皆さま、こんにちは。
ずいぶんと長い期間、更新が滞ったが、この期間、自身の事業の展開と知識習得に重きを置いていたため、社会について色々かんじることはあっても中々綴れないでいた。

それらについても、いずれ、機会をみて綴りたいと思う。

さて、ここ最近、相撲や、ボクシング、体操と、スポーツ競技を振興するはずの組織内部における不祥事がこぞって取り沙汰され、社会を不本意な形で賑わせている。

そして、芸能界にあっても小さい地方芸能プロダクションとはいえ、愛媛県の地方アイドルの方が自ら命を断った痛ましい事件が起きた。

かたや、タレントが事故を起こした際に逃亡してしまうひき逃げ事件も、また世間の耳目を集め、際立つ。

少し前に、アイドルの吉澤ひとみさんによる、飲酒ひき逃げ事件が話題となった。
ネットニュースでは、タレント生命が終わるだろうという内容のものが目立ち、実際に吉澤ひとみさんはアイドルとしては社会的に抹殺されることになるのではないかと思うが、数年前に家族を事故で亡くした心の痛みのケアが必要だったのではないかとも思う。

過去のPTSD、浮かばれない弟の魂に思いを引きずられ、飲酒やその引き金となったとも伝えられている家族間でのストレスもあったようだ。

この、飲酒ひき逃げというひどい顛末については見まごうなく本人の罪はすべて自身で負い、償う必要がある。

ただし、タレント業における芸能プロダクションの責務は同時に大きいと思う。

やりたくないこと、出来ないこと、意に反することも時としてさせられるストレスというのは大変多大なものだ。

その仕事の負荷たるや、慣れないことを日替わりでこなすのは並大抵のことではないし、「いやいやいや、それがこの世界じゃないか。やりたくてもやれない人だっているんだぞ」というのはすり替え論法で、日常におけるストレスの緩和はこの問題に関わらず、より議論されるべきである。

芸能人は自由が無さすぎるとはよく見聞きする。お笑い芸人達の下積み生活の打ち明け話や、女優やアイドル達の裏話というものも、時に衝撃的に暴露されたりする。

何年か前の事務所とのトラブルが話題になった女優さんもいたが、彼ら彼女らに対する第三者的な立場からのカウンセリングは本当に不可欠だと思う。

スポーツの世界、芸能界ともに、叩き上げで、その「閉じた」世界しか知らない人たちばかりの社会になるのだろうから、金銭面や働き方など、待遇の交渉やフィジカルを守るための定期的なケアは、「個人事業だから自己責任」ということではなくて、やはり守るための方策、仕組み、意識風土の改革が欠かせないと思う。

この点、契約文化であると言われる欧米圏に大きく遅れをとっているのがアジア圏であると思われる。

本当にあってはならない飲酒ひき逃げ事件だったが、ああいうやけっぱちを起こさせてはいけないと思う。

もちろん当事者本人の、事態に際して逃亡をはかった心の弱さは責められて然るべきであるのは言うまでもない。

皆さま、こんにちは。




18年前のこの日に起きた大地震を、2年前に発生した東北大震災を機に思い起こすことが多くなった。



それは、たびたび起こる余震や、原発問題に纏わる活断層の認定の是非など、“身近な災害”である地震への対策が、この地震国家においてこれまでどれだけ十分に果たされてきたのか、という疑問が日常生活上ふつふつと湧き上がる場面が多いためでもある。


十分に果たされてきたのでないのだとすれば、震災の教訓を生かせるはずもなかろうし、先般発生したトンネル天井板崩落事故や、さらに卑近な話しで恐縮だが、市内のとある橋梁のボルトの不具合復旧工事のための通行止めにかなりの日数を費やしていたこと、もしこれらの事が巨大地震の影響で同時に複合的に被害が出た場合のその甚大さを考えるに、『コンクリートから人へ』のスローガンは正しかったのだろうか。という疑問がひとつ。



そして、かなり飛躍した考えだが、その政権を選択した民意の是非は問われないままで良いのだろうかとも思うのである。


政治家だけが責任を取り、政権選択をした国民は、国家の主権者たる国民は、次回の選挙で別の政党を選び直すだけで問題ないのであろうか。


国家の主権者であることを担保する、日本国憲法にも謳われている、我々国民の良識とはいかなるものであるのか。




「良識」の根拠はどこにあるのだろうか。




そうした疑問であるし、ごくごく日常レベルでのライフライン・インフラや簡単な事で渋滞を起こしてしまう地方都市の片側1車線という幹線道路の防災面から見た都市計画のあり方に対する疑問でもある。




阪神・淡路大震災の象徴のような写真に、高速道路の高架橋の崩れた場面がある。




震災を機に、以後、全国の高速道路や幹線道路の高架橋の耐震工事が一斉に行われた。



が、トンネル天井板は何も揺れていない日に突然崩落した。


たいていの建造物の骨組みに使われる鉄骨や鉄筋は老朽化し、やがて錆びて朽ちる。


以前、渋谷区駅前でセンター街入り口のアーケード看板が強風で倒壊したことがあった。

街のビルから張り出した看板など、実は遠目で見る以上に大きく、重い。


昨年、冬季に勤務していた職場の業務で、ある看板を二人係りで撤去することになったが、当時タカをくくっていた筆者は、「こんなもの簡単で昼飯前で撤去できるでしょう」と相方の同僚と話していた。

しかし、実際は、物見に出てきていた別の同僚3人の手も借り、長くつないだロープで看板自体を上から吊りながらゆっくりと一つ一つボルトを緩めて下ろすという大掛かりな作業となってしまった。



実際に午前中だけで作業は終了したが。


倒産したり、撤退し、閉鎖店舗となった建物がいつまでも入居者が見つからずに、明らかに入居者がいた頃より行き届いていない管理を見るにつけ、全国的に見れば老朽化したビルのチェック機構の必要さを感じる次第である。

これは言ってしまえば、行政の不作為だとも言えるのである。


筆者が行政の責任者になったとすれば(その実際の地位は別として)、必ずあらゆる分野のデータベース化を果たす。
今の例で言えば、建造物の施工年月日、鉄筋の本数から地盤の質、数年分の該当地域に及んだ災害のデータに至るまでである。

その上で、専門家による安全性を認められる年数ごとにチェックを行う。

横浜市だったと記憶しているが、地下を流れる水道管の老朽化対策のチェックは、熟練された作業員の方々によって、町が寝静まった深夜の静寂の中行われるテスト作業のような徹底的な検査を行う。



情報が都道府県・市区町村ごとにバラバラ、チグハグであっては一義的な管理は果たせない。

行政の階層が増えるだけの道州制はかえって非効率だ。


ただ、何かあるごとにああやって一斉に全国のトンネルで検査、そして検査が適応されなかった箇所で壁面の剥脱などがあったと聞く。




先般の大阪府の高等学校のバスケットボール部の顧問による体罰で生徒が自殺してしまった件でも、完全に後手後手の対応である。

顧問、校長、教育委員会の各担当者を懲罰するのではなくて、部活の無期限活動停止など聞いて呆れる。なぜ顧問の重大な過失を部員たちがが尻拭いしなくてはならないのか。


入学試験の停止などもってのほかである。市長の発言として相応しいとはいえない。

常に危機にアンテナを巡らし、どのような危険が想定されるか、という危機管理能力が著しく低いのではないか。
それぞれの良識において果たせないのであれば、行政の業務はすべて法に則り、徹底的に細かく規定したマニュアルで管理するよりない。
そうでなければ、担当部署で部署の壁を越え、危機管理会議を行い、徹底してアンテナの感度をあげるべく努めることだ。

それが事故、二次災害拡大の予防に繋がる。



何の運命のいたずらか、自分は災害で生命を絶たれることなく、こうして日々の命を与えられている。

ひょんなことから、まさに運命のいたずらでバーの店主を務めることとなった。

将来的には野菜を使った料理を今以上に増やし、農家レストラン色を強めたビストロにしたい。


その経緯などは追々述べるとして、今日の日に改めて犠牲者の冥福を祈りたい。

とても寒くなった。

先月末に、日本で1番暑かったあの日が信じられないほど、あっという間にこの秋田にも冬が到来したようだ。

庭や周囲の山々がみるみる色彩を帯び、白鳥も飛来した。
畑の隅に生える栗の木の近くで熊の足跡や糞が見つかり、猟友会の人々が歩いていたと聞く。

今朝は初の氷点下。先日掘ったばかりの数種類のサツマイモ達が傷んでしまいそうだ。



皆さま、こんにちは。



またもずいぶんと更新が滞ってしまったが、仕事の幅が広がるにつれ、自分の力量では頻繁に更新出来なくなりつつあるというのが実態で、これも一つのライフワーク、と日常では話題にのぼらないような固い内容を投稿するという作業の醍醐味も最近味わえておらず、少々さみしい。

さて、先般、沖縄県において、アメリカ軍海兵隊に所属する兵士による婦女暴行事件が発生した。
軍人にあるまじき、いや人として決して許されざるこの行為に、沖縄県民の怒りと悲しみを大々的に伝える報道がトップで伝えられた。

結果、先のオスプレイ配備など、米軍への反感が更なる高まりを見せることとなったが、これも当然の帰結と言わざるを得ない。


しかし、筆者は思う。
海兵隊員のすべてが悪者であるのか。と。


今月3日に続き、またもや中国の監視船が尖閣諸島周辺の我が国の領海を侵犯し、不穏な動きを見せる中、米軍基地が一帯を防衛している事の抑止力は計り知れない。
日夜多くの海兵隊員が神経を削って我が国の有事を想定し、駐留している事実にも目を向けなくてはならないはずだ。


沖縄県を「もともとは琉球王国は中国の一部だった」などと、過去にあったであろう文化的影響を「属国」にまで飛躍させて扱い、「人民解放」の名の下に他国を侵略し、そんな時代遅れの帝国主義街道をひた走る国家の重圧を退けている存在がなんであるのか、それを筆者は無視することが出来ない。

筆者はアメリカも中国の文化も好きで、どちらの国にも親しい友人がいて、国家としても両国ともに大事な友好国であるべきだと考える。


中国においては国民の思想的自由を認める政策を早く執るべきで、そもそも、元来より高いレベルの文明国家であり、世界各地の中華街の活況にも見られるそのエネルギッシュな国民性は、真に民主化されたときほどいかんなく発揮されるはずで、そのときこそ、国際社会における日本の発言力は相対的に一層弱まるのかも知れない。


脱線し掛けたが、そうした事情も踏まえ、すべてを米軍反対キャンペーンに仕立てる姿勢へ異論を提示したいのである。

もちろん「本来米軍などいなければこんな痛ましい事件はなかった」と言いたい感情も理解出来なくないが、それこそ複合的にそうとだけ言い切って済む話しではないわけで、あくまでも、所属によって物事を断定する、ある意味で差別的な捉え方はすべきではない。


組織一緒くたに断罪するのではなく、罪を犯した一個人を、ひいては、人でなく罪をこそ裁くべきである。


アメリカは、筆者個人としても非常に憧れを抱く好きな国の一つであるが、拳銃所持が文化に浸透していたり、ドラッグ問題や、レイプ事件の発生率が高いことなど、先進国を標榜するに足らざる面も多く、全土に渡る治安の改善は恒久的な国家全体の大きな課題だろう。

そうした悪い面の文化や風俗が若者に与えた影響は小さくないはずで、それが、「アメリカ人は」であるとか、ひいては「米軍は」という全体的な発想に繋がってしまうのだとも言える。

兵士が犯した罪は冒頭にも述べたが、決して許されぬ行為で、断罪されるものだ。
被害者の女性の心の痛みたるや、察するに余りある、怒り、悲しみ、苦しみ、絶望感に満ちたものであるはずだ。



4年前に東京から東北に移り、初めて地方都市で住むようになって、自分の人生の「知らなかった半分」を手に入れたと思うほどのカルチャーショックを受けた。
それは、時に痛々しいほどの人と人との繋がりで、それゆえ、この土地では自殺率が全国トップの不名誉な評価も下されている。
だが、たいていの場合、地域社会全体で子供に目を掛け、育てて行かんとする文化が醸成され、小学生の学力全国トップという名誉ある評価も同時に頂いている。

そうした、地方都市における人と人との繋がりの強さは全国共通であるはずで、沖縄県も例外ではないのである。
それゆえ、仲間が、家族が傷付けられた心の痛みとしての反動は想像以上に大きいのかも知れない。

しかし、だからこそあえてここで述べたいことは、感情によって一切合切の事情を混同するのではなく、理性的に対応すべきだ、ということである。
警察官を増やす、街灯を増やす、米軍側の管理を更に徹底させる、などこれまで以上に求めても良いはずだ。


このまま泣き寝入りだけはしてはならないし、ヒステリックに感情を膨らませてもならない。
米軍側には不名誉な文化を持ち込んで欲しくはない。

幸い日本は、反感を持つ国家や文化に対しても、かつてのアメリカとの貿易摩擦でニュースを飾ったり、尖閣諸島の国有化に反対して、デモや暴動を繰り返し、現地の雇用を創出させている日系企業の焼き討ちなどの、非人道的な感情の吐露は起きない。

この世界屈指の文化の高みを維持するために、2大大国との付き合い方、そして我が国自体も大国として、世界に発信すべき精神や文化に誇りを持ち、世界各地で発生している紛争に対する先進国としての責任を果たして行く自覚が欠かせないのではないか。


皆さま、こんばんは。






例年、東北北部では「お盆を過ぎると急に秋が来る」と言われ、8月であっても朝晩の冷え込みがグンと増す。


ここ数日は30度を超えず、夜半は20度弱で、寒くなって目覚めたりするほどだ。




この時期の早朝は、夜露で曇った軽トラックの窓の外側を雑巾や軍手でぬぐうのが作業前の日課となる。








結構前の話しになるが、民主党元代表の小沢一郎議員とその会派の議員たちが与党・民主党を離党した。




社会保障・税一体改革にまつわる思惑の違いから、与野党協議と同時進行で図られてきた、与党内融和の議論がまとまらなかったことなどが原因のようで、党内部の結束ではなく、むしろ野党におもねる形で方向性を見出した内閣に「本末転倒」とする向きもあるようだが、“厚顔”な野田首相は目的のためには、多少の批判は気にも留めないように思われる。




しかし、この出来事によって、ますます「政党政治の限界」が見えてきたのではなかろうかと思えてならない。




小泉元首相が郵政民営化について国民に是非を問うべく、内閣を解散した際、党内の反対勢力に対し、別の候補者を擁立するということがあったが、今回、内閣解散こそ果たさないが、反対勢力に対する姿勢は似ているようにも感じられる。




そのたびに政局がらみの話題となり、法案の審議などは霧にかき消されたように目立たなくなる。




そもそも、“数の理論”で勢力争い的な押し問答や水掛け論をする、今のこの政治に、国の将来を設計する力があるのであろうかと疑問を抱いてしまうのである。





国会議員の定数削減についても議論がなされているが、1票の格差による違憲状態の改善も課題であるため、簡単にはいかないのではないかと思われ、政治制度そのもののあるべき姿も問われる。




道州制の導入という議論もある中、石原都知事がイニシアチブを取って進める尖閣諸島の公有化の問題や、各都道府県などの地方自治体首長の発言力が以前より増しているように思うし、選挙制度的に括られた“地元”を代表する代議士よりも、より"地域の代表"としての言動に重みも増し、その意味も明確だ。




すなわち“地元”を考える議員と“国”を考える議員とを選出する議会(あるいは各産業界の代表なども含め)によって、広く意見、法案を募り、党議拘束などによって多数決を問うのではなく、法案ごとに賛否にわかれ、より一つ一つの法案に対するしがらみをなくした上で、すみやかに各法案を議論すべきである。




政局問題のたびに法案の議論が棚上げされてしまうのは、それ自体が立法不作為と言えまいか。









また、この法案を巡る自民党の対応も非常に日和見的で、理解しがたいものとなっている。




法案について議論が持ち上がった当初、「何を差し置いてもまずは解散すべし」の一点張りだった(ように思う)谷垣総裁であったが、“いつの間にか”公明党と議論の土俵につき、気がつけば条件付きで合意に至ったのである。




その後も、何かにつけ内閣に対し“難癖”をつけており、まるで、議論だけは進めるが、法案成立等美味しいところは内閣解散後に頂かん、とたくらんでいるように窺えなくもない。








ちょっと最近批判めいた記事が多くなっているので、たまには明るい記事を投稿したいと思う。





皆さま、こんにちは。




ずいぶんと更新が滞ってしまった。




草稿はいくつか保存していたが、それはまた折を見て投稿したい。





南日本で「経験したことがない」というほどの強烈な豪雨があった。



“いつのまにか”東北も入梅していたようで、ここ数日雨天が続く。


特に昨夜からの雨は大変激しく、一晩中屋根をザーと音を立てて叩き、庭には大きな水たまりを作った。


ひどいときには、少し傾斜のあるトマトハウスに雨水が流れ込み、小川さながらにせせらいだりしたほどだった。




子供の頃、「地震、雷、火事、親父」と“怖いもの”を表現するのをよく耳にしたが、今は“水”の恐ろしさを痛いほど感じさせられてしまう出来事が多い。



古来より「風神」「雷神」と、森羅万象を「神」の実相ととらえてきた先祖たちの謙譲の美徳は、近年では感じられなくなったように思う。



それでも、筆者の幼少期は、そうした大自然に対する畏怖心といったものを、祖母や両親の日常会話の中から感じ取り、その“感覚”をいくらかは醸成してこれたように思う。



石原東京都知事が、昨年の大震災を前に「これは日本人全体への天罰」と表現したのにもあまり違和感はなかったし、「温暖化による異常気象が誘発的に起こっている」という科学的分析と同時に、「大自然の驚異を前に謙虚にならなくては」という観点も忘れずにいられる。


畏れをなくした先には傲慢な姿勢しかない。

自然に対し、また太陽や地球自体を含む森羅万象に対しての畏敬の念を持つことこそが、どんな宗教であれ、その信仰の意義であり、美徳であると筆者は思うのである。




「想定外」の天災を人災にしてしまわぬ防災の取り組みは、行政が率先して果たすべきであり、浅薄な危機管理能力は、有事の際の被害を何倍、何万倍にもしてしまいかねないということをリーダーたちは正々堂々と受け止めなくてはならない。




未曾有の豪雨の被害にあわれた方々には、心からお見舞いを申し上げたい。






***





さて、今、「正々堂々」と述べた。



最近、スポーツ大会の選手宣誓くらいでしか耳にしなくなった。



先週のことだが、2005年に起きたJR福知山線の脱線事故を受け、強制起訴された当時のJR西日本の社長たちの初公判が開かれ、被告達が無罪を主張したという報道を聞いた。

その論拠は、「部下から報告を受けていない」「すべてのカーブにおいて脱線の危険性を想定することは不可能」などといったものであったように思う。



しかし、先般の福島第一原発事故の際、東京電力の会見で、多くのメディアが切り抜いて取り上げていたため、有名になった「想定外だった」というコメントも同様であるが、トップの立場の人間として、こうした無責任な発言は決して許されるべきものではない。



大きな組織においては、効率化を図る意味で、部署や事業部に区分を設け、いわゆる“縦割り”化を果たす。


筆者が過去に所属したさまざまな組織でも当然あったことだが、それは各部門の業務に集中できるメリットがある反面、全メンバーで、情報や、取り組み内容が共有化しにくいなどのデメリットも相当大きい。



それだけに、組織の長たるものは、最前線には決して立たず、とにかく全体像を把握することにその役割が集約される。



つまり、それは各部署における業務の責を負いたる課長ないしは部長を使い、情報を吸い上げることが、トップのその主たる業務になるわけで、そこには、各部署のあらゆる業務上のリスクの把握や危機管理が当然含まれる。



すなわち、「想定されるリスク、ウィークポイントはどこか」「天災・事故など、予測不可能な事態についても冷静な分析をすすめているか」などである。


世の中に存在するどんな企業や組織活動の業務においても、最優先に果たされるべき“利用者、業務担当者すべての生命の安全”の追求を遂行しなかった時点で、その最重要任務の放棄は断罪されるに値するものだ。


それを「想定外」「職責外」などと言ってあっさり居直ることは、非常に恥ずべき発言であり、正々堂々さ、潔さを微塵ほども感じさせない行為だ。

大津市で起きた、いじめによる中学生の自殺についても同様だ。



まず、なぜ半年以上も経過した出来事が今になって物議を醸すのか。

そもそも、自殺などの不審死が起きた時点で、原因を徹底的に追究するのが警察の役目ではなかったのだろうか。


これは、“自殺”が胸によぎることでもないと全くわからないのだろうか。


「様々な要因が考えられ、いじめが原因であると断定できない」というような理由を、会見で行政担当者が述べていたようだが、様々な出来事が“心の向き”に影響する中で、“死”を思うほどの心の傷というのは、“大きな”、それもとてつもなく大きな出来事がない限りは生じないものだ。



「八方塞がり」という通り、様々な要因によって、逃げ場を失うことは確かであるが、若干10代前半の幼き心に、そもそも四方も八方も心の拠り所があったのであろうか、とも言える。



「原因が特定できない」というのはあいまいに事態を濁す、これも正々堂々たる姿勢ではない。



どう割り引いても、常識で考えれば、アンケート結果として厳然たるいじめの事実が確認されたにも関わらず、自信満々に「自殺といじめとの因果関係は認められない」などと公式に見解を表明できるはずがない。


***


国によるエネルギー政策をめぐる意見聴取会で電力会社社員が意見を表明した、という出来事も「姑息」な、かえって事態をマイナスに働かせる恥ずべき行為だ。



正しいと思うのなら、正々堂々と意見を述べるべきだ。



人は当然、ミスや失敗を犯す。


そこで言い訳をすることは、「だから仕方ない」と暗に述べていることであり、絶対にそこからの進歩はできないし、ミスや失敗を犯す自身からの脱却など到底なしえない。



先に述べた大津市の教育委員会の姿勢は、教鞭をとる立場の人間として相応しくない。


その姿を見ている子供たちに、この出来事から、その事態に対する“大人”の態度として何を教えんとするのか。

短絡的な「卑怯な心」は正々堂々さの欠如どころか、建設的な議論を侮辱さえしかねない行為であり、まさに「思考停止」の、彼らが想像する以上に罪の重い姿勢である。