レンズ設計士・砂山角野の挑戦と町おこしの荒廃 | mizusumashi-tei みずすまし亭通信
今回、情報誌の企画面は地元出身で現ニコンレンズの生みの親ともいうべき砂山角野の特集です。せっかくなので、プロジェクトX風に編集しました。明治19年生まれ、地元中学を卒業して最初は電気技師になったようですが、苦学して現在の東京理科大、続いて帝大に入り直して32歳で卒業、現ニコンの日本光学の創業時に入社します。日本光学は国策会社で主に海軍の光学兵器を作ります。しかし、砂山にはライカに負けないレンズを作りたいという密かな野望を持っていたのです。

砂山には「ドイツの名門カール・ツァイスは軍需製品だけでなく民生品も作っているじゃないか」という思いがあったようです。ちょうど、国産の35ミリカメラ製造の動きがあって、そのレンズ設計が砂山に持ち込まれる。国内では日本光学以外レンズ製作ができなかったのですね。砂山は燃えます。それでも、いきなりツァイスは手に負えないとみて、当時ツァイスに比べれば町工場規模のライツ社のレンズ“エルマー”を分解研究して、コピーレンズを作ることから始めます。

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これが失敗の連続で、まったく同じにコピーしてもオリジナルに劣るのです。コンピュータなどない時代のことですから、一本の光軸を見つけるに膨大な対数計算を必要としました。夜を徹する苦闘が1年以上も続きますが、ようやくニッコール50ミリF3.5とF4.5が完成します。これが精機光学(現キャノン)製、日本初の35ミリカメラ“ハンザキャノン”に装着されるのです。レンズ完成が昭和10年、カメラの発売が翌11年です。その後、修正が加えられ昭和12年にライカ・エルマーに劣らないニッコールが完成しますが、その数ヶ月後、完成を見届けたかのように砂山は亡くなります。もって瞑すべし、50歳でした。

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軍需レンズの設計中心の国策会社ですから、民需製品にに充分な時間が割けません。脳出血をした上に無理に無理を重ねた結果でした。ね、プロジェクトXでしょう。地元で砂山を知る人はほとんどいませんから、この企画は久しぶりに“欣快”事ですが、忙しい最中こちらも時間が割けなかったのが残念です。結構、砂山の当時の状況を思い浮かべつつ頑張ったのですよ。資料は当事務所の僚友・T刀川さんが現地の名簿を当たってくれたり、川崎・福岡の図書館から関連本を借出してくれたのでした。

下は地元町おこしに使われているマップですが、包装紙にも使うそうでデータ変換しました。ただ、関川 夏央、奥本 大三郎、津野 海太郎、日下 公人、森 まゆみによる「品格なくして地域なし」ではないけれど、町おこしによる荒廃を心配しています。ピジョンもプランもなく、企業がエゴをむき出しに主導しているように、私には思えます。データを渡すに際し一応苦言を述べたのですが、経済“利害得失”活動優先で汚染された頭蓋に届いたとは思えません。厳しい判断ですが、悲観しています。