美術の中の物語⑦ | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

兵庫県立美術館で見た「美術の中の物語」最終回。「Ⅶ 風景画は語る」では、金山かなやま平三へいぞう(1883~1964)の作品から、描かれた時代の眺めを読み解きました。

 

 

  Ⅶ 風景画は語る

 

金山平三は神戸元町に生まれ、明治42(1909)年東京美術学校を首席で卒業、その後約4年間の欧州滞在を経て、文展、帝展を中心に作品を発表、審査員を務めるなど第一線で活躍しました。昭和10(1935)年の帝展改組による画壇の混乱を機に中央画壇から身を引き、後半生は精力的に日本各地を旅し、四季折々の日本の自然風土を傑出した筆づかいと豊かな色彩で描きました。

 

 

欧州留学時代の作品

 

《無題(水汲み女)》1912年頃

明治45年(1912)から約4年の留学中、金山はパリを拠点にヨーロッパ各地を精力的に訪れました。バケツで水を運ぶ女性の色あざやかなスカートは、オランダ、フォーレンダムの民族衣装。首都アムステルダムから20キロほど北にある漁港です。レンガ造りの町並みや跳ね橋も、いかにもこの土地らしい要素です。

 

 

《街のプラス・ピガール》1915年

プラス・ピガールすなわちピガール広場は、パリ9区、モンマルトルの丘の麓に位置します。ロータリーには車両が行きかい、当時から賑やかなエリアだった様子が伺われます。ただし車両といっても馬らしき姿もあり、まだ自動車ではなく馬車も多かったようです。画面左上には地下への入口らしきものが見えます。1900年代初めに開通したばかりのメトロ(地下鉄)2号線の駅でしょう。

 

 

《林檎の下(ブルターニュ)》1915年

留学中に金山は、フランス北西部のブルターニュ地方に3度にわたり滞在しています。この作品でも登場人物は、やはりその土地の民族衣装を身につけています。そして描かれている場面も、いかにもブルターニュらしいと言えるでしょう。微発泡のりんご酒「シードル」でも知られるように、ブルターニュはりんごの栽培が盛んな地域です。

 

 

中国旅行

 

《蘇州の運河》1924年頃

ヨーロッパから帰国後ほどなく大正6年(1917)に金山は中国東北部を訪れます。長春で縁者が旅館を経営したそうで、翌年には姫路出身の画家新井あらいたもつと朝鮮半島経由で再訪。大正13年(1924)には上海、蘇州、南京、杭州と揚子江沿いを回りました。この作品のような白壁の建物を生かした構築的な構図には、同行した画家満谷みつたに国四郎くにしろうからの感化も指摘されています。

 

 

中央本線の旅

 

長野県下諏訪を金山が初めて訪れたのは、留学から帰国し1年余り経った大正6年(1917)の1月。やがて毎年この時期に滞在するようになります。拠点とする東京からは中央本線の鉄道を使ったようで、《塩尻峠》の塩尻も同じ沿線です。

 

《湖畔(諏訪湖)》1917~34年

 

《塩尻峠》1933年頃

 

《裏浅間》1935~45年

 

 

大石田(1)

 

最上川の中流域にある山形県の大石田を金山が初めて訪れたのは大正12年(1923)です。戦前からお気に入りの写生地のひとつでしたが、もっぱら春に訪れており、厳しい冬を初めて体験したのは昭和21年(1946)のことでした。その後、代表作《大石田の最上川》をはじめ、この地の雪景色を多く手掛けています。

 

《梨咲く頃(大石田)》1917~34年

 

《大石田の最上川》1948年頃

 

 

大石田(二)

 

冬の大石田は、一面の雪に覆われます。「町の番小屋」(見張り小屋)の周囲だけは何とか見通せるように雪をかき、「繋が」れた「牛」とともに、人々は日々の暮らしを続けています。「未だ溶けぬ」雪は根深く、しかし「四月の大石田」では日差しの明るさに、春がそう遠くないことも感じられるでしょう。

 

《町の番小屋》1945~56年

 

《牛繋がる》1956~60年頃

 

《雪未だ溶けぬ》1945~56年

 

《四月の大石田》1956~64年

 

 

朝鮮旅行

 

《京城郊外》1941年

金山の朝鮮半島訪問は数度に及び、この絵は最後の機会となる昭和16年(1941)の作です。岩がむき出しになった山肌に、頂上の集落までの道筋が走る眺めは、「内池」ではあまり見かけないものだったでしょう。道中に点々と続く人影が、見る人を絵の中へいざない、切り立った岩山の何とも圧倒的なスケールを感じさせます。

 

 

ふるさと神戸

 

《布つくろい》1945~56年

布を繕う作業をしているのがどこなのか、タイトルにはありませんが、《メリケン波止場(神戸)》と同じ建物の姿が見えますので、近い場所と分かります。具体的にはメリケン波止場の根元付近を西から東へ望む眺めでしょう。今ではこの一帯はメリケンパークとして整備され、すっかり観光地化されていますが、かつては港湾交通や物流の最前線の現場でした。

 

 

《メリケン波止場(神戸)》1956~60年

画面左手の屋上が凸型の建物は、水上警察署などが入っていた合同庁舎です。この建物の位置から、海すなわち南に突き出た波止場の中ほどより東を望む眺めでありことが分かります。となると画面中央、東の空にかすむ、やはり屋上が凸型の特徴的なシルエットは、ランドマークとして名高い神戸税関かもしれません。

 

 

《海岸通》1945~56年

海岸通は神戸中心部の最も浜手のエリアです。バス停に列をなすのは、船で波止場に到着した人々でしょうか、それとも港で働く人たちでしょうか。青空に映える緑と赤の標識が目に引きます。この配色は今も神戸市バスの停留所に使われており、この美術館からJR灘駅に向かう途中でも目にすることができます。

 

 

《二百十日の弁天浜》1956~64年

弁天浜はJR神戸駅の南東側、現在では神戸ハーバーランドとなっている辺り。かつてはこのように倉庫街でした。水の広がる地面は「二百十日の」台風被害の様子でしょう。神戸はたびたび高潮などの風水害に襲われてきました。いつの台風かは特定されていませんが、むしろ、具体的であると同時に抽象化による普遍性も兼ね備えた描写のスタイルこそ、金山らしいドキュメントの語り口と言えるでしょう。

 

 

やはり神戸を題材にした絵は見入ってしまいました。展示の絵を見る限り、海外→国内→神戸と年齢と共に行動範囲が狭まったように思えますが、実際は北海道旅行の直後に体調を崩して入院、帰らぬ人になったそうです。

 

 

おわり