松本清張 『奇妙な被告 松本清張傑作短篇選』 (中公文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 2009年8月発行の中公文庫。今年は松本清張の文庫新刊(再刊?)が相次ぎ、この機会にできるだけ多くを読みたいと思っていて、彼の作品を自分の中に消化してゆくだけで大忙し、という感じである。同じ中公文庫の『武士くずれ―松本清張歴史短篇選 』も購入したし、その前に、文春文庫『波の塔 』も控えている。読むペースより買うペースの方が上回っているようでもあり、どうしようもない状態になりつつあるようだ。

 この短編集には5編が収録されている。どれもが中身の濃い内容であり、しかもそれぞれに異なる味わいを醸し出していて、当時の松本清張の充実ぶりが伺える作品集である。

 まず、表題作の『奇妙な被告』の出来映えが良いと思う。金貸しの老人が殺害され、犯人は老人の手提げ金庫を持ち出し、借用証書の一部を抜き取った後灌漑用の溜池に捨てた。単純な事件であり、容疑者はすぐに逮捕された。彼は、警察捜査に協力的に自供を始め、しかし、そこに少しずつ嘘を交え、裁判となってから、突然自供を翻すのである。実に計算された供述とその否定であって、結局、彼は証拠不十分で無罪を勝ち取るのだ。国選弁護人として任に当たった原島直巳は、しかし後日、海外の裁判記録を読んでいて、そっくりな事例に気づく。それは真犯人が無罪となった手口を報告したものであった。奇妙な被告の鮮やかな逃避と、若い国選弁護人のほろ苦い後悔とが、絶妙の読後感をもたらしてくれる。

 『葡萄唐草文様の刺繍』も、凝った内容の推理小説である。妻とともにブリュッセルを旅行した野田保男は、葡萄唐草文様の刺繍が入ったテーブルクロスを購入した。手編みで、日本には輸入されていない高級品である。保男は同じものを愛人の銀座のバーのマダム・水沼奈津子にも贈りたくなり、妻に隠れて、もう一つ追加購入した。日本へ帰り、奈津子に手渡して間もなく、彼女は何者かに殺害されてしまう。この作品の面白さは、奈津子がなぜ殺されたかには一切触れず、警察の捜査状況と、保男のテーブルクロスに関する焦燥とが並行して綴られてゆくところだ。保男には確実なアリバイがあり、容疑者にはなり得ないのだが、彼は妻に浮気を知られたくないのである。やがて意外な事実が明らかになってくるけれど、これはやはり、推理小説らしからぬ推理小説だと言えよう。

 『恩誼の絆』はいささか無気味である。「人殺しの経験が幼時にあったというのは、長じてから同じ経験をくりかえすような要素になるのだろうか。」というテーマなのだ。辰太は9歳のとき、祖母が女中をしている家の奥さんを殺した。睡眠薬で眠る奥さんの口に雑巾を押込み、鼻には濡れ雑巾を掛けたのである。誰も子供の犯行に思い至らず、完全犯罪であった。その辰太が、長じて妻を殺害する。彼は周到に準備し、周囲には妻が男と出奔したと信じさせ、警察にも捜索願を提出する。再び完全犯罪が成立するかと思われたが、意外なところから彼の計画は綻びをみせることになる。この、最後の1ページでの逆転が見事であった。

 『日光中宮祠事件』は、10年前に無理心中と判断された事件を、殺人事件として再捜査する苦心談である。10年の歳月が改めての捜査を困難ならしめる状況がつぶさに語られている。また、『相模国愛甲郡中津村』は、作家の「私」が明治中期の史料を捜すうち、古書店で知り合った老人から新史料の存在を知らされ、はるばる中津村の老人宅を訪ねるまでの物語だ。大隈重信の事績など、相当部分は史実が描かれており、そこに新史料の発見で、「私」の創作意欲も刺激されるのだが、やはり結末でほろ苦い事実が明らかになるというわけである。

 冒頭にも書いたように、どれも読み応えのある作品ばかりである。松本清張については、長編もストーリー展開の妙で十分に夢中になれるけれど、もしかしたら、短編にこそその資質があったのではないかと、そういう思いを誘う作品集であった。

  2009年10月3日  読了