生きる違和感、人間の違和感 | 誰もいないどこかへ
 春日武彦さんの『家族の違和感、親子の違和感』という本を読んでいる。ちょっと前に立ち読みで興味を持ったんだけど、改めて読むととても参考になる。パーソナル障害とか離人症とか依存症とか、そういった人たちの振る舞いや精神科医としての対応が、コンパクトにエッセイ風にまとめられている。

 この本を読んでいて改めて感じるのは、「心が病んでいる」という状況について、今は誰が悪いということではなくて、「もれなく全員が悪い」ということだ。
 例えば、不寛容な社会は間違いなくクソッタレだが、引きこもった末に自分以外の人間がクズだと断じ他人をこき下ろす人間だって間違いなく悪い。子どもや恋人に暴力を振るう人間はもちろん悪いが、そういう過去のトラウマに縛られて、人間関係を構築する時になにかと嫌われよう嫌われようとする人間も悪い。突き詰めれば突き詰めるほど、誰かが悪いとか誰も悪くないとかではなく「全員が悪い」というアウトレイジ的な結論に行き着かざるをえない。
 社会も病んでいるが個人も病んでいる。物の見方の視点が違うというだけで「社会はクソ」というのも正しいし「ニートは甘え」というのも正しい。最悪な形で「人間は全員病んでいる」というのが、正しい認識になりつつある。だから問題は、病んでいるのかどうかよりも、病んでいる人の中でなぜ生きられる人間と死ぬ人間が現れるのか、という生死の問題だということになる。
 要するに「生計が立てられるのか」という問題だ。たとえ個人が精神医学的に「病んでいる」と見做されてそれを治癒したとしても、結局は社会も病んでいるのだから、その「病み」の呪縛から逃れられることはない。だから問題は病を治癒するべきか否かではなく、生きられるかどうか、の1点に尽きるのだ。

 ちょっと話は逸れるけど、本を読んでいて1つ分かったことがあって、それは自尊心や自己肯定感が欠落した人にとっての「自尊心の回復」は、「これ以上悪いことをしなくて済む」ということと、どうやらニアイコールの関係にあるようだ、ということだ。
 例えば生まれてきてしまってごめんなさい、というところから始まって、親の期待に沿うことができなかったとか、本当は寂しいのに厳しい言葉をかけてしまったとか、そういう「罪悪感」に自尊心が欠落した人はずっと苛まれていて、彼らは「もう悪いことをしなくて済む」という状況に、憧れ続けている。その憧れが最も端的に表れたものが「自殺」なんだけど、「死にたい、よりも消えたい」という言葉をこぼす人が多いように、本当に彼らが望んでいる状況は「人間、あるいは社会に囲まれた状況下で悪いことをしなくて済む」という環境や状態なのだそうだ。この感覚はとてもよく分かる。
 これは本には書いてなかったのであくまで予想だけど、「これ以上悪いことをしたくない」という人にとっての自尊心の回復方法は、「関わりなく必要とされること」みたいなことのような気がする。同じ部屋にいて、お互い好きな事をしているんだけど、例えば片方が手で顔を扇いでいたら、もう片方がさりげなくクーラーを付けてあげて、そして「涼しいな、ありがたいな」みたいなことを言ってくれたら、心の中でガッツポースを取る、みたいな。そういう距離感を現実でも望んでいるんじゃないだろうか。

 話が逸れた。「生計」の話だ。病んでいるのかいないのかが問題なのではなくて、病んでいる中でも生きていける人間と生きられない人間がいて、生きていけない人間が増えている、というのが目下の問題だ。
 そこには2つのフェイズがあって、「自尊心を修復する作業と生計は両立できるか」という問題と、「『生計を立てる』ということが現状『社会復帰または独立起業』のいずれかとイコールで語られてしまっている」という問題がある。言い換えると、「うつ病を治すことと生計を立てることは同時進行が可能か」という問題と「病んでいる社会へ舞い戻ることしか、生計を立てる方法はないのか」という問題だ。
 先日話した「古今東西の映画俳優の写真を全部自分の顔にコラージュした作品で個展を開いたアーティスト」みたいに、社会復帰でもなく独立起業でもない生計の立て方のアイデアと選択肢が、もっと多様に存在するべきだと思う。アート関連に限らず。


 
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