美術の中の物語④ | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

兵庫県立美術館で見た「美術の中の物語」の続きです。「Ⅳ 関西写壇物語」を見るために入ったのに、前座が長すぎました。<流氓ユダヤ>シリーズ以外は撮影禁止だったので、画像はネットから拝借しています。

 

 

  Ⅳ 関西写壇物語

 

1930年代に入ると、写真雑誌などで関西写真界の動きが東京のそれと対比的に伝えられ、時に東西対決の様相を呈するようになります。

 

 

この頃、東京の写真界では社会の動きに密着する報道写真が幅を利かせ始めているのと同時に、人間の深層をシュルレアリスムの手法で探ろうとする前衛写真の動きも新鮮な存在感を放っていました。

 

 

こうした東京側からすると、アマチュアの牙城である関西写真界の芸術追及は幾分微温的かつ現実逃避的に見えたかもしれません。当時の雑誌記事を読むと、関西の写真家たちはそうした見方に対して「どこ吹く風」と余裕綽々しゃくしゃくであるようなのですが…。

 

 

しかし戦後、メディアのさらなる伸長とともに、かつてあったそんな東西対決そのものも忘れられたようです。1942年、1949年にそれぞれ亡くなった安井仲治と中山岩太はその慧眼によって忘却を意識していたでしょうか。

 

 

本章では、特別展「生誕120年 安井仲治」に関連した作品を見て、戦前の関西写壇の様相の一端を探りました。

 

中山岩太いわた(1895~1949)

 

1918年に東京美術学校臨時写真科を卒業し、農商務省の海外実業練習生として渡米しました。1921年、ニューヨークに写真スタジオを開業後パリに渡り、「フェミナ」誌で嘱託写真家として活躍する一方、藤田嗣治やマン・レイなどとも交流を深めます。1927年に帰国。1930年には「芦屋カメラクラブ」をハナヤ勘兵衛らと結成し、1932年には野島康三らとともに写真雑誌『光画』を創刊。モダニズムの感性にあふれた「新興写真」の旗手として日本の近代的写真表現をリードする存在となりました。

 

《セルフ・ポートレイト》1930年

 

《上海から来た女》1936年

 

《神戸風景(トンプソン商会)》1939年

 

《神戸風景(焼け跡)》1945年

 

《デモンの祭典》1948年

 

 

ハナヤ勘兵衛(本名・桑田和雄、1903~1991)

 

大阪市西区に生まれた桑田は、17歳の時に父にカメラを買い与えられたことがきっかけで写真家になる決意をし、同年に大阪の写真機材商の見習いとなります。その後上海に渡り同地でも写真術を修行し、1929年に芦屋に写真材料店を開業し、また自らの号を「ハナヤ勘兵衛」とします。翌年、芦屋を中心に活躍していた写真家の中山岩太をはじめ、紅谷吉之助や高麗清治らと「芦屋カメラクラブ」を結成し、当時世界的に勃興しつつあった新興写真運動の一翼を担うこととなります。その後関西の写真界を代表するひとりとして、戦後にわたって精力的に活躍しました。

 

《光A》1930年

 

《光B》1930年

 

《光C》1930年

 

《フォトモンタージュ(女とグラス)A》1933年

 

《ナンデエ!!》1937年

 

 

椎原しいはらおさむ(1905~1974)

 

1932年に東京美術学校西洋画科を卒業した椎原は、関西に戻り自宅のある武庫郡今津町(現在の西宮市)にアトリエを構えた頃から、本格的に写真に取り組み始めたようです。このアトリエでは、丹平写真倶楽部の撮影会も行われました。戦後も会社に勤務しながら写真を続け、他の丹平倶楽部の会員と新しいグループ、シュピーゲル写真協会を結成しました。

 

《ブレスト》1935~39年

 

《四つの静物 習作D》1937年

 

《或るコンストラクション》1937年

 

《PHOTO PEINTURE》1938年

本作では、乾板に絵を描いたものを原版としています。PHOTO PEINTUREは椎原の造語ですが、写真による絵ということでしょうか。

 

 

流氓ユダヤ

 

このシリーズは、安井仲治(1903~1942)と丹平写真倶楽部のメンバー、川崎亀太郎(1902~1990)、河野徹(1907~1984)、椎原治(1905~1974)、田淵銀芳かねよし(1917~1997)、手塚ゆたか(1900~1986)の6人が神戸で撮影し協同制作したもので、1941年5月に大阪で、8月には東京の同倶楽部展で発表されました。

 

椎原治

 

《ヘブライの書》1941年

 

《追われるものD(荷物着く)》1937年

 

《仲間》1941年

 

 

田淵銀芳

 

田淵は関西学院大学在学中から丹平写真倶楽部に在籍し、本シリーズ作品を撮影した時は20歳台前半でした。「この二人の男の中に『強靭は生活力』と隠し切れない侘しさを感じた。ブランコのチェンさえ彼らの表情に写す影は何かしら暗示的である」と言葉を寄せています。

 

《父子》1941年

 

《題不詳》1941年

 

《題不詳》1941年

 

《男》1941年

 

 

考察:プロとアマの違い

 

写真を生業にしている人がプロ、別に本業があった人をアマと定義すると、中山岩太やハナヤ勘兵衛はプロ、安井仲治ら丹平写真倶楽部のメンバーはアマに分類できます。

 

 

作品を見る限り、プロの写真は奇抜で洗練された印象。アマの写真はプロに比べて凡庸で素朴な印象を受けました。とは言え、技術面で大差はなく、写真だけを見せられてプロかアマかを言い当てるのは難しいです。

 

 

つづく