戦艦改造の加賀に主力艦の匂いを感じながら、加賀のパイロットであることを誇りに思ったのです。



しかしこの空母を護衛する船が、空母より遅くては護衛になりません。航空時代になればなるほど、金剛級4隻は、引っ張りだこになるのです。他の日本戦艦は、大和クラス以外は、46㎞で統一されていますから、空母機動部隊の護衛は出来ないのです。4年弱の太平洋戦争で、日本の戦艦が、金剛クラス4隻を除いて、殆ど活躍できなかった理由は、速度にありました。



パールハーバーの時は大和も、武蔵も完成していませんでしたが、仮に完成していても、護衛には不可能ではないにしても、難しかったでしょう。50㎞ですから。このパールハーバーの大戦果、にもかかわらず世界の軍事は戦艦中心、大艦巨砲だったのです。なにしろ港に係留中の戦艦群の寝込みを襲ったのですから。戦艦も行動していなければ、只の金物、バケツか金たらいと同じ、いくら撃破しても自慢になりません。アメリカなどは真珠湾の後に、その前から造っていたとは言え、10隻もの新型戦艦を完成させているのです。無論大和よりも後、アイオワ、ミズーリ、等4隻はs17年8月に完成した武蔵よりもさらに後に完成しているのです。それ程までに戦艦の威力を信じていたのです。
しかしこの大艦巨砲、戦艦中心主義を打破、うち破ったのもやはり日本海軍でした。

          



         第二章、大艦巨砲時代終わる
     マレー半島クアンタン沖、1941年12月10日正午頃、

シンガポール軍港は英国の、極東植民地経営の最大の根拠地で、かっての旅巡要塞を凌ぐ、大要塞で堅固に防御されていました。シンガポール軍港は、海からの攻撃に備えて、十重二十重にトーチカ陣地が構築されていました。その砲火は海からの侵入者を、ネズミ一匹、アリ一匹、通さぬほど緻密に構成されていたのです。


日本は正面攻撃では多大の被害を出し、攻略目的を達成するのは困難だと、判断しました。正解です。背後のマレー半島に上陸して、背中から攻めかかりました。要塞砲は背中を撃つ事は出来ないのです。空母艦隊がハワイ空襲を始めたちょうど同じ頃、1941(S16)年12月8日未明、マレー半島の中間、タイ国の最南端シンゴラ、コタバル、両海岸に上陸した山下兵団は、歩兵全員が自転車で、シンガポールを目指します。この自   、、、続く


レストランヨネザワホームページからもう一本のアメブロに入れます。

題は日本人のグラフィティ 東京人の昭和 こんな昭和もありました


戦後生まれのベビーブーマー達の青春像、洒落っ気、食い気、色気の三拍子、知性と教養、自由と正義、に憧れ実践しながら折々かいま見せる悪戯心、悪巧み、の数々、、、高度成長期のちょっとHですごく楽しい、東京の、今のじじばば達の耀くまぶしい青春の記憶、残しておきたい世界遺産みたいな記憶の数々、、、お楽しみください

前号まで、、、、一本だけ怪しげな文章の電報、新高山昇れが有りましたが、”どこの国でもやっている、フェイント、気にすることはねーよ”、、、何事もなく一日が過ぎ去ってしまえば後に残ったのは、安堵と”俺達に向かってこれる訳ねーよ”という慢心でした。

アメリカ人は自分たちの自由と正義、に基づく力、強さに絶対的信頼を置いていたのでした、、、、次章へ、、
       

 鉄と血の世紀 第二部 風雲の太平洋
        第一章、進撃の陰に 
1941,12月8日

破滅の一歩、パールハーバー、

主攻撃隊の第一目標は、アメリカ空母でした、戦艦は第二目標でした。
副攻撃隊の第一目標は、敵機の地上撃破、第二は地上設備、でした。燃料タンクは第三でした。副攻撃隊は燃料タンクを第一目標にすべきでした。

攻撃の前日、日本時間の12月7日朝、柱島の連合艦隊司令部から知らせが来ます
”スパイの報告によればハワイには空母がいない”と。

エンタープライズとレキシントンの二隻は、訓練で出港していました。この戦争は始めから日本には運が向かなかったのです。これで空母は諦め戦艦を撃滅することになります。戦艦四隻撃沈、四隻大破、の大戦果を挙げますが、此処で空母を討ち漏らしたのが、後に大変な影響を与えるのです。しかしこの時点では、戦艦こそ主力兵器と考えているのは、世界共通のことですから日本は万々歳、アメリカは沈鬱(ちんうつ)な空気に包まれます。


軍艦旗の昇る頃 (これからしばらくはハワイ時間で、書いていきます)
最初の一弾は艦攻隊のウエストバージニアとオクラホマに向けられた魚雷でした。
     戦艦物語 ~鉄と血の世紀~


軍艦旗掲揚の最中、ウエストバージニアに向けて放たれた魚雷


現地時間朝八時、どの艦も軍艦旗掲揚のセレモニーが始ったところです。旗艦ウエストバージニアの軍楽隊が国歌の演奏を始め、軍艦旗が旗竿をゆっくりと曲に合わせて登り始めたところでした。艦上の軍楽隊は、頭上を乱舞する見慣れない飛行機にとまどいながらも演奏を続けたのです。


Bメロの始めに魚雷が命中し、巨大な水柱が目の前で上がり、滝のように頭から襲いかかりました。これで我に返ったのです。
まだ攻撃されていない艦の乗員は演習だと思って、あっけにとられながらも身を乗り出すように見ています。通信室からは

”この空襲は本物である、演習ではない”  と平文で打っています。


日本側からすれば何もかも予定どおり、の筈でした。ところが痛恨のミス、泣いても泣ききれない、歴史に残る大ポカをやった奴らが居たのです。それは、、、

航空部隊はまかり間違っても民間人を傷つけることの無いように、爆弾を落とす時の方角まで指定して訓練をしていました。基地の近隣に学校があったり、公園が有ったりした場合、バウンドした爆弾や銃弾が、学校や公園と言った民間施設や人々に被害を及ぼさないよう、事前に模型を作り、攻撃のコース方向、角度を決めてあったのです。山本長官の厳命でした。時間も絶対に午前八時より後と決めてあったのです。まさに正確に予定どおりでした。



宣戦布告の宣告も攻撃の30分前、午前7時30分にホワイトハウスに届けられる手はずでした。野村大使、来栖特命大使は、これが出来ませんでした。

外務省はハワイ時間am5時から重要電報を送るから、翻訳し同am7時30分丁度にルーズベルトに手渡しで届けるように、なお最重要国家機密に属することであるから、くれぐれも機密漏洩の無いように、とワシントンの両大使に命じていました。日本の両大使は機密漏洩を恐れるあまり、ベテランアメリカ人タイピストを、帰宅させてしまいました。誰がタイプ打つのでしょう、、、?

大使自らタイプライターの前に向かい慣れないぎこちない手で作業をしますが、遅遅として進まず、作業が終わったのはハワイ時間9時を回ったところでした。すでにアリゾナは轟沈し、ネバダは沈没着底、させられヒッカム、ホイラーの基地は壊滅状態になっていました。


ホワイトハウスでは
すでに日本の外交暗号を解読しているハル国務長官とルーズベルト大統領は、本日(ハワイ時間7日未明)東京からワシントンの日本大使館に最重要指令が届くことをすでに知っていたのです。
日本が朝宣戦布告の覚え書きを持ってくるだろう事は、予想していました。ハワイに対する警戒警報発令は、その直後にしようとしたのです。

”今に来るか今に来るか、おかしいなまだ来ないな”、、、ホワイトハウスの執務室が、パイプと葉巻でもうもう、煙が目にしみます。

電話が鳴りました、やっと来たか、でも違いました、ハワイの太平洋艦隊キンメル長官からです。となりの電話も鳴りました。陸軍のハワイ防衛司令官ショート少将からです。

宣戦布告より先にハワイが襲撃された報告が来たのです。


面泣腹笑
当然、宣戦布告が攻撃直前に届く物と思いこんでいたルーズベルトとハルはハワイ空襲の報告が先に来たことに正直に驚きを表します。しかし腹の内では

”しめた、ラッキー”

ハルもルーズベルトも大げさに驚き、被害を聞いてオーバーに落胆し涙を浮かべ、畜生、ジャップめ、等々怒りをあらわにします。横のルーズベルトも車椅子のまま同じような仕草です。ふと二人の眼が合うと、周囲に気づかれぬように伏せ眼がちに、にやり"ジャップはバカだよ、これで楽勝だ、、、と独り言、、、


ホワイトハウスばかりでなくアメリカ中が悲憤慷慨に沸き上がり始めたam9時30分頃、また電話が鳴りました。野村大使からです。これから伺って重要書類をお渡ししたい、と言うのです。会見の席でルーズベルトは野村、来栖両大使に向かい、かってアメリカ史上でこれほど侮辱と汚辱にまみれた会見が有っただろうか、と言って書類を受け取ると、見送りもせずに部屋から追い出しました。



民主主義と自由の本家を任ずるアメリカ、移民大国のアメリカ、イギリス系とドイツ系、この二大勢力は議会の中でも拮抗し、すでに二年近くも戦っている、英仏vs独、どちらに加勢するかで国論は二分されていました。そのため英仏派のルーズベルトは参戦できませんでした。


親ドイツの親玉は、翼よ、あれがパリの灯(ひ)だ、の大西洋無着陸横断飛行で世界の英雄、愛息を誘拐殺害された悲劇の父親、二枚目イケメン、アメリカ航空部隊の重鎮、あらゆる肩書き、賞賛と同情を一手に引き受ける人、

チャールズリンドバーグ大佐でした。


この人が、ヒトラーと手を組み、共産主義ソ連を壊滅し、虐げられた人々を開放しようと言います。”イギリスは親戚で親しい友人だが、間違っている、俺達アメリカがチャーチルの間違いを正してやるから、ソ連を叩くために共に戦おう。共産主義は人類の敵だ”、、、こう言うのです。


日本もこの人の勢力拡大を相当期待していました。そのためには正々堂々と四つ相撲を戦い、彼等に日本の力を知らしめねばならない。アメリカ人は良きライバルとは一時戦っても、後に握手をするであろう。


虫のいい話
”真珠湾の太平洋艦隊を叩き、インドネシア(蘭印)の油田を手に入れ、その輸送路(シーレーン)が確保され日本軍の行動に制限が無くなった後は、アメリカと握手して、共通の敵であるはずの、共産主義ソ連を共同で壊滅し、広大なシベリアの富を山分けしよう、アメリカは議会民主主義の国、国益に合致すれば必ず乗ってくるはずだ”、、、、

こんな事を考える政府高官や上級軍人は日本には少なからず居たのです。

しかしこの宣戦布告の遅延で正々堂々は無くなりました。

アメリカは卑怯者とは絶対に手を組まない国なのです。後に残ったのは”だまし討ち、の卑怯者、息の根を止めるまでは戦いをやめないぞ”、、、と言う強固な決意でした。

リンドバーグ氏も真珠湾攻撃以降は親独の看板を下ろし、反独反日に徹したのです。
日本外務省の不手際、宣戦布告の遅延が、ばらばらだったアメリカの国論を一つにまとめてしまいました。全アメリカを、”リメンバーパールハーバー”の合い言葉のもと、一致団結させたのです。


if宣戦布告が正当にされていれば、相当多くのアメリカ人達は、反共日本の力を、かつてロシア艦隊を撃滅した日本の力を、正当に評価し、その上、日本と戦うことの愚かさを説くアメリカ国内の反共派、が力を失うことは無かったはずなのです、、しかし後の祭り。


この時点で、心ある人は日本の敗北を確信したのです。事実この日を境に世界市場で、日本株は暴落します。余談です。


パールハーバーが急襲されアメリカ戦艦群が炎と黒煙に包まれた頃、遠いロシアの大地では、怒濤のように急進撃したドイツ軍はスターリングラード(現ボルゴグラード)の地で熾烈な市街戦に巻き込まれていました。後から後からソ連の援軍が到着します。市街の70%まで制圧したものの後の30%がどうしても占領できずに、とうとう冬になってしまいました。
       



戦艦物語 ~鉄と血の世紀~


スターリングラードの攻防戦 昭和16(1941)年10月頃


日ソ中立条約の遵守スパイ、ゾルゲから知らされたスターリンは、日本に備えたシベリア軍団120万の全兵力を、安心して対ドイツ戦に投入したのです。そのため夏の八月から始った市街地攻撃は、秋までには終わらず、冬を迎えていました。短期決戦を狙ったドイツ軍は、夏の装備のまま冬を迎えた,、、、次章