大佛次郎 『天皇の世紀(6)』 (文春文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 2010年6月発行の文春文庫。全12巻の6巻目である。この巻では、『長州』『本舞台』『奇兵隊』の3章立てとなっている。この大作は読者を意識せず著者の意のままに書き継いでゆくのが大前提であり、各章の長短もマチマチとなっている。

 前巻で描かれた禁門の変により、長州は朝敵となった。『長州』の章では、四国艦隊の砲撃を受け、幕府の長州征伐軍の侵攻にも備えなければならない長州藩の危機を描いてゆく。薩摩もそうであったが、一度外国艦隊と砲火を交え、その威力に完膚なきまで叩かれると、逆に、諸外国との友好・通商に前進できる一面があり、少なくとも攘夷が現実を無視した思想であることがわかってくる。もちろん藩内には守旧派もいれば改新派もいて、藩論がまとまるには紆余曲折を経ねばならないが、長州藩も外国に早くに目を開いたとは言えるのだ。

 対して、幕府閣僚の無邪気な権威主義は問題の解決を先延ばしするだけだ。江戸にいて、徳川の威光が家康の時代そのままに生きていると信じているのだから、土台が腐っているとしか言いようがない。一方で、禁裏守衛総督の徳川慶喜や守護職の松平容保など、京都在住の重鎮は、朝廷の一方的な物言いと幕府の無知な指示との間に立って、苦労は絶えなかったようである。自分としては、特に慶喜について、この書を読んで、イメージを改める必要を感じているほどだ。

 長州征伐については、出兵した藩にも長州に同情的なところがあり、幕府が望むほどの打撃を与えたわけではない。ここでは、京都で会津と組んで長州を退けた薩摩の西郷隆盛が、できる限り穏便な措置に留めようと奔走する姿も描かれる。西郷にはそういう柔軟な一面があったようだ。また、まだ下僚であった勝海舟が時代をどう見ていたかなども紹介され、歴史読物としての面白さもいや増している。

 『本舞台』の章では、前巻で詳しく見た水戸の天狗党のその後に触れられている。武田耕雲斎など、心ならずも反乱軍と見做されてしまい、水戸ゆかりの慶喜を頼って、自分たちの志を天聴に達するようにしたいと願い、彼らは京都へと行軍を続けたのだ。だが慶喜の禁裏守護総督の立場は微妙であり、彼らを京都に迎え入れることはできず、追討しなければならない。そうした事情を知り天狗党は幕府軍に投降するが、身柄を水戸藩に移されてからは、目を覆いたくなるような大虐殺である。悲惨なできごとであった。

 『奇兵隊』の章では、幕府の第2次長州征伐にも触れるが、幕閣の期待に反して、征討軍にその意思がなく、せいぜいが事情聴取くらいで終っている。それよりも、高杉晋作率いる奇兵隊をはじめとした諸隊が決起し、藩中枢を占めていた守旧派を一掃する動きが激しい。禁門の変で敗れて後但馬の出石に潜伏していた桂小五郎もようやく戻ってきた。長州藩には村田蔵六のような逸材もいて、これにより一気に軍隊の洋式装備に向かうのである。

 ようやく、維新史の役者が揃ってきたようである。と同時に、朝廷内はともかく、世間一般では攘夷の熱は冷めてきたようだ。以後の巻では、代わって、「倒幕」がキーワードとなるはずである。志士の時代から、一藩をあげての運動の時代へと、歴史は転換点を迎えているのだ。

  2010年7月3日  読了