松本清張 『遠い接近』 (文春文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。


 2014年9月新装版発行の文春文庫。

 『黒の回廊』のときも書いたが、松本清張の著作がいまも版を改めて次々と書店に並ぶことを凄いと思う。この作品も、もともとは「週刊朝日」に連載された『黒の図説』のなかの一作だということで、初出は1971年8月~72年4月と、40年余が経過しているのだが、こうして今月の新刊に加えられているのだ。幅広い読者層があって、出版社としても安定した部数が期待できるのでしょうね。

 この作品は、端的に言い表すなら、戦争にまつわる復讐譚である。それも、自分に恣意的に教育召集をかけた区役所の兵事係長をしていた男と、軍隊で自分を徹底的に苛めた男への復讐が、殺人へと発展してゆく物語だ。平和な時代を生きてきた自分のような者には、復讐するなら無謀な戦争を始めた官僚や高等軍人を対象とすべきであろうと思えるので、このストーリー展開には違和感がある。また、殺人の実行についても、接点のない二人を別々に呼び出して三重県の鈴鹿山中で偽装殺人を行うのだが、いくらそれらしく取り繕っても、二人とそれぞれに接触しているのが自分一人とあれば、露見するのは当然のような気もする。と言うわけで、読み終えての感想としては、松本清張らしくない失敗作ではないかというものであった。

 しかし、長編小説であり、印刷画工の山尾信治が生活のため町内の軍事教練に出られなかった事情から、そのせいで「ハンドウを回され」て、教育召集され、佐倉の連隊で安川一等兵から厳しい体罰にあい、しかも3か月の教育期間のつもりが本召集に切り替わって、朝鮮への出兵を余儀なくされるまで、微に入り細に亘って綴られてゆく。もしかしたら、著者はミステリーの体裁だけを取って、実質は戦争の悲惨さを描きたかったのかも知れない。家族は広島へ疎開し、原爆で全滅して、戦争が終って帰還したとき、信治は一人ぼっちになっていた。

 闇市での安川との再会があり、彼の軍事物資の横流しを手伝うようになりひもじい暮らしからは抜け出した信治だが、相変わらず軍隊の部下のような接し方をする安川への思いは複雑だ。安川が出版社に出資し、雑誌編集に関わるようになった信治は、召集のからくりを記事にするという名目で、かつての兵事係長であった河島佐一郎が自分に赤紙を回したことを確認する。彼はようやく復讐の具体的な相手を特定できたのだ。

 このあたりから物語は信治の殺人への計画や下調べへと一変し、彼としては周到な下準備も着々と手を打ってゆく。信治としては、河島が安川を殺害し、その後自殺するというストーリーを描いて、辻褄を合せるための小道具なども用意してゆくのだ。しかし、それは客観的に見れば疎漏があり、完全犯罪とはゆきそうにないのは、前述の通りである。

 前半は戦争と軍隊の陰湿な描写が続き、それが信治の復讐心を培養してもゆくのだが、必ずしも楽しい読書とは言えない。後半の半分は終戦後の混乱が繰り返し描かれるのだが、正直者が馬鹿を見るという部分もあって、それが歴史の一画であるとしても、読むのが辛い。そして、最後、全体の4分の1ほどが信治の殺人計画とその実行であるが、これも「大丈夫かしら?」という心配が先立ち、ワクワク感とは程遠かった。

 松本清張の作品は、途中からグイグイ引っ張られるような感じをしばしば抱くのだが、この『遠い接近』に関しては、少なからず醒めた感覚で読み進めたような気がする。失敗作とは言い過ぎかも知れないが、物足りなさが残ったのは隠しようもない。

  2014年9月23日  読了