堀江敏幸 『雪沼とその周辺』 (新潮文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 新潮文庫8月の新刊。この著者の作品を読むのは初めてであるが、帯に「川端康成文学賞」「谷崎潤一郎賞」「木山捷平文学賞」受賞と併記してあり、つい期待を抱いて購入した。うかつなことに岐阜県生まれの芥川賞作家を知らずにいたのは、同郷の読書好きとしては恥じ入らねばならない。

 雪沼という山裾の小さな町にひっそりと暮らす住民を描いた短編小説が8編収録されている。冬場には小さいけれど雪質の良いスキー場がオープンするし、周辺には小規模な団地もできつつあるけれど、スーパーマーケットもなく、昔ながらの商店街がいまも生きている町であり、住民同士はお互いに知己であるため、8編の作品に登場する人々はゆるやかにつながっていて、連作小説の体裁ともなっているようだ。

 登場するのは、閉鎖直前の5レーンしかないボウリング場の店主であったり、レストランや食堂の経営者であったり、段ボール工場主、書道教室の先生、レコード店主、消火器会社の社員といった具合で、それぞれ雪沼でつつましく暮らしている人ばかりである。しかし、そうは言っても、人には背負っている過去があり、忘れられない思い出があり、何かにこだわりを抱いて生きているものだ。この作品集は、ふとしたきっかけにより現在から過去へと転じ、それぞれの主人公の生き様を鮮やかに浮き彫りにして、また現在へと戻ってくる。例えば、8作中で最も愛着の深かった『送り火』では、洋平さんと絹代さんの年の離れた夫婦の馴初めから暮らしぶりが過不足なく描かれ、事故死した自転車好きの息子の由の思い出にも触れ、それでいて、冒頭に絹代さんが旅行土産で購入してきたランプが物語を締めくくるというわけで、短編小説とは思えない密度なのである。

 著者は、人がモノにこだわる動物であるということにも並々ならぬ関心があるようで、そのことがそれぞれの人物に深みを与えているようにも思う。ボウリングのピンの倒れる音であったり、レコードとそれを奏でるスピーカーであったり、手作りの段ボール裁断機であったりと、無関心な者にはどうでもいいようなことが、主人公に即して相当な熱意をもって語られるのである。それが著者の人間観察の拠り所となっているようで、非常に好ましい。

 短編小説の名手と呼ばれるには、文章の巧みさが不可欠だと思うが、著者は句読点の使い方が独特であり、決して強引さを感じさせないままに、知らぬ間に長い文章に慣れさせられてしまう。研ぎ澄まされた感覚の、新しい文体が創出されているような気がして心地良い。芥川賞に恥じない文章力だと思う。

 いまの時代、軽薄な言葉の数々を書きなぐってゆくような作家も見受けられるし、そのほうが経済的にも恵まれるのではないかとも思うのだが、そんな中で、言葉に真摯に対峙していると感じられる著者のような存在はとても貴重であると思う。

  2007年8月5日  読了