須田国太郎の芸術① | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

4月1日(月)西宮市大谷記念美術館。

 

 

「須田国太郎の芸術ー三つのまなざし 絵画・スペイン・能狂言―」を見に行きました。

 

 

西洋美術史の教授のイメージが強い須田国太郎(1891~1961)。「東西の絵画の綜合」という壮大なテーマを掲げ、日本の精神文化に根差した日本本来の油彩画のありかたを追究し、近代絵画史に偉大な足跡を残した洋画家だったとは知りませんでした。

 

 

  第1章 画業の歩み

 

京都に生まれ幼少期から絵画に親しんだ須田は「東洋と西洋では、なぜ絵画が異なる方向で発達を遂げたのか?」という疑問を解明するために、京都帝国大学及び同大学院で美学・美術史を学びました。大学院在学中には「絵画の理論と技巧」を研究テーマとし、同時に関西美術院でデッサンを学んでいます。

 

《自画像》1914年頃

 

《機関車庫》1914年

 

《校舎》1914年

 

 

大正8年(1919)28歳で渡欧し、スペインのマドリッドを拠点にヨーロッパ各地を訪れ、ヴェネツィア派の色彩理論やバロック絵画の明暗法など西洋絵画の底流をなるリアリズムの表現に関心を持ち、探求しました。

 

スペイン中部の歴史ある城壁都市《アーヴィラ》1920年

 

模写《グレコ「復活」》1921年

 

模写《ゴヤ「ウルティヤ将軍像」》1923年

 

《ルイザ・バルバラ》 1922年

 

 

大正12年(1923)に帰国して、日本独自の油彩画を生み出そうと制作に励み、昭和7年(1932)41歳の時に初個展を開催。これを契機として、渡欧中に交流のあった洋画家・里見勝蔵(1895~1981)と川口軌外(1892~1966)の誘いにより、昭和9年(1934)に独立美術協会会員となりました。これ以降は、同協会を中心として意欲的な作品を発表しています。

 

《法隆寺塔婆》1932年

 

《唐招提寺礼堂》1932年

 

蔬菜そさい》1932年

 

《椿》1932年

 

《夜の清水》1933年

 

《夏の夕》1933年

 

《上田平》1934年

 

《早春》1934年

 

《少女》1934年

 

《工場風景》1936年

 

《水田》1938年

 

《河原》1939年

 

《夜桜》1941年

 

《夏》1942年

 

《校倉(乙)》1943年

 

《黄豹》1944年

 

《婦人像(須田夫人)》1947年

 

《黒鶴》1948年

 

《溜池》1950年

 

《静物》1952年

 

《イヌワシ》1953年

 

《鷺》1955年

 

《偶感》1958年

 

遺作《メロンと西瓜》1961年

 

 

帰国後の10年間で大幅に作風が変わったようです。その頃は経済的な困窮の中で美術史の講師を務めていたそうですが、それは戦争の影響もあっての事でしょう。戦後世の中は明るくなってきたはずなのに、作風が暗くなっていったのが気になります。

 

 

今日はここまで。次に続きます。