特別展「スーラ―ジュと森田子龍」に関連して、兵庫県立美術館のコレクション展「近現代の書」を振り返ります。以下の文章は展示パネルから引用しました。
幕末の書
貫名海屋(1778~1863)
阿波国(現徳島県)生まれ。市河米庵(1779~1858)・巻菱湖(1777~1843)と並んで「幕末の三筆」に数えられ、「近世第一の能書家」と称された。当時日本で流行した唐様や中国晋時代・唐時代の碑法帖の学習に専念し、それに和様の要素を加味することによって独自の書風を樹立した。71歳の頃より菘翁と号し、晩年に中風に罹るが、大字で気迫のこもった傑作を残している。
《行書東坡詩》1859年
明治の書
中林棓竹(1827~1913)
肥前国(現佐賀県)生まれ。巌谷一六(1834~1905)・日下部鳴鶴(1838~1922)とともに「明治の三筆」に数えられる。書は中国の漢魏六朝時代の法に基づくとされ、古典を解釈しつつどこか飄逸とした文字造形を有するユニークな作品が目立つ。1882年から二年間清に渡り、金石の豊富な収蔵を誇った潘存らと交友し、当時流行していた碑学の影響を強く受けた。
《篆書 知足以自誡》制作年不明
大村西崖(1868~1927)
駿河国(現静岡県)生まれ。1889年、東京美術学校(現東京藝大)に入学。木彫を専攻した。卒業後は京都市美術工芸学校(現京都芸大)に赴任して東洋美術史などを研究、1896年に母校に採用され、1905年より教授となる。1906年には審美書院を設立し『真美大観』などの書籍を出版した。ほかにも『東洋美術史』といった代表的な著書がある。一方で、1919年には文人画の復興を図って又玄画社を創設、理論として『文人画の復興』を刊行すると同時に、精力的な制作にも取り組んだ。1921年以降、幾度も中国各地を遊歴して多くの古書画に触れたことが知られ、自身の研究・制作の糧とした。
《穹岫飛泉図》1921年
かな書
桑田笹舟(1900~1989)
広島県深津郡坪生村(現福山市)生まれ。神戸市立教員養成所に入学し、1924年文検(習字科)に合格。1949年に一楽書芸院を創立。以降、要職を歴任しつつ、1966年に兵庫県文化賞を、1978年に神戸市文化賞を授かるなど、安東聖空(1893~1983)とともに戦後の「神戸のかな」を牽引した。桑田はかな芸術を理論的に研究し、作品論を体系化した著作においても、当時の書壇に貢献を果たした。料紙に対する研究・復元が認められて、1970年に日本芸術院賞を受賞、1982年には東宮御所で当時の皇太子妃殿下へ料紙について進講、料紙を献上した。
《命あるままに 東海の》1977年
《命あるままに 夕されば》1977年
深山龍洞(1903~1980)
兵庫県津名郡仮屋町(現淡路市)生まれ。神戸への転居を機に1931年に桑田笹舟に師事。1939年文検に合格し、高校・大学で教鞭をとった。1948年に一東書道会を創立。関西を拠点にかな書の発展に寄与した。1950年日展初入選。1961年に日展菊花賞を、1969年に日展桂花賞を、1975年には日展内閣総理大臣賞を受賞した。「一古筆三年徹底研究主義」とされる徹底した古筆研究を生涯貫き、作風は常に変化し続けた。同時に、生活美術としての書を志向して調度品への揮毫の試みや、表具の装飾・配色などにも優れた感覚を有した。
《万葉長歌並びに反歌》1961年
《仏足石歌》1975年
《春》1979年
榎倉香邨(1923~2022)
兵庫県西脇市生まれ。兵庫師範学校を卒業後、西脇市春日神社宮司となり、教員も務める傍ら、1953年に正筆会に入会、1956年より安東聖空(1893~1983)に師事する。1957年の日展初入選以降は1983年の日展会員賞、1992年には日展文部大臣賞に輝き、さらに1996年には日本芸術院賞を受賞した。1981年に書道香瓔会を設立し、1985年には兵庫県文化賞、1990年には兵庫県書作家協会の会長に就任、兵庫県を拠点に後進の指導にあたった。2021年3月に兵庫県立美術館ギャラリー棟で開催された最後の個展「牧水の恋」に象徴されるように、主に若山牧水のうたに取材した作品が兵庫県各地に遺されている。
《富士》2002年
《山桜》2002年
《マナスル》2002年
難波祥洞(1916~2002)
兵庫県神崎郡船津村(現姫路市)生まれ。1940年に深山龍洞、1942年には桑田笹舟に師事し、1950年には日展に初入選するなど、かな書で公募展活動を行った。1942年の文検(習字科)に合格後は兵庫県で教鞭をとり、兵庫高校では深山龍洞の後任となり、書壇で活躍する多くの書家の指導にあたった。退職後は「次第に純正な真の書を希求する」ために書壇を去って、1973年に新書人連合を発足、その中心人物となった。『万葉集』全39巻・『源氏物語』全54巻を揮亳した作品はその集大成である。こうした制作の裏には誠実な古筆研究があり、「古代仮名(『書芸公論』第197号、1965年)」などの論考が遺されている。
《明石 源氏物語54巻より》1980年
前衛書家
上田桑鳩(1899~1968)
兵庫県美嚢郡吉川村(現三木市)生まれ。現代書の父と称される比田井天来(1872~1939)に師事。その門人であった同士らとともに書道芸術社・大日本書道院を結成するなど、書道芸術活動を牽引した。師の没後は独立して1940年に奎星会を設立した。桑鳩は従来の書の枠組みを超越した革新的な作品を発表し続けた。そうした作品は「前衛書」と呼ばれ、時に公募展で物議をかもしつつも、書における表現の自由を主張し続けた前衛書のパイオニアとして、日本現代書道史に非常に重要な貢献を果たした。
《茶碗・賛》1968年
《啼鳥》1968年
宇野雪村(1912~1995)
兵庫県美方郡大庭村(現新温泉町)生まれ。御影師範学校を卒業後に上田桑鳩に師事。大日本書道院・飛雲会・書道芸術院などの創設に寄与し、1951年に玄美社を発足してその主宰となった。師・上田桑鳩の没後は奎星会の代表となり、海外の展覧会へ前衛書を出品、個展を開催するなど国内外でさかんに活動を行い、書芸術・前衛書の普及と発展に寄与した。また、小学校や大学でも教鞭をとり、教育現場でも後進の指導にあたった。
《向寒山》1983年
《ふるさと》1983年
《FUN(奮)》1983年
森田子龍(1912~1998)
兵庫県豊岡市生まれ。若くして公募展で頭角を現し、上京してからは上田桑鳩に師事、機関誌『書の美』の編集を行った。1951年に研究雑誌『墨美』を創刊、誌上では書の古典を研究しつつも、積極的に抽象表現主義などの海外の作家を紹介した。1952年奎星会を脱退し、井上有一らととともに墨人会を創設、他の現代美術との交流を通じて、新の書の表現を模索した。また、海外の現代美術の展覧会に幾度も出品し、書とは異なるジャンルの作家が集った現代美術懇談会にも参加し、作品の発表とともに座談会に参加するなどした。こうした活動は具体美術協会と並ぶ関西における戦後の前衛美術運動として注目されている。
《蕭々》1965年
《虎》1965年
《龍》1965年
《圓》1972年
井上有一(1916~1985)
東京府東京市下谷区(現東京都台東区)生まれ。青山師範学校を卒業して画家を志しながら教鞭をとりつつ、生涯を書にかけることを決意、1941年に上田桑鳩に師事した。1952年には森田子龍らとともに墨人会を結成。会誌『墨人』を刊行してその編集を行った。また、森田らとともに現代美術懇談会に参加して、ゲンビ展にも出品した。墨人会に参加して以来、エナメルや凍らせた墨を使用した作品制作に着手、1957年に開催した第4回サンパウロ・ビエンナーレの日本代表作家にも選出されるなど、国際的にも高い評価を得た。
《鷹》1981年
書家・篆刻家
梅舒適(1916~2008)
本名は稲田文一。大阪市天王寺区東平野町(現大阪市)生まれ。大阪外国語大学志那語科を卒業し、商社の天津支社に入社して中国文物の魅力に触れ、戦後には本格的に書家・篆刻家となることを決意。1949年・1953年に日展特選。1971年には日展内閣総理大臣賞を受賞した。1950年に書法篆刻の学術研究団体である篆社を創設、1985年に発足した日本篆刻家協会の初代理事長、日本書芸院理事長を歴任するなど、関西を中心とした書道・篆刻界を先導する役割を果たした。また、中国大陸の数多くの芸術家たちと密接に交友し、中国・杭州の篆刻研究団体である西冷印社では名誉副社長となり、日中文化交流の懸け橋となった。
《山水図》1982年
《白居易琵琶行》1993年
《古塚狐》2002年
《「古塚狐」白文方印》2002年
書もこうして見るとアートですね。字が読めないので全体の雰囲気を見ただけですが…。幕末・明治の書は格調高く、かな書は流麗で涼しげ。前衛の書は個性的でかつ絵画的だなと思いました。