『EXIT』 | 誰もいないどこかへ
 やっとお勧めされていた、雨宮処凛さんの『EXIT』という小説が手元の届いたので読みました。200ページくらいの短編小説だったのでぱぱっと読んでしまったんだけど、最初の感想としては「なんかテンプレ的だな」という印象で、なんでそんなことになってしまうんだろうということを考えた。

 例えばリストカットとかオーバードーズという行為があって、あれってものすごい社会的行為で、なんで猫も杓子も「手首を切る」という方法をとってしまうのかと言ったら、「マスメディアや雑誌で「あれが苦しみを知らしめる表現だ」という記事を載せているから」以上の理由はない、という話がある。
 自傷行為でも、例えば石油ストーブにお尻をくっ付けて火傷させたりとか、熱々のおでんを頬張って口の中を痛めつける、みたいなことはしない。見ている周囲にとって、自分を傷つけているという印象よりも「何してるの?」という印象の方が先立ってしまうからだ。それではアピールにならない。
 自傷行為とか過食とかオーバードーズとか、やっていることは物凄く深刻だし人並み外れているんだけど、それは「周りから存在を認めてもらいたい」という意識の顕れだったりもするから、すっとんきょうで本当に理解不能なことはやらない。だからその行為はどうしてもある程度「テンプレ化」してしまう。

 小説の中の女の子たちも、行為そのものはどんどん過激化していくんだけど、形式というのだろうか、周囲から見て分かりやすい「枠」の中で「周囲が望む分かりやすい「生きづらさを抱えた女の子」」を演じている部分があって、それはこの小説そのものも、その範疇に含まれている。
 雨宮さん自身も「生きづらさを抱えた女の子たちの心情を社会に周知させたい」みたいな使命感からこの作品を書き始めたんだろうけど、どこかで「周囲が望むような分かりやすい「生きづらさを抱えた女の子像」」にはめて文章を書いている感があって、それが「テンプレ感」という印象に繋がっている。

 おそらくそれは雨宮さん自身の人生観や今の活動にも通底していて、例えば今雨宮さんは脱原発活動に熱心だけど、あれも自分自身の使命感でありつつも、どこかで「望まれるままに一番褒められやすい自分を演じている」節があって、だから脱原発に限らず雨宮さんの活動は、いつも真の当事者とは距離を置いているような印象を受ける。


 雨宮さん自身が女性だから女の子にどうしてもスポットが当たってしまうんだけど、生きづらさの当事者というのは誰でも「特別でないと周囲から認められない」という思いと「奇抜すぎることをやってしまうと周囲から理解されない」という思いの板挟みに遭っていて、だから互いに分かり合える小集団の中での優位を得ようとする。
 そういう「周囲から望まれるような分かりやすさの中で、より特別な存在になろうとする」という歪んだモチベーションのせいで、どれだけ多量の睡眠薬を飲むかとかどれだけ深い傷を付けるかなどを争うことになるし、ツイッターでも、生きづらさを抱えれば抱えるほどテンプレ的な名言しか言えなくなる人がいたりする。

 あと生きづらさを抱えた人、というかツイッターでいうネガティブクラスタほど「抜け駆けを許さない」空気があって、それは小説でも主要なテーマとなっていたし、自分自身もツイッターの中で痛感する。
 自分自身の話をすると、最近「行動しよう」と言い出して、名前にも「いじめられ大人の会」とか書くようになったんだけど、そのおかげで、ここ最近は「毎日10人くらいフォロワーが増えては同じ数だけ減っていく」という状況が続いて、結果フォロワー数の数字は全然変わらない、という状態になっている。
 「減ったフォロワー」の中にはもちろん自分がフォローしていた人もいて、その「可視化できる相互フォロー状態にあった人々」は、ほぼ全員ネガティブクラスタだった。それだけの推測だけど、やっぱり「行動しよう!」と決意表明したことで「抜け駆けを目論んでいる」ように感じた部分はあるのだと思う。
 「お前は生きづらさを抱え続けることにこそ、ここにいる存在意義があるのであって、少しでも生きやすくなって抜け駆けしようなんて許さない」という沈滞した空気感はネガティブクラスタで固まれば固まるほど醸成されていって、そのせいで現状を抜け出せなくなっている人も少なくないのだと思う。

 小説では、女の子たちが独自に結成した自助グループが主な舞台の1つになっているんだけど、苦しみを抱えた人が小集団で群れるようになると「その中で分かりやすい形で突出しようとする」人たちとの縄張り争いが起きたり、「抜け駆けは許さない」空気に支配されたり、大変だということが分かった。
 生まれた時からの自己肯定感の欠如とか、そういうところも絡んでくるんだろうけど、そもそも「何の得にもならない無償の承認欲求の充足」に何の意味があるんだろう、みたいなことは問わないといけないのかもしれない、とも思う。
 例えば仕事上で、一目置かれるようにならないと給料が上がらないから、という理由で、同じ部署の中で特別な存在感を醸し出そうということであれば話は分かる。でも例えば友達間の中で「特別な存在」として一目置かれるようになっても、何の報酬もないし、何かの恩恵に授かれるわけでもない。
 もっと分かりやすく言うと「大泉学園第一中学校3年C組の中で神と崇められた男」みたいな肩書きに意味なんて何もなくて、でも人間ってそういう肩書きを得るためにリストカットしたりいじめの加害者になったり、ということを平気でしてしまう。改めて考えると、この欲求に何の意味があるんだろう、と。
 もっと拡大解釈すると、「ツイッター政治クラスタ3000人の中だけで神と崇められた男」なんて肩書きにも意味なんて何もなくて、なんかそういう「閉じられた小集団の中で充足される承認欲求なんぞ、飯の種にもならないし何の恩恵もない」みたいな「諦念」が、人を行動に向かわせるのかもしれない。


 
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