松本清張 『球形の荒野(上)』 (文春文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

還暦過ぎの文庫三昧

 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 文春文庫の新装版。実は、ドラマ化の影響か、著者の『波の塔 』が大量に平積みされており、それを読もうかと手に取ってみたのだが、旧来の小さな文字であったために、戻してしまった。同じ文春文庫の棚のこの作品に気付き、文字拡大版であることが気に入って、こちらを購入した。本を選ぶのに、文字の大きさを尺度とするのもどうかと思うのだけれど。

 物語の発端は奈良の薬師寺から唐招提寺への道である。芦村節子は芳名帳に亡き叔父・野上顕一郎に似た筆跡を見つけ、不思議に思い、帰京後、叔母の孝子に話す。顕一郎は先の大戦中に外交官として戦争終結に奔走し、スイスの病院で死亡しているのだ。

 孝子の娘・久美子が恋人の新聞記者・添田彰一にその話をしたことから、添田は戦時中の外交に関心を抱き、顕一郎の部下であった村尾を外務省に訪ねるが、村尾は口を濁して多くを語らない。また、当時スイスへ特派員として派遣されていた社の先輩・滝良精にも面談するが、彼も当時の事情を話したくないようだ。添田は顕一郎の死について疑惑を深めてゆく。

 そんな折、これも顕一郎と同じ公使館に勤務する陸軍武官であった伊東忠介が殺される。彼は関西で雑貨商を営んでいたのだが、何かの秘密に触れて、突然上京し、不幸に出合ってしまったのだ。添田は伊東の足跡を追って奈良へ飛び、芳名帳の顕一郎に似た筆跡のページが切り裂かれているのを知る。

 一方、久美子は滝の口利きで、笹島画伯のデッサンのモデルを勤めるが、その3日目、画伯が急死してしまう。警察は事故として処理するようだが、何枚か描かれたデッサンが紛失しており、これも不審な死だ。

 さらに不思議なことに、未知の女性の名で久美子に手紙が届き、デッサン画を手渡したいから京都南禅寺の山門前へ来てほしい、と言ってくる。久美子は約束の時間を中心に3時間ほどを南禅寺で過ごすが、相手はついに現れない。彼女はMホテルに投宿し、苔寺を観光するが、そこで南禅寺で出合ったフランス人夫妻と再度顔を合わせ、写真のモデルとなる。宿へ戻ると、実はこの夫妻もMホテルに宿泊していたし、村尾が偽名で同ホテルに宿泊していることも、久美子は知ることになるのだ。

 と、この上巻は謎が謎を呼ぶ展開で、この先どうなるかと、興趣が尽きない。どうやら野上顕一郎は生きているのではないかと思われるし、そうであれば、戦時外交の一端を描くことにつながり、雄大な背景を持つ物語となりそうである。下巻が楽しみだ。

  2007年4月3日  読了