須田国太郎の芸術③ | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

西宮市大谷記念美術館で見た「須田国太郎の芸術」の続きです。以下の文章は展示室のパネルから引用しました。

 

 

  第3章 幽玄へのまなざし

 

須田国太郎は明治43年(1910)に第三高等学校に入学し、この頃から独学で油絵を描き始めるとともに、金剛流シテ方の高岡鵜三郎に師事して謡曲を始めました。この謡曲修行は昭和32年(1957)の入院前まで続けられました。

 

 

謡曲を習うことは、当時の京都の呉服関係の家庭にあってはごく普通の環境的習慣であったと言われています。しかし、この能という伝統美の空間に親しんだことは、後の須田芸術の開花に少なからず影響があったのではと思われます。

 

 

美学者の井島勉は、かつて、その須田の画業の境地について「有限な自然存在の世界というより、むしろ無限な精神霊気の世界というべきかもしれない。そのフォルムは、外から描きこまれたものではなくて、むしろ底から研ぎ出されたものであり、精確というよりむしろ幽玄である」と語っています。

 

 

須田のデッサンは、能・狂言とデッサン、東洋的な所作と西洋的な描法、この極めて二極的な関係にあるものを、舞台の傍らで素早く描写し融合させています。

 

 

能・狂言の所作は、無駄を削ぎ落し極めてシンプルな軌跡を描くもので、その動きの中には序破急と呼ばれる緩急があり、その一瞬一瞬の動きを須田のまなざしは捉えています。

 

 

展示物はデッサンが大半で、油絵、水彩画、グワッシュ(不透明水彩)、墨画が少しだけありました。

 

 

《大原御幸ごこう》1942年

 

『平家物語』に取材した能。壇ノ浦の合戦で、子(安徳天皇)を失った女院(建礼門院、シテ=能の主人公)は京都大原の寂光院にひっそりと暮らしていた。そこへ義父である後白河法皇が訪問する物語。

 

油絵は、静かに還御する法皇一行を、女院がいつまでも眺めるラストシーンを描く。

 

 

野宮ののみや》1945年頃

 

『源氏物語』に取材した能。晩秋の野宮に僧が訪れたところ、里女が現れ光源氏と六条御息所の物語を語り、自分がその御息所であると告げる。

 

油絵は、「野宮」の終わり近く、シテの御息所が作り物の鳥居の柱を左手で握り、左足を前に出すところ。御息所が鳥居を出たり入ったりして、成仏できずに六道に輪廻する迷いの世界にあることを暗示する印象的な場面を描いた作品。

 

 

水彩画《船弁慶前シテ》年代不詳

 

グワッシュ《山姥やまんば》1948年

 

グワッシュ《熊野ゆうや》1949年頃

 

墨画《仕舞(安宅あたか金剛こんごう永謹ひさのり》1956年

 

能や狂言の動きを記録したいと思い、膨大な数のデッサンをこなしたのでしょう。油絵との相性は悪いようで、その作品が展示の2点しか残っていないのは残念です。

 

 

つづく