長女は絵本の読み聞かせをすると寝る。

保育園の先生に伝えられたのは、長女0歳の夏頃だった。

家で試してみると、本当にその通り。

時折力尽きることもあったが、7歳になった今もその習慣は続いている。

そろそろ自分で読める年頃なのでと思う向きもあるが、記憶がしっかりしてきた今だからこそ、もうしばらくさまざまな本を読んであげて、そのリズムや読み方を体に染み込ませてあげたい。


さまざまな本を読むうち、私自身も発見があり、読んでいる時のリズムやトーンにかなり気を使うようになってきた。


それは大袈裟に読むとかではなくて、話の内容に応じて、適切な表現を探すという姿勢だと自分では思っています。


何年も繰り返すうち、なんとなくな雰囲気で、それなりに絵本の内容に合った話し方が身についてきた気がします。

プロには程遠いけど、まだまだ一つ一つの物事の奥深さを感じるというものです。

とあるグループの試みで、2時間電気を使わずに過ごして、子どもと電気のことについて話してみよう。

そんな企画があり、乗ってみました。

実は去年もやって見て、ロウソクだけでやったんだけど怖い怖い…

今年はオイルランタンを買ってみてチャレンジ。

火は安定しているし、これで本当に安心。

でも、火のついている間は寝られません。

電気を消して火の明かりだけで暮らしてみると、普段使ってはいなかった感覚が呼び覚まされる気がしました。

割と遠くの音まで聞こえてくるのです。

一晩だけでは勿体ないし、この静かな時間が惜しくて、3日連続でやって見ました。


なんとなく、人としての感覚を取り戻すような、ゆったりした静かな時間。

あるのは僅かな火の光と、

火から伝わる柔らかな熱。


暗くなったから子どもは寝て、いつもだったらこの間になにかやらねばと思っていましたが、そうする気にもならない。

これはやる気がなくなって堕落したのかと、そういうことではなく、本来あるべき暮らし向きなのかもしれない。


自分の姿を取り戻すために、非日常を味わいに遠出することも大事ですが、意外にも、身近な方法で、自分を取り戻す手段ってあるのかもしれませんね

久しぶりにちょっとだけ早めに帰ってくると、2歳弱の次女が、寝る途中だったらしく、家に入るとギャーっ

妻も長女もそれに対応する余裕もなく(既に寝に入っているため)、私が次女を抱っこし、あやすことに。

言葉がまだまだ出ない1歳代は、「こりーこりー」と指をさしつつ私に何がしたいのかを伝えて吐きますが、その全てに答えようとすると、要望の通りしているはずなのに「違うぞーーーー!」とばかりにぎゃーーーー

そういう時の私の必殺技は

「どうぞお好きに」

あぁしなさい、こうしなさいは一切言わず、子どもがやって欲しいと明確に言ったことだけをやり、あとは無言、

そうすること1時間、ようやく寝ました。

家に入る前、トイレに行きたいなと思っていた気持ちもどこへやら。

いつの間にか彼女は寝て、仕事が大変で帰りが遅かった昨日より

遅くの時間に床につくのでした…

少し気持ちの余裕が出来たからか、自分の人生のことについてまた少し思索を巡らせている。
若い時分に苦労をすると、「今は点の時期、この苦労がどこかで線のように繋がる時期が来る」と言い聞かせていた。
実際に、その苦労は一定の時期を迎えると結実してくる。線の時期に入る。
私の人生はそのような形のサイクルでできているように思う。

ここ最近は、結実するとは到底思えないような、そんな中にいたので、若い頃にそう思っていたことすら忘れていた。
ここからはそのような発想では乗り越えられないのかもしれない。
結実することを夢に見るというよりもさらに先にあるもの。
40を過ぎたからなのか、それに想いを馳せる必要がある。そんな気持ちになっています。

もうひとつは朧げに、
「貧しいものは幸いである」
という言葉の指すものに想いを馳せていた。
松山千春の言葉で言えば
「幸福と裕福は違う」
つまり金を持っているから幸せという訳では無いということ。
前者はそれどころか、逆に金を持っていることが不幸であるとも取れる。

何故かと思った時、
人の本質として、
「何かを探す」「探求する」
そうしたこと自体への充足感があるのではなかろうかと思い至った。

乱暴な言い方をすれば、
金持ちは様々なものが溢れている環境で幸せを探す。
貧乏な人は周りにものが少ない環境で幸せを探す。
金持ちは思い立ったらそのものを引き寄せられるが
貧乏な人は思い立っても得ることが出来ない。

何も無い中で探求することによって、人の本質に近づくことができるから、貧乏な人は幸せなのかもしれない。

宗教上の偉人達は、ほとんどの人が現世の物を投げ捨ててその道に入っている。

…やはりもっと私も余計なものを減らして考えが整理されるように務めるべきなのかもしれない(笑)
娘が生まれてから、なぜかカメラをあまり使わなくなった私。
趣味に浸ることもなく、仕事と育児の大変さを味わっているここ2年あまりです。
子どもも少し大きくなってそれなりにペース作りもできてきたから…と思ってもまだまだですが。

兄弟たちが最近やたらと良い写真を撮るので、帰りに電気屋さんに寄り道をして、カメラのスペックを眺めてきました。
私が今持っているのは10年くらい前の機種。
キャノンEOS50D


比較してみると
感度は3200は25600
画素数は15600が25000位になってましたね。
シャッタースピードは1/8000だから、あの頃から全く変わってません。物理的にはこれが限度ですかね。

これだけ見ても、もう革命的な画像処理能力を備えてるわけです。
さらにすごいのは処理するためのエンジンだと思いますが、ここはあまり使ってないので実感湧かず。

暗所の撮影時には、感度の高さがものをいう世界です。
だから、カメラが苦手としてきたのは暗い中での撮影。よく手ブレしますよね。
もう1つは、感度が高くなると、写真にはノイズが入りやすいもので、非常に見にくくなるのです。
だから、私は暗いところで力を発揮するカメラに魅力を感じます。

7Dが出た時にデモ写真見ましたが、暗いところと明るいところを一枚の中でしっかり取れてるんですよね。
感度だけでなく、カメラの画像処理能力が上がっているからこのような芸当ができるのです。
感度を上げると今度は明るい部分が真っ白になってしまうので。

これだけでもう実は革命的と思っていましたが、それからさらに6年あまり経ってますから、今のカメラは相当なものになってるでしょうね…

私のカメラでは、実は普通の家の暖色系室内照明でも暗く感じてしまっていましたが、きっと今のカメラはものともしないだろうと思います。

そんな感じなので、新しいカメラが手に入らないと再び熱が入ることはないのでしょうね…
もうしばし、辛抱の時は続く。

外遊びの時はまだまだ力を発揮するから、持って行こうかな