おはこんばんは。

 

遅ればせながら、4月3日起きた台湾での地震で被災破れました方々へお見舞い申し上げます。

 

私は3月27日、ちょうど地震発生1週間前の朝7時間ほど台湾へおりました。

 



経由便でトランジットの間だけだったのですが、どうしても街へ行ってみたくて。

日本にとっては隣のように感じる台湾になんと一度も行ったことがない。

 

せめて数時間でも何か街の雰囲気を感じられるものを体験したい。

まずはお金を両替。

どれくらい両替したらいいのかなと両替の方に聞いたら

US$50足りないんじゃないかなぁ、タクシー乗るなら。

と言われたんだけど、タクシーに乗るつもりはなかったのでとりあえずUS$50だけ両替しました。

早朝3時半くらいに着陸したので市が入国審査したり、両替したり、でも始発を待って桃園空港から市内へ行くMRTという電車の始発に乗って行きました。

5;55AM発。

 



田園風景から、高くそびえる高層マンションの景色に移り変わって行き、台北の中心地へ。

 

私は出発までモーレツに忙しくて下調べもできないままできていたのですが、

台湾出身の友人や、そのほか台湾に友人がいる友に色々と教えてもらっていました。

でも私はお肉を食べないので、ベジタリアンの素食、豆乳、豆花が大好きでそういうものが食べれたらいいなと思ってはいました。

色々調べて行こうかなと思った人気店もあったけれど、そのために何時間もお店の列に並ぶのはもったいない。

 

ふと親友ちゃんが「ジブリの千と千尋の舞台になったところへ行くのが夢なんだ」

と言っておりましたので、そこを調べてみました。

 

九份

 

バスや電車で行けるみたいだけど、なんか本数も少なそうだし、空港から2時間くらいかかる様子。。。

でも行きたいところはそこかなぁと思ってタクシーは使わずにとにかく電車とバスで。

 

バスは二つの駅から乗り場があり、

MRT忠孝復興駅 から九份 965番(所要時間:約1時間30分)98元

 

MRT西門駅 から九份 1062番(所要時間:約1時間20分)90元

 

安い方を選びました。

西門から乗ったんですが、バスが時刻表通り来なくて焦りました。





 

でもなんとかバス停にはちゃんと日本語でも案内が書いてあったのでやはり観光に有名な場所なんだなと思い安心しました。

 

バスを待つ間、近くのスタンドなような場所で軽食を売っていたので、温かい豆乳と抹茶白玉まんを買いにいってまたバス停で待ちました。



 

バスに乗ったら一応飲食は禁止だったので、中も綺麗で快適でした。

 

思ったよりも乗車時間は短かったような気がしますがやはり1時間くらいは乗ったかもしれません。

 

降りるのは実は1つ手前で降りてしまったようだったので焦りました💦

が、道は坂ではありますが歩けない距離ではなく。


まずは台湾らしいお寺をパチリ





山の上の方なので雨がよく降ると言われています。

この日も曇り、でした。


きっと晴れていたら素晴らしい眺めなのだろうなと思います。





でも人がとにかくまた朝早くでいないので開店準備中のお店の方に聞くと、途中でセブンイレブンがありその奥の路地を歩いていきなさいとのこと。


夜市だと明かりが灯って綺麗なんだろうなぁという小さなお店が立ち並ぶ小さな商店街を抜けて行きます。



 

ここであっているのかなぁ?

 

と少し不安になったところで写真を撮っている日本人ツアーの方がいたので私もついでに写真をお願いしました。

 





一人旅ではセルフィーもしくは人の優しさが頼りです。

しかもガイドさんに撮ってもらえたら一番映えると場所をご存知なのでとてもラッキーでした。

 

帰りが心配でしたが、古街の階段を降りて行った先が来る時にバスを降りた停留所の方に出たのでちょうどよかったです。





バスもタイミング良く来たので全てスムーズに行きました。

 

私の目的はローカルの(ではないけど)雰囲気を楽しみつつ、台湾らしい景色に触れるということだったので大満足!

 

食べ物は座って食べたりできなかったけれど、安全に空港に時間前につき、空港の綺麗なラウンジに入りゆっくりすることができました。

 

そこで私の大好物の温かい豆花とベジタリアンのピーナッツヌードル、台湾ビールがあったのでいただき大満足!!

 



私はビール派ではないんですが、喉が乾いている時のグラス一杯ってやっぱり最高に美味しい!

しかも台湾ビールだから苦すぎず軽いからさっぱりして美味しかったー。


 

日本への旅の前の1人小旅行、とってもワクワクして眠気は一切ありませんでした。

緊張していたからかもしれないけど。

 

今度はもっとゆっくり台湾を訪れたいです。

 

 

日本にとっても優しい台湾の方々、日本と同様にいつも地震と隣り合わせですが、できるかだけ速やかに復興されますよう願っております。

 

ちゃんちか

 

 

おはこんばんは〜。

 

またまたセーターを引っ張り出しながらも春はそこまでと信じて過ごしています。

 

さてさて、昨日のブログでは、かなり母の状況おちついてる、と書きました。

 

しかーし!!!

実は昨日のブログを上げる前に、また小波が押し寄せました。

 

昨日の夜、皆がそれぞれの部屋へ行き私が1人で片付けをしていると、母が不安げに降りてきて(その時は何かある)

 

私「どうした?」

 

と聞くと、

 

母「いや・・・私家族いるよね?」

 

真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔はてなマークはてなマークはてなマークはてなマークはてなマークはてなマークはてなマークはてなマークはてなマーク

 

私「そうだね、誰が家族かわかる?」

 

というところから、私はわかる、他に子供がいるかも2人男の子がある、名前もわかる。

 

で、父のことは

 

母「認知症やな?」

 

と(これまた切ない、今自分の方が進んでるかも泣

 

部屋に家族がお祝いで集まった写真を飾ってあるのを見た時にうちの末娘がまだ小さくて、こんな端っこに小さくなって。。。と思ったら

 

母「あれ?わたしに家族いたよね?どうなったんだっけ?」

 

と思ったそうな。

 

母「誰とも喧嘩して出てきたわけじゃないよね?」

 

と聞くのでそんなことはないよ。と答えました。

 

それで安心して寝たと思いきや、

 

今朝は降りてくるなり、

 

「OOさんいたよね?」

 

と地元のお友達の名前を言い出した。

 

「いないね、なんでそう思ったの?」

 

と聞くと、

「いや、なんかそんな気がしたから、いたよなーと思って」

 

手にピンクの紙切れを握っていたので何か見てみると

 

「洗濯お願いします」

 

私「どうしたんこれ?」

 

母「いやぁ、OOさんに洗濯頼もうと思って」

 

と話してました。

 

・・・・・

 

自分で言っていることがおかしいなと自覚できるときと、そう思ってしまっている間を行ったり来たりしているようですね。

 

多分こうしたことがどんどん増えていくのかなと思いますが、できるだけ不安な時に寄り添ってあげられるタイミングで、冷静に話を聞いてあげられたらいいのかなぁと思ったのでした。

 

 

まだ渡米して10日ですがなんか色々あったなぁ笑

 

どうなりますことやら。

なるようにしかならないので、冷静に、私もガス抜きできるようにして行こうと思います。

 

皆様素敵な週末をお過ごしくださいね。

 

 

ちゃんちか

おはこんばんは。

 

ミネソタは数日前まで25度を越す気温だったかと思いきや、今朝は雪が舞い散るようなさむさに逆戻りで、天気に翻弄されています。あせる

 

さて、母をアメリカに連れてきてちょうど1週間とちょっとがすぎました。

数日は母の混乱というか、認知症の進行なのかで途方に暮れてしまっていましたが、今のところ落ち着いているのが現状です。

 

冷静に考えると、

時差ぼけもMAXだった日曜までの4−5日がすごく大変でした。

この先どうなるんだろうと途方に暮れてしまっていました。

 

すぐにAppleのAirtagを購入し、母の靴につけました。

母には迷った時のために、と伝えてあります。

 

母の精神的不安がどうなるかわからなかったので、なるべくどこでも一緒に連れていき、

ジムのジャグジーにほぼ毎日連れて行っています。

 

渡米前に行ったリハビリの先生に簡単に家でもできるエクササイズを聞いてあったので、朝晩はできるように一緒にしています。

母には「厳しいリハビリの先生」と言われてますウシシ

 

洗濯物を畳むのをお願いしたり、階段のカーペットを掃除してもらったりできることをお願いしたりしています。

 

が、ある朝、

「はぁーもう嫌やなぁ」

という声が聞こえました。

それは私が旦那に対して不満を持っていてバタバタとしている朝にせかせかして態度をとっていた時のことでした。

 

私もそれが引き金になったかなと思い、

「ごめんね、お母さん私の態度で気に障ったことがあった?何かあったらお互い我慢しないで言わないと保たないと思うから、気になったことがあれば言って」

と尋ねました。

 

すると母も聞かれたのが気まずかったような空気を醸し出した後、

 

「いやぁ、色々やってもらって不満はないよ。

・・・強いて言えば、何もかもお願いしなければできないのが嫌かな」

 

と話してくれたので、

 

「日本にいて離れていても、一緒にいてもできないことが増えるのは同じ、どうしてるか気になるし、できることをやればいいんじゃない?」

 

と伝えました。

 

ここ数日ですが、やはり自分でできるということをさせてあげないと、と思い。

私が家にいる時に限り、家の前の一本道の端から端まで散歩していいよというふうに伝えました。

 

家から1ブロック先にちょっとした公園(遊具はない)があるので、そこまでは散歩できるかなあと思っているのですが、その公園を一周して違うところに出たら混乱するかと思うのでまっすぐいって、家の前を通り過ぎて、反対の突き当たりまで、ということにしてあるのです。

 

この2日間は大丈夫そうですので、少し慣れたら公園のベンチに座ったりできたらいいのかな。

 

1人が好きな私にとっては四六時中誰かと一緒って、正直かなりキツいです。

母だって同じ気持ちもあると思うから、少しでも母が1人で何かできる時間が増えたらいいなぁとささやかに願っています。

 

私も自分のしたいことを全部我慢したら保たなくなると思うので、友達を呼んだり、一緒にカフェに連れて行ったり、今日は美術館に連れて行ったりして(美術館て初めてだろうから特に反応ないけど

あせる)私も満たすようにしています。



 

では介護だけではない日常も綴れるようにしたいと思いまーす。

 

皆様も良い週末をお過ごしくださいね。

Have a good weekend!

 

 

ちゃんちか

 

 

おはこんばんは。

 

すっかり春めいて、ミネソタン(ミネソタ人)はワクワク気分で外に繰り出す今日この頃です。🌸

 

いや、桜はもう今週末くらいかなミネソタは。

 

 

さて、先日びっくりの展開で今まで父の認知症話から、一気に母の話題へ急展開でしたね。ガーン

まさにこれっていつ自分が介護者になるかわからない。

 

私の書いたことをお読みいただいた方が、勇気をもらえたり、後悔になったり、ただ言葉がない、って思ったり色々感じていただいたこともあるかも思うんです。

私自身も読んでもらって同情してほしいとかではなく、こんなに大変とかいうともっと大変な方はたくさんいらっしゃるわけで。
でも老いに向き合うって本当に思わぬ形だったり、個人差、程度差もあり、また介護者とされる側との関係性もあるから一概にマニュアル通りにいかない。
 
だからこそ、こんな例もあるんだ、楽しそうに海外に連れてって・・・ってこんなことになってるんだ、って有意義な現実ってそうそうないんだなって思ってもらえたらいいのかな。
 
今回は母と一緒にアメリカへ来るまでの怒涛の数日を書いておきたいと思います。
 
まず実家に帰ってその時は母と父のカオスの状態に私が乗り込んだわけで、母は父の文句ばかり言っていました。
寝ている父を見ては文句を言い、
自分の使っているお箸を私が間違って父に渡したらものすごく意地悪な感じで父の手から取り上げたり、
とにかく父の存在自体が疎ましい。
少し呼吸をつけば、また寝ている時に目が覚めたら
「はぁーどうしたらいいかなぁ」
と言うのが口癖でした。
 
はっきり言ってどうしようもない、出口のない螺旋の中をぐるぐる回る球のような感じを見受けました。
 
でもこれが母の現実なんだなと。
 
かといえば、父の方は母がもう父の薬の管理もできなくなっていたので全然投薬されていず、意識の方はすごくはっきりしていました。
ただレビー(小体型認知症)なので体が思うように言うことを聞かない、行動が思うようにままならず、下の世話もおむつをしていましたが動きがままならないため手助けも必要でした。
ちょっぴり、切なく感じたのは、施設へ入る前日デイサービスも休みで在宅・・・というか父は出かけたりしていましたが、おむつが汚れていて、それもちゃんとあげ切れていなかったので私が脱がせてシャワーで綺麗に流して拭きました。
私もなんだか胸がキュッとなり、また父もきっと気恥ずかしく思ったのだろうなと思う瞬間でした。
同時に、体の大きな父のこうした介助は母には無理だし負担だろうなと痛感もしました。
 
父は元々身長が175cmある恰幅のいい男性なのでやはりどんどん小さくなる母には介助は相当難しいのは現実で、私も自転車で父を乗せるのも無理があるし、起こすのもかなり重いし、女性には難しい。
 
施設に行く準備も私が全て行い、母はできないのかしなければいけないと言う意識もないのか全く準備に関わりませんでした。
私がケアマネさんと契約の面談をした後に場所を聞いて施設の見学へも行きました。
私が出発する前に父をかかりつけ医に診察へ連れていき、と言うのもこれはいつも近くに住む兄がやってくれていたので、私の今回の日本一時帰国は両親の世話が中心ということが根底にあったのでできる限りのことはしようと行動しました。
 
父の血液検査もして結果をもらいにいき、施設へその問題なかった結果を届けに行くのも私がしたおかげで父と何回か2人で施設の部屋の中で話をしたり写真を撮ったりできました。
父と別れる時は私の方が涙が溢れてしまいハグも2回しました。
父も口元を震わせ目が赤くなっていました。
 
その時の私がどんな気持ちだったかというと・・・なんだか複雑すぎて、なんだかうまく表現できないのが本当のところです。
 
その側で渡米前日、実は母のこころの悩みを聞いてくださるという方との面談の約束が私と母にはあったので
「10時半には家にいてね」
と話していたのです。
 
けれど父の病院でかなり大幅に時間をとってしまい、10時半に間に合わないあせる
何度か母にLINE電話、メッセージを送るも既読にならず。
大急いで家に帰ったら母はいない・・・・。
先にお約束のところへ行ったのかなと思い、先方の電話番号をサーチして探し
「もし母がそちらへ行ったらご連絡ください」
とお伝えし、約束の11時まで待っても連絡がないので、先方の方にはお時間頂戴しているままお待たせして申し訳ないので私だけでも伺いますと電話を切って車で向かいました。
 
お約束の場所へ行く道すがら、もしかしたら・・・母が駅前でいつもコーヒー飲んでると言ってたのを思い出し、ちょっと寄って、目ぼしい場所へ行ってみました。
 
すると案の定、気持ちよく日の当たる明るい店内でリラックスした感じでコーヒーとドーナツを食べていました。
私が入ってくると笑顔で
 
「えー、よくわかったね、すごい〜。あなた私のことよく知ってるね」と。
 
真顔真顔真顔真顔真顔真顔
 
わけもわかっていない母の食べかけ、飲みかけのものを持ち帰り用にしてもらい、急いでお約束の場所へ。
 
大幅に遅れてしまったのですが、先方は嫌な顔一つせずに母の心のつかえをただ聞いてくださるという素晴らしい機会を設けてくださり、そのあと母はそちらで市の包括センターの活動でもある体操教室、お茶の時間があるのでお任せし、私はご午前中に完了できなかった父の施設への訪問をして母を迎えに。
 
話を聞くと母曰くなんとなく約束していたのは頭の片隅にあったけれど、時間となんのためだったか忘れて、場所にだいぶ早く着いてしまい、誰もいないから駅前でお茶していた。
電話はひと足早く機内モードに✈️なっていたから誰からの連絡もつかなかった😂
 
話を聞いていただき、体操も終えた母を迎え、
急遽前日にリハビリ施設の新設されたリハビリ専門施設の見学体験会へ。
 
こちらは前から母がリハビリに整形外科へ毎週通っていたのですが、1月以来予約を取ることも通うことすら忘れてしまっていた整形外科の新設。
 
渡米前の確認で問題がないか確認へ行ってみた際に隣にできた新しい介護認定サービス専門の施設を見学体験出来るというので、アメリカ出発前日ではありましたが、介護認定された際のデイサービス利用の候補にと行ってきました。
場所は徒歩圏内でもありますし、何より新しい匂いがするくらいすごく新しくて私が通いたいくらい素晴らしい施設ラブラブ
 
と言っても、私は10分遅れて連れていったため90分の体験が80分になってしまったのですが、私はその間に最後の子供たちリクエストの買い物へ車を走らせ文字通り駆け足で買い物をすませ、終10分前にはリハビリ施設に到着合格
 
アメリカから帰って介護認定見直しを受けた際に今の要支援1より確実に認定は重くなると思うので、そうしたらきっといろいろなサポートが受けやすくなると思います。
 
認定が重くなると、色々とお金もかかるけれど、何よりも支援が受けやすくなる。
自分で抱え込んで自費で色々な支援を受けるよりも国のサポートで色々と受けられる方が良いと思います。
 
今の状況では、申請にあたり、医師との診察、家族からの状況確認を踏まえた医師の意見書を市に提出し、そこから認定員が調査に1−2ヶ月できてそこから審査して認定が下りる・・・という永遠に感じる様な段階を踏むにはまず母が日本で医師と診察、認定員が来るアポのためには日本にないと無理なのでもどかしいですがお預け状態です。
 
 
長々と綴りましたが、渡米後の日々のアップデートなど、ほか思いついたことを次回以降書いておこうともいますのでよかったらお付き合いくださいね。
 
花粉症は日本では大丈夫でしたがミネソタにもどりぐすぐすしております。アセアセ
皆様も季節の変わり目ご自愛くださいね。
 
ではではまた次回まで。
See you!
 
ちゃんちか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

おはこんばんは。

 

ミネソタも帰ってきてみたらいきなり春になってきて樹木の蕾も一気に膨らむ季節となりました。

 

 

さて母と意気揚々とアメリカへ来たわけですが、いきなりですが、前途多難な幕開けですアセアセ

 

事態の好転ばかりではないのはわかっていましたが、母の認知が急速に進んだと感じる出来事がいくつかありましたので書き記しておこうと思います。

 

勿論着いたその日はクタクタで、でも子供たちの習い事の送り迎えなどがあり疲れ果て私は秒でグッスリ眠りました。

 

翌朝は普通に起きて時差ぼけはないかに見えましたが、午後ちょっと横になろう・・・(この誘惑が命取り!)から3時間弱眠ってしまい思いっきり時差ぼけになっている自分に気づきました。笑い泣き

 

そんなわけで夜中2時半からずっと起きてお弁当を作ったりなんやして前回のブログを書いたのだと思います。

その朝は母は朝も8時20分まで起きてこなくて、私が仕事へ出かける直前に顔を見ました。

 

それから出かけてライブショー1本目を終えて一旦帰宅したら、母は朝食を食べ、お願いした階段掃除をすませソファでうたた寝をしていました。

一緒に外へ散歩できるかなと思っていた私でしたがあまりにも眠そうだったのでそっとしておき、ランチをレンジに入れ、ただスタートボタンを押せばできるようにセッティングして出かけました。

 

子供を迎え帰宅すると母はソファで本を読んでいましたが、車でもう1人の子供を迎えに行く際に一緒に連れて行くと、やはり車で眠ってしまいました。

相当眠ったので夜眠れないだろうなと思っていると、やはり夜中に寝室に来て

 

「全然眠れないの、病気じゃないだろうか」

 

というので

 

「お母さん一日中寝てたらそれは寝れないよ、正常な時差ぼけ」

 

と話しました。

 

そして、昨日は土曜日で息子と旦那は息子の野球へ行ったので娘たちと外へ散歩へ出かけました。

 

車でダウンタウンへ出かけ、リフレッシュしたねーと思っていたら、

夜になって、

母は

「ここはアメリカだというのが思考の中で繋がらない、どこかの施設に泊まっているのだと思っている。」

 

私のことは娘だとわかるが、なぜ私の子供達、主人の姿がちらほら見えるのかがわからない。

 

携帯がなぜ使えないのかよくわからない、これに関しては何回も説明しているし、使えないから切っておこうと電源は切ったのだけれど。

 

その1時間後には主人が私を起こしてきて母が「電話したい」といっていると。

行ってみると日本の小銭を握りしめ、

 

「いやぁ、私の兄姉や妹がいる家に電話しないと心配してると思うねん」

 

と母の胸のドキドキが伝わってくるような感覚で混乱している様子が不憫で背中をさすってハーブティーを飲み話を聞き説明して落ち着かせた。

 

また1時間も経たないうちに寝室に来て今度は荷物をパックして


「帰るわ」

 

というので

 

「ここはアメリカですぐには帰れないし1人では帰れない、飛行機のチケットもないと帰れないのよ」

 

と言い、私が母の部屋へ行き一緒に寝ようとベッドに入る。

するとまた起き上がり、どこへ行くのか尋ねると階下のドアの鍵がかかっているか確認しないととおりていき、確認して戻ってきて安心するかと思いきや、今度はもう一つのドアもしないと気が落ち着かないというので思うようにさせたら、セキュリティのアラームが鳴り飛び起きた。ガーン

 

ドアを開けて確認したとのことだけど


もう大丈夫だよ


と一緒に母の部屋へ上がるも、また起きて


睡眠薬を飲まないと眠れない


というので、最近飲ませてなかったけれど、(先生も余分なのは飲まなくていいとの話だったので)これで本人も安心して眠れるならとお飲ませたら薬が効いたのか寝息が聞こえ始めたので安心したのも束の間、また1時間くらいで起きて私に話しかけてきた。

 

私:今何時?

 

母:5時40分くらい

 

私:じゃあ、もう少ししてから話聞くわ、今はもう寝よう。

 

と話したけれどまた1時間くらいで寝てない様子だったので私から話しかけた。

 

何度も同じことだけれど、

 

アメリカにいるのが合点が行かない。

なぜ私たちの子供体が一緒のいるのかわからない。

狐に摘まれたみたいやねん。


と母。

 

母が今いるところ、

私と母の子供達、主人、母との繋がり

なぜここにくるのに至ったのか

 

を冷静に話して

全部のことに納得しなくてもいいけれど、わからないところよりもわかっている今をとりあえず大事にしたいいんじゃない?

 

と話した。

 

そして朝ごはんを母と一緒に食べて、家族皆が起きてきたので私はちょっと寝かせてもらうことにしたんだけど

10時ごろに主人が来て

今母が荷物を全部持って病院へ行くと外に出かけたと。

 

母の部屋へ行きゆっくり話を聞くも

 

実家近くの病院へ行かなければならない。

すぐそこだからと

全部重い荷物もまとめて出かけたとのこと。

 

アメリカにいるんだよと話すたびに初めて知ったかのように

 

「そうなの?(実家の)近くにいるもんだとばかり思ってた」

 

と話す母。

 

急激な環境の変化は認知症の進行を急激に進めるというのを目の当たりにしている。

 

先日友人が話してくれた

ベストの方法はない。やってみて試してみて何が合うのかを見つけて行くしかない。

 

生きている価値がない、助けて

 

という母に私と兄たちがその時にできると思ったことが

・まず父から離して

・誰かと一緒にいるということ、

 

つまり私のところへ連れてくるということをやってみようと思ったわけで。

 

まだ始まって3日くらいで既に、

思った以上に事態は深刻だいうことが判明した。

 

明日から私も仕事、子供たちも学校で母が1人の時間が増えるから心配ですが24時間一緒には居られない。

 

でも出て行くには母なりの理由がある。


この3ヶ月かなり激動の時間になりそうな幕開けです。。。


 

 

ちょっと外に出た方が私も良いかなぁ、眠いけど。

みなさんが春を満喫されますように🌸

 

 

 

ちゃんちか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おはこんばんは。

アメリカ到着2日目にして誘惑に負けてがっつり昼寝してしまい、時差ぼけ街道まっしぐらのちゃんちかです。


2週間半の怒涛の日本滞在を終え、アメリカに母と無事到着いたしました!🙌


機上から富士山🗻が見れて凄くラッキーだなぁと嬉しくなりました。

今年は桜🌸も富士山🗻も見れ最幸な春を日本で過ごせました。


 滞在中は遊んでばかりいたわけではなく、友人と会っては介護の経験談やアドバイスを聞いたりしていましたが中でも響いたのが、


とにかく、本人ができることをやらせる


ただ、「コレやって」、というのではなく


「これやってくれたらほんとに助かる〜🙏」


とできることをやらせて、やってもらったら


「有難う〜、すごく助かった〜」


と繰り返し続けた結果、無表情で話もしなかった親御さんが言葉を発し、テレビを見て笑うようになった!

との話でした。


人はやはり必要とされ(自己信頼)、できたこと(達成感)を重ねることで自己肯定感があがるんだなぁと思います。


 さて、母ももう自分では何も準備できないので私が全て準備しました。


 パスポートは兄が申請してくれていたのでとても助かりました。


アメリカ渡航には一般的にESTAを申請しないと入れません。

こちらは個人でする場合、遅くても3日以上前にした方が良いです。

私はなんと1日前で余分にお金を払って先に処理するようにしなくては間に合いませんでした💦

アメリカ到着したら申請が許可されていました😮‍💨


 年寄りとの旅は全て余裕を持って行動した方が良いです。


そして海外旅行保険への加入は強くお勧めします。


母がミネソタに来るのは、今回で4回目ですが、

母が以前来た際に階段から落ちたり、

腕がもげそうに痛い、とERに行ったりした際も保くんに入っていたので手続きはややこしいけどとにかく補償されたので助かりました。

 

多くが30日以内なのですが、私が母を加入させたのは90日までのものだったので一択でした。

最低限の全部の補償付きで約60,000円。

オンラインで申請しました。


空港ではチケット購入の際に、車椅子をリクエストしました。

車椅子もゲートまで、機内の席まで、

などオプションがありますが、ある程度歩けるならゲートまでのリクエストがお勧めです。


席までのリクエストになると、乗客が全員降りてから係員が来てくださいます。

ゲートでしたら、機内から出たらそこに車椅子を持った係員がいて車椅子を押してくれます。


そして全て優先で入れるのでスムーズに行きます。


羽田からミネアポリスまで直行便で、羽田で改めて車椅子をリクエストしましたが本当に大正解でした!


ラウンジに行ったのですが、ラウンジの席までお迎えしてくださるし、機内への案内も優先で先に入れてくださる(事前搭乗)ので、立って待つという事がなく非常に助かりました。


機内では私が通路側、母は隣で飲み物、食事、エンタメ(映画などの)も手伝えるし、膝も時々伸ばしたり、トイレも付いていきどれが流すボタンで、なども全てアシストできました。


私も旅慣れていると言っても過言では無いようになり、どうしたらいいのかわかってきているのでストレスフリーで全てうまくいき、本当にラッキーでした✨


入国審査ってなんかいつまでもドキドキするんですが、母に対する質問は特になく、私が全て受け答えできたし、荷物を取るのも係の方がお手伝いしてくださり、母の車椅子も押してくださり、

FOLLOW ME (着いてきてくださいね)

と言ってくださるから、お迎えの家族を待つくらい予想外に早く出てこれました🤣


全てがスムーズすぎたのか、

先程母は、ミネソタに来ていることさえ忘れてしまっていました💦


「飛行機乗ってきたの覚えてる?」


と聞くと

「なんとなくそんな覚えはある」

ようだったので、

お互いにストレスをなるべく溜めないように過ごしていけたらなと思います。


まずは時差ボケ早く治りますように!


あと6時間後からは3本生ライブ撮影モデルの仕事が入っているので昼寝できないから助かるかも🤣


と前向きにいきまーす!


では皆様まだ桜の名残をお楽しみくださいね!



ちゃんちか








おはこんばんは。

 

花冷えの日々が続きなかなか桜が満開にならなかった関西ですが、ようやく4月の5日ごろに暖かくなり、関西はどこも満開を迎え素晴らしお花見日和になりました。

 

さて、両親のことで帰ってきていたのですが、前回は母の話が被害妄想なのか現実の話なのかという話でした。

 

4月になり、父を3ヶ月のショートステイという形でグループホーム(個室)に預かってもらっています。

これはうつ状態の母が介護から離れられるために父を預かってくれる人が必要で、そうすることで母がリラックスできる。

けれど、母の苦しみは、孤独感でもあるので1人になるのも辛い。

 

と言うので選んだのが私が母をアメリカへ3ヶ月連れて行く。

 

と言う選択肢。

 

なぜ3ヶ月なのか?

 

アメリカの学校が6月に休みになるため。

アメリカの私の子供たち小学校、中学校、高校と、3人違う学校で、3人の始業時間が1時間ずつちがう、よって終業時間も1時間ずつ違います。

そして学区外の学校へ通っているのでバス停までも運転、または学校まで運転しなければ1人で帰ってこれず、私がいないと旦那さんに1人でやってもらわなきゃいけない、その上彼も仕事がある、と言うことで、6月初旬に学校が終わるのでそれから母をまた日本へ送り届けるのが一番負担が少ないと言うことで(私都合で)3ヶ月です。

 

と話が長くなりましたが、父の施設には私も帰国後すぐに見学へ行かせていただきとても清潔で明るいいいところだと感じました。

4月1日当日の朝はデイサービスのようにお車でお迎えに来てくださり

「行ってらっしゃーい」

と気軽にお見送り。

 

その後母をMRIの撮影の予約へ連れていきました。

結果が当日出たのでそのままかかりつけ医の病院へ直行し、午前の部ギリギリで滑り込ませていただき診察していただきました。

 

MRIの結果と、先日の物忘れのテストの結果を総合判断。

 

MRIは昨年撮ってから格別に変化が起きたわけではない。

 

先生は

「まぁね、お年になったらそれ相応のことだと思いますよ」

 

とやんわりおっしゃるので

 

「先生、所謂カテゴリーで括るとしたらどんなタイプの認知症なんですか?」

 

と尋ねたら、

 

「アルツハイマー型だと思います」

 

とおっしゃいました。

でも先生の考えでは、

 

「認知を遅らせる薬というのはどうなんだろう?

という考えなので周りのサポート体制を整えるという形で進められたらいいんじゃないなと思いますねぇ」

 

あくまでもこれはこの先生の私見だと思いますがやはりとりあえずここで私が感じたことは、これ以上はここでは望めないのでもっと精密なことを知りたい、違う考えを知りたいのであれば別のところへ行くということかなと感じました。

 

そしてありがたいことに、私の発信を見た友人たちがご自分の親御さんの介護、お仕事を通じての認知症の方との向き合い方、介護認定へのアドバイスなど本当に本当に涙が出るほど感謝が溢れます。

 

友人の1人は、ほぼ誰にも話さなかった認知症になった親御さんの介護のことなどを、私の発信を見他ことがきっかけとなって、ご自分が経験された介護、様々なことを試してよかったことなどを惜しみなくシェアしてくれ、彼女も前向きに話していけるきっかけになったといってくれたのが私のとってもとても嬉しい出来事でした。

 

明日からは母とのアメリカ生活が始まります。

そのゼロ段階としてのフライト、またこちらも何かお役に立てることがあればシェアいたしますね。

 

 

ではSee ya!!

 

ちゃんちか

 

 

 

 

 

 

 

 

おはこんばんは。

 

日本でも時差ぼけになる余裕もないちゃんちかです。

 

数日前に母のかかりつけの病院に薬をもらいにいかなくちゃ、というのや他の医院でいただいてた薬をかかりつけの病院でいただけるならまとめようということでいきました。

 

そのタイミングで兄から

母の物忘れの状況はひどくなってきているから昨年もやった物忘れのテストをしてもらい、MRIの予約をお願いするようにとLINEが来たので、当日思い立って行動した割にはうまくことが進みました。

 

テストをする際には私は席を外し、診察室から出てカーテンの外で聞いて居たのですが、

今日の日付わかりますか?と聞かれた際には


意識してないから、わからない


と答えていました。


他にも三つの言葉を言われて繰り返し、その後に引き算をして答えた後、またその言葉は何でしたか?

と聞かれるテスト。

私も全部答えられなかったし!!ガーン爆  笑びっくり

 

勿論母も答えられなくて、結果予想通り昨年よりも点数が下がっていて、先生の診断では数字からいうと、認知症の疑いがある。

 

母によってはそれは相当ショックが大きいものでした。

その夜は病院で処方された寝る前に飲む、睡眠薬のような薬を飲んだか忘れ、忘れた自分に

もうこうやってどんどんできないことが増えて嫌や…😩

と言った割には薬なしでぐっすり眠り、翌朝5時20分ごろから起きたと思ったら隣で寝ている私に話しかけてきて(全然いいんですが)

 

昨日の診断はすごくショックで二の句が継げなかった・・・と言って居ました。

 

そこから90分くらい話をしたのですが、私はその朝友人と会う約束があったので、支度を始めると

 

「どこかに出かけるの?」

(もちろん何度か伝えてありました)

 

と言ってきて出かけるとわかると、

 

「私は1人で何しよ、どこに行っても話す人もいないし、言葉忘れそうやわ・・・」

 

というので関西人の私としては

 

「絶対忘れへんて!朝5時過ぎから1時間半喋ってたやん笑い泣き

 

と突っ込んでしまいました。。。

 

まぁそのあとはとりあえず振り切って私もリフレッシュしてきてまた優しくなれたのですが。

 

その日だったか母がふと、

 

「隣の若い子が、私何にもしてないねんけど私に向かってなんか知らんけど怒鳴ってくるねん。」

 

と話しました。

もちろん理由もわからない。

 

なんでだろうと私もあれこれ原因を考えて居ました。

 

すると今日、朝また起きてから

 

「あそこの家の奥さん(別の近所の方)がな、なんか知らんけどうちまできて私に偉い剣幕で怒鳴り散らしてくるねん」

 

と言ってきました。

私も「えぇ??なんで」と聞きましたが、

 

それにしてもトラブル多すぎるよね?

 

と訝しがって居たんです。


けれどふと、

 

これって認知症の所謂被害妄想なのでは?

と思い直しました。

 

お風呂屋さんで言われたのが相当ショックだったのがトリガーになったのでは、と思うんですが、今またこれをかきながら、もしかしたらそれも母の妄想なのか?とまで思うようになって居ます。

 

このような認知症の初期症状の方がいらっしゃるかしら?

 

父の場合は幻影妄想でしたが、どうされたら落ち着いた、などもし経験がある方がいらしたらアドバイスをお願いできたら嬉しいです。

 

と色々なことが本当は何が真実なのか分からなくなってきましたが、きっとこれがきっかけだったということが後になってわかる気がするので書き記しておきたいとも思います。

 

最後までお付き合いくださりありがとうございます。

 

ではでは明日から4月、桜を見上げる心の余裕は保っていきましょうね桜

 

 

 

 

ちゃんちか

 

 

おはこんばんは。

 

大変ご無沙汰をいたしてしまいました。

ただいま日本に一時帰国しておりますちゃんちかです。

 

前回の投稿からほんんッとに目まぐるしい日々を送って居ました。

 

日本語補習校授業校へ通う3人の子供のうち2人の卒業式の準備。

母を迎えるための部屋の掃除・・・というよりは3人の部屋を入れ替えするための引っ越しに匹敵する大作業。

仕事、など本当に大変でなんとか卒業式を迎え、その翌々日に私は朝生放送のライブの後で子供達を学校から迎え、旦那さんに空港へ送ってもらうという展開でしたあせる

 

すでに空港へ着く前に日本の運転免許証をわすれたと気づき。

 

早めに空港へ着いたのですがラウンジでゆっくりさせてもらえゆっくりできました。

前日までいきなり今まで暖冬で雪がなかったのが嘘のように雪景色になり飛行機が飛ぶか心配しました。

今回のフライト

ミネアポリス✈︎シアトル✈︎台北✈︎関空

 

ミネアポリスからはアラスカ航空

シアトルからはEVA航空でした。

 

アラスカはそんなに悪くなかったですよ。

EVAもちょっと期待してたけど、なんだろ接する方によっては

うーんうーんうーん

て感じることが何度かあったなぁ。

 

台北の話も書きたいのでとりあえずは今回まだ生きてますよーという生存確認からまた続けていきますのでどうぞまたお立ち寄りくださると嬉しく思います。

 

眠くなってきて仕方ないので眠い時には眠りましょうぐぅぐぅ

 

日本からの感謝を込めて。

 

ちゃんちか

 

おはこんばんは。

 

前回書いた内容から急展開があったこともなんだかずっと前に起きたことのような気がするちゃんちかです。

 

さて、前回までは父と母の状況を説明し、それで私が日本へ行くと決めたことを書きました。この時点では、私は2週間ほど帰国して母が通えるクラスを探したり、話を聞いたり気分転換に日帰りで出かけたりできたらいいなと考えて居ました。

 

毎日過ごすなかでもどうしたら母自身が「自分の命には価値があった」と思えるのか。

 

「ただ生きているだけで価値がある。」

「子供(私たち)をここまで育ててくれて孫たちに命をつないでくれたのはは母がいなくてはできなかったこと」

 

と伝えても

 

「そうかなぁ・・・でもなぁ」という返事。

 

そんな母の状況を旦那とも話しているうちに

 

「将来的にはお母さんに来て貰えば?」

 

という話をしてくれたことはありがたかった。なかなか言えることじゃないよね、我が旦那ながら。

 

で母に「いつかアメリカで暮らしたいと思ったりする?」

 

と話したら急に声が明るくなって

 

「いやぁラブラブそれ私も考えてたの!あなたのところで暮らせたら嬉しいわぁ」

 

という返事。そこからじゃあどうしたら母を呼び寄せられるのかなどをネットで調べたりし始めました。

 

まずは私が自分の親を呼び寄せるには私自身がアメリカ市民権を取ってスポンサー申請をしなければならない。

ちなみに私はといえば、親が生きているうちは日本人でいたいという気持ちがあってグリーンカード(永住権保持者)だったのですあせる

 

そこで初めてアメリカ市民権を取ろうと勉強し始めました。

 

が今はして居ません。爆  笑

なぜかというと母が兄と話した内容を兄から聞いたら

「私はちかにはあぁ言ったけど(アメリカで死んでもいい)やはり最後は日本で死にたい」と。

だからとりあえず今はいいかと保留中です。

 

そんなわけで、絶対先だろうと思って居た父を預かってくれる施設を兄が見つけてくれたので、私が一時帰国するタイミングで母を連れてくるのが一番最適だろうと考えに考えた末、それを実行することに決めました。

 

これで

皆が父の世話を施設に預けるということはどういうことなのか

アメリカで暮らすということは可能なのか。(日本で死にたいとは言ったものの)

 

をお試ししてみようと思って居ます。

 

航空券も何日もいろいろ考えに考えて、私だけなら乗り換え何回でも大丈夫だけど、母の負担を考えるとやはりできるだけ移動時間が短い方が良い。

 

なので私がオリジナルでとった航空券の帰り便を6月末に変更し、

日本からの往復航空券で乗り換えが日本国内一回なものを母と一緒に取りました。

 

そんなわけで気づいたら桜シーズンかも??なんですがどこまで楽しめる余裕と時間があるのかは不明ですが、せっかくなので春楽しみに生きチアと思って居ます!!!

 

春の日本て久しぶりだから楽しみだなぁ桜

皆様の美味しいおすすめ教えてくださいね!

 

いろいろ食べたいものの夢見て居ますラブラブ

 

少し春めいているミネソタより感謝を込めて。

 

 

 

ちゃんちか