

先週のIMF国際通貨基金のラガルト専務理事からの発表で、この秋に中国は、
世界経済1位の米国をGDPで抜き、今現在は世界経済1位のポジションを今年の秋に得て、
その経済の牽引力を果たしてきた「上海」
今から29年前1985年に訪中し、1986年に再訪問をしてから、
1989年の春に初めて復旦大学武術協会で武術交流を行い、恩師 花妙林老師に指導を受けました。
それからというもの、今日までいろいろな出来事があっても、ずっと途切れることなく、温かい交流活動を続けられたのは花老師のお人柄によるものが大きいと感じています。
そして徐文忠老師も逝去され、邱丕相老師、楊承冰老師も引退され、その後は花老師が、ありとあらゆる面でお世話をしてくれるようになりました。
花老師も大阪に留学に来て、一度花老師を大阪へ訪ねて、楽しく過ごし、空いた時間に花老師は猴棍を指導してくれました。
その後しばらくは、組織上での関係で北京との交流を図ることになりましたが、やはり自分は上海が大好きなので、
2001年に自分が責任者となって横浜武術院を立ち上げて、2002年から上海武術界との交流を再開しました。
自分が一番初めに上海へ来たのは、まだ高校1年生で政治も経済もよく判っていない少年時代で、その後に東洋大学へ進学し、大学進学では体育学部より、文学部に興味を持ち、国文科を専攻しました。
その理由としては日本によくありがちな体育系での人間関係が好きではなかったことと、
当時には昭和から平成に変わった時期で、現代日本社会の矛盾や資本主義社会の理不尽さを感じていた中で悩める青年の一人でもあり、
そして文学部では中国語が学べて、その他にも中国武術的思想にも影響している、東洋思想哲学を勉強できることで迷わずに文学部へ進みました。
今になって思えば、必然的な出来事だったと思います。
1985年の私の最初の拠点となっていた上海体育学院は総合体育学校でありながらも、学校内には郭沫若さんの銅像があったりして、文系でもある一面がありました。
それは今から想うには、上海の五角場のある楊浦区は、虹口公園(現在は魯迅公園)が近く、戦前の日本租界があり、日本との深いいいかたちでの繋がりのある地域でした。
自分が好きな、虹口区 魯迅公園、多倫路文化街




今年の春節 2月の訪問
内山書店 内山完造の銅像

旧日本租界のあった場所

魯迅公園

魯迅記念館


虹口足球場スタジアム内にある、武術用品店 武縁堂 ご主人 山本慶泰さんと、
武術兄弟で復旦大学で学んでいた渡辺成人さんと再会!

自分は少年時代から、それらを知らずにこの地へいて、上海の皆さんはいつも親切にしてくれて、自分の実現を望むことは何でも協力をしてくれました。
そのこともあって、たまに日本では「中国寄り」とか私のことをよく、こうしたことを理解もなく、やたらと批判してくる人がいますが、
「恩を受けたら、恩を忘れない。恩に対しては恩で報いたい」
ただそれだけのことを実践しています。
しかしながら、今を想うと多くの現代日本社会で生きる日本人は、本当の意味での西洋資本主義化を実現した「日本社会」で物質的には豊かになりながらも、
精神的には歪まされている時空の中でみんなが生きている現実があると思います。
意外なことかも知れませんが、現代日本社会の中では皮肉にも現代的「阿Q正伝」を衣食住には満たされているようで物質的には豊かに見えるような中でも、内容は同じようなことをやってしまっている人が多いのかも知れません・・
阿Q正伝 あらすじ
時代が清から中華民国へ変わろうとする辛亥革命の時期、中国のある小さな村に、本名すらはっきりしない、村の半端仕事をしてはその日暮らしをする日雇いの阿Qという男がいた。
彼は、働き者との評判こそ持ってはいたが、家も金も女もなく、字も読めず容姿も不細工などと閑人たちに馬鹿にされる、村の最下層の立場にあった。
そして内面では、「精神勝利法」と自称する独自の思考法を頼りに、閑人たちに罵られたり、日雇い仲間との喧嘩に負けても、結果を心の中で都合よく取り替えて自分の勝利と思い込むことで、人一倍高いプライドを守る日々を送っていた。
ある日、阿Qは村の金持ちである趙家の女中に劣情を催し、言い寄ろうとして逃げられた上に趙の旦那の怒りを買って村八分になり、仕事にもあぶれる。食うに困って盗みを働き、逃亡同然の生活を続ける中で、革命党が近くの町にやってきた事を耳にした彼は、意味もわからぬまま「革命」に便乗して騒いだ結果、十把一絡げに投獄される。
無知ゆえに、自らの行動や意図を筋道たてて弁明することも出来ず、流されるままに刑場に引き出され、恐慌を来す間もなく斬首されてしまう。
阿Q正伝 ウィキペディア
魯迅 ウィキペディア
内山書店と魯迅
1917年、内山完造氏は中国の上海に渡り、内山書店を開いた。内山書店は、その当時、上海で活動していた文芸家への書籍の主要な販売店であり、中日の進歩的文化人が集まるサロンのような存在でもあった。内山書店では来客がすぐ手に取れるように書籍を陳列しており、読者は読みたい本を自由に取って読むことができたので、中国人の読者はこの店をよく利用していた。
1927年10月5日、魯迅が内山書店を訪れたことがきっかけとなり、内山氏と魯迅は親交を深めて行く。内山氏は、当局にマークされていた魯迅を四度も匿ったことがあり、郭沫若、陶行知などの文化人も官憲の追及を逃れるため、内山書店に身を寄せている。
1932年から、内山書店は魯迅の著作の発行代理店になる。魯迅は「三閑書店」の名義で多くの本を出版していたが、それらの本は内山書店が代理で販売していた。1936年に魯迅が逝去すると、内山氏は「魯迅文学賞」を発起し、《魯迅全集》の編集顧問にも選ばれた。
1935年、内山完造氏の弟の内山嘉吉氏が東京で内山書店を開店し、魯迅を中心とする書籍の販売を始めた。その入り口に掲げられた「内山書店」の扁額は、中国の有名な文学者、郭沫若氏が書いたものである。現在はその息子さんが書店を引き継いでいるが、今も扱う書籍の半分を中国書籍が占め、特に魯迅の著作は充実している。魯迅と内山完造氏が結んだ中日間の友情は、このような形で今も受け継がれている。
1945年に戦争が終わり、内山氏は日本に帰国したが、その後も日中関係の発展にと尽力している。
1949年の新中国建国後、内山氏は二度中国を訪問し、1959年に訪問先の北京で急死した。内山氏の遺言に従い、その遺体は上海の万国墓地に埋葬されている。これは、中国に対する内山氏の思い入れの深さの表れである。
内山完造氏とその書店を記念するため、上海市民は1981年9月に内山書店の跡地に記念碑を建てた。その碑には「この店は日本の友好人士 内山完造が設立した店である。魯迅先生はいつもこの店で本を買い、客と会い、更にはここに避難したこともある。これを特に石に刻み、記念とする」と、刻まれている。