おいしさの極限 | モデラー推理・SF作家米田淳一の公式サイト・なければ作ればいいじゃん

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ブログネタ:そば派?うどん派?日本の「国麺」はどっち? 参加中

 私は秋田で生まれ、神奈川で暮らし、讃岐にうどんを食べに行き、小倉で新婚のビンボウながら食を楽しんだ。
 と思うと、うどんとそばの比較に、意味があるのだろうかと思う。
 どちらも美味いのだ。
 うどん派の人は、本当はそばの本当のうまさを知らないのではないか?
 そば派の人は、本当のうどんの本当のうまさを知らないのではないか?
 
 うどんとそばと考えたとき、あのそばの粒子の粗さの舌触り、そしてあれは鯖節だろうか。ふんだんに使われた鰹に鯖節のコクの効いた汁。あれにはわずかにショウガを利かせてあるようだ。
 うまいものはうまい。
 別に名店でなくても良い。
 名店も、はじめは誰にも知られず、ひっそりと商いを始めたはずだからだ。
 そして、一人一人に、名店がある。人生の一瞬一瞬に、その日その時だからの名店があるのだ。

 思い出のそば屋は、私の場合、実はとある北国の駅のそば屋だった。
 寒い日、電車は暖かだったが、長旅で私は疲れていた。
 食欲がわかないと思うほどの疲れだった。
 ところが、ホームにまで漂うダシの匂い。
 乗ってきた列車はもうたち、人々ももう降りたりほかのホームへ乗換に行ってしまった。
 長距離列車用のホーム、列車はもうテールランプの明かりも残さず、遙か彼方へ去っていった。
 静寂。遠くで荷物を扱う職員の声。寒さにその声は小さく、また少し土地の言葉がある。
 まだ朝早い駅。
 ホームのそば屋が目に入った。
 湯気が立つ向こうに見えたのは、カウンターの向こうのパートのオバチャンだった。
 顔に畳まれたシワが目に入ったが、それ以上にその笑顔が、控えめな笑顔が、心にしみるように暖かかった。
 ホームのそば屋にはサッシの戸がある。
 かすかな力を振り絞ってあけたとたんに、中はダシの匂いと湯気。ほかに客はいない。
 食券を買う。
 いつものように、買うのはコロッケそば。
 オバチャンは食券を見るまでもなく作って、はい、とカウンターに置く。
 早速食べる。
 箸をとり、フウとどんぶりの上に風を起こす。
 湯気が揺れる。
 その向こうで、汁の中を麺が泳ぎ、すこしずつ、まるでこの一杯の邂逅を刻むタイマーのように、コロッケがくずれていく。
 滅びの美学のような美しさの向こうに、アブラとポテトのアンサンブルが期待される瞬間。
 麺を箸ですくい、一口。
 粗い粒子の麺が、こくのあるダシをたっぷりと抱いて口の中へ吸い込まれる。
 このひとときの鮮やかな味わい。
 これ以上語っても良いが、やはり北国の駅にはソバが似合う。
 寒いやせた土地の作物であるそばは、やはり寒い北国で食べるとまた良い。
 
 ところが、うどんもまた良いのである。
 北国のうどんといえば秋田の稲庭うどんもあるが、私の印象に残ったうどんは、旅行に行った讃岐の何気ないうどんだった。
 まさに素うどんだった。ダシは関西風のあっさりした味。透明なつゆに、純白に、あるいはプラチナのように輝く麺。箸ですくうと、なんどもやわらかく、ふやふやと漂いながら、つるりとつゆの上に上がってくる。
 口に納め、かみしめる。あっさりとしたつゆは猫舌の私であるが絶妙の温度で口の中を揺れ、麺が歯に触れる。絹のような繊細さ。ソバともまた違うその表面に前歯を立てる。 その瞬間のほのかな塩味! 麺自身の味わいに、小粋な塩味。
 窓の外にはさんさんと照る瀬戸の風景。のどかな風景に、山には金比羅さまがある。
 しかし特別な店ではない。何気ないドライブインのような店だ。
 豊かな歴史がありながら、決してそれを誇らず、日常に麺は作り続けられ、人々を潤す。
 水と小麦、大地と海の恵みが、時が止まったような歴史の中、日々続いていく。
 人々は日々それを食し、そして喜びと悲しみを織り交ぜながら、命を継いでいく。
 
 これが比較できようか。
 どちらも決して名店でも料亭でもない。
 だが、どちらも歴史と風土を反映している。
 そして、味というものは、本来比較のしようがない感覚である。
 シチュエーションでも違う。
 その日の体調でも全く感じ方は違う。
 そして、うまみというものは、グルタミン酸やイノシン酸だけに還元出来ない、玄妙なものである。

 それが、ソバと決めてしまったら? うどんと決めてしまったら?
 旨い物に比較は意味はない。
 それぞれのうまさがあり、それをまずいというのは、まずく作った不運な調理人と、まずく食べることになったシチュエーションと、美味しいと考えられない体調や気持ちの余裕の責任なのだ。

 うどんもそばも、それぞれの職人は日々研究を欠かさないだろう。
 どちらも究極のうまさに向けて努力していっている。

 私も、日々の食事を美味しく食べたいと思う。
 人間の食べられる食べ物の量は決まっているという。
 その限られたなかで、体を考え、一つ一つ美味しく食べることが、命を投げ出して我々の食に具されるものたちへの敬意であり、『頂く』ということであろう。

 ソバの実も、うどんの小麦も、そのまま粉にし、製麺しなければ育っていくものだったのだ。
 その未来を頂くのが、食べることだ。

 そうかんがえたら、なんの前提やコダワリもなく、ただ『美味しい』と食べるのが敬意ではないか。

 年越しそばもあれば、うどんの美味しい季節もある。

 うどんもそばも美味しい。
 好みがあるかもしれないが、好みのあるはずのわたしでも、うどんとそばの優劣は、永遠につけられないと思うのだ。

 そして、国麺を一つに決める必要はない。
 どちらも美味しい、シルクロードの終点にある美食の国日本のものなのだ。