9月9日は朝の8:30から、
神医・華侘誕辰1882周年祭祀大典が華祖庵・華侘記念館で行われましたので、私も参列致しました。
今回訪問したのも、この式典に参加することが自分にとって 大事なことでもありました。
式典が始まる前には警察官が多く入ってきて、物々しい警備が配置され、
「VIP」カードを下げた華僑と見られる方々が多く並びました。
お祈りが始まり、唱え終わると共に爆竹が打ち鳴らされ、
鳴り終えた後の静けさには、
ひんやりとした空気の中に何か不思議な清々しい気持ちを感じました。
式典が終わり、参列した皆さんと共に奥へと移動しました。
今日はこれから「華侘中医薬文化博物館」の開館になります。
3年をかけて大きな工事が入っていたのでようやく完成の日になりました。
壁にはずらりと並ぶ歴代の中医学の名士たちの肖像画が飾ってありました。
葛洪 、陶弘景、李時珍・・・
前漢にはもう成立していたという導引術の資料となった、
有名な馬王堆導引図が原寸大で置かれていました。
漢方薬には植物性のもの、動物性のものがあり用途に応じて様々です。
これで判るのは、あくまで大自然のものを活かしている、ということ。
生命は地上万物全てが尊く、
人間も自然の仲間の一つだという考え方であり、
世の中に全て無駄はなく、何でも活かす という思想が表れています。
生命力に「あきらめ」はない、ということを教えてくれます。
中医学理論は陰陽五行思想や黄帝内経にその基本があります。
経絡学説、は中医学では重要で いかにその流れを活性化できるか、が大事で、
鍼灸でも按摩・推拿などの整体は施術者に依頼し活性化してもらう方法ですが、
一番良いのは、自分自身で積極的に行う「導引」や「五禽戯」が望ましい、と
1800年前に知っていたということに驚きを感じます。
現代人はこんなに便利になっても知らないことが多いということにも気付きます。
五禽戯の先生の武志坤老師です。
薬を飲むのには清浄な水が必要で、それは地下水から汲み上げてきた、
その水がより効能が高いということで、古井戸のオブジェがありました。
武先生は何を感じたのか、「ここで自分を撮ってくれ」とあったので撮影しました。
先生はとてもおちゃめで本当にお世話になりました。
華侘のお墓です
有名な三国志演義に出てくる、右腕に毒矢を受けた関羽を治療する華侘の有名なシーンです。
これは毒が骨に廻り切開手術をしないと命を落とす、という華侘のアドバイスに従い、
関羽は切開手術を受け、骨を削り毒の部分をそぎ、素早く縫合するという間、
酒を飲みながら碁を打ち、気を紛らわせた。という場面です。
患者は堂々と受け止める覚悟、医師は全てをかけて患者の命と一緒になって治療する、
という医療の理想の姿を教えてくれています。
それは教師と教え子も同じであり、今日本にとても大事なことだと感じました。
日本の教育関係者や医療関係者に是非とも観て頂きたいな、と思います。
一つ残念だったのは華侘が五禽戯を指導していたという高台「五禽戯壇」があったのですが、
それは再建されなかったことでした・・・・
代わりに館内に五禽戯ショーとワンポイントアドバイスを受けられるコーナーが設けてありました。
これは最近華侘記念館と提携して拠点をおいた「古本華侘五禽戯研究会」が担当していますが、
やっぱり五禽戯壇を再建して欲しかったな・・
華侘五禽戯の紹介です。
明代に残された五禽戯図です。
亳州市における華侘五禽戯の活動の歴史がありました。
やっぱり亳州伝統華侘五禽戯倶楽部の皆さんの曹氏公園での日頃の活動の模様や、
前回の博覧会の演武の写真が多く飾られていました。
ここまでくるのにも地道な努力の結晶だと感じました。
五禽戯の資料の紹介です。
文化大革命でかなりの打撃を受けても、
忍耐と辛抱でここまで頑張って来た老師の皆様は、
自分のことだけでなく、人々が楽しく元気に毎日を暮らすためにも
健康を保持していくために続けられて来た姿勢には感動します。
一番左は私も学んで受け継いだ 薫文煥老師の著作「華侘五禽戯」
左から2番目はもう一人の名士 劉時栄老師の著作「華侘五禽戯」と「五禽剣」
一番右端は日本語版も出版された(たぶんまだあると思います)「華侘五禽戯」
これは1982年の書物で文革後に多くの継承した五禽戯が紹介されています。
(それに紹介されている、馬風閣老師の技も勉強になります)
亳州は曹操が世を去ってから建てられた「魏国」の副都だった場所です。
「魏」といえば、思い出せば有名な「魏志倭人伝」がありますが、正確には
「正史三国志」の中の「魏書」にある「東夷伝」に出てくる日本人の記述の「倭人」の項のことです。
ふと、
何故に自分はここにいるのか。
それは必然性だったのか。
何か、遥か遠い悠久の長い歴史の中で、
今はそれを誰も知る由もない時代のロマンを思うことがあります。
何気なく流れてくる風の中で、
自分はこの地に呼ばれてやってきた、そんな既視感・デジャブの感じがまたしたのです。