【新書】発想法―創造性開発のために

川喜田 二郎
発想法―創造性開発のために
世の中はGWを謳歌していると思うが、こんな時間があるときだからこそ、読みたいけど時間がかかりそうな本を読むことにした。
古典。初版は昭和42年である。著者は、かの有名な「KJ法」の生みの親であり、著者の言う発想法とは、このKJ法のことである。
KJ法というと、新QC七つ道具に組み入れられていたり、ビジネス系の研修などでテーマ性のある討議や検討を行う際などに、付箋紙と模造紙などを使って行うことがあったりと、ビジネス・シーンで使う場面は結構ある。
しかし、たいていの場合、単に似通った意味のものをグルーピングして「まとまりました」みたいなオチになることが多かった。
内容でも触れられている通り、このKJ法を使いこなすには、
・1つ1つのフレーズ(事実情報)を、もれなく、しかし簡潔に記録・表現する技術と根気
・眺めては並び替えたり、また眺めたりと、思慮にふけるまとまった時間
・グルーピングしたフレーズから発見した新たな概念やアイデアを表現するセンスと語彙力
・図解から文章に落とし込む文章力
などが必要である。
これらの能力を上手く発揮できなくて、結果が不十分になることが多い。
KJ法は古い!とか、単なるグルーピングでしょ!という意見が多いのはそのためであろう。
失敗する主な原因は、大きくは2つあると思う。
・そもそも、集めたフレーズが、冗長であったり表現不足であったり、はたまた複数の意味が入っていたりと、適切に要素化されていない
・集めたフレーズをグルーピングする際、あるいはグループに名前をつける際、理性で考えてしまう(何かで言い換えようとしたり、先ずカテゴリを思い浮かべてからそれに当てはめようとしたり…)
KJ法は、感性で使わねばならない。
この「感性を使う」のが難しい。
思うに、KJ法で必要されるこれらの能力は、学校教育では習わない概念なのだろう。学校では、「覚える」「あてはめる」ことを中心に習っている。
こういった感性はどこで磨かれるか。
一番は、人間同士の会話ではなかろうか、と思う。
核家族化、向こう三軒両隣の消失、携帯メールによる単語コミュニケーションの蔓延は、こうした感性が失われていく状況を生み出しているのかも知れない。
このblogというシステムは、まさに向こう三軒両隣の概念が物理的制約を超え、言葉を文字に代えて機能していくための枠組みの1つなのであろう。
そんな中、このblogという空間は、巨大な「KJ法」の場ではないか?ということを言う人がいる。
全く同感。個々の感性が反映され、カテゴライズされた情報、コメントとトラックバックのシステム、これはまさにKJ法的な概念である。
ということは、複数の情報から新たな情報を創り出す、つまり相互に関連する記事を総覧してそれらを受け継ぐ新たな記事を作成し、その1対nの関係を表現する、という機能があれば、まさにKJ法がblog上で実現する。
本来、トラックバックとは誰かの記事を引用して自分のblogに意見を書いた時の通知が目的だと思うが、情報間を結ぶという部分に着目すると、新たな使い勝手が見えてくる。
それでなくとも、トラックバックされた記事群を、まとめて引っ張ってきて総覧したいシーンは多々ある。トラックバックを辿っていく機能は便利だと思うのだが、意外とないみたいだ。
今や本来の意味を超えて活用されつつあるこのトラックバック機能を、更に高次元な機能に昇華できれば、更にblogワールドの深みが増すだろう。
自分でも開発してみたい。が、当分は時間が取れない。
blogツール開発者の皆様に期待しつつ、こういったクリエイティブな試行すら出来る時間的余裕のない自分が、歯がゆくもある今日この頃である。
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