神戸華僑歴史博物館 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

南京町の近くに、KCC(神戸中華総商会)ビルがあります。


神戸中華総商会KCC


ビルの2階に神戸華僑歴史博物館があります。


神戸華僑歴史博物館


奥から受付の方が出て来てきて、資料館の電気をつけました。


資料館を入ってすぐ、「落地生根」という大きな文字が飛び込んできました。

 「落地生根」とは、一人の人間が故郷を遠く離れて異国の地に渡り、その土地の人たちと親睦を深め、習慣になじみ、家業を興し、子や孫に囲まれて円満な家庭を築き、やがてはその地の土に帰する、という、華僑の生き方を表す言葉です。


華僑が神戸にやって来たのは、兵庫(神戸)港が開港した1868年。

 華僑は後に「南京町」と呼ばれる地区を含む居留地西側と北側の雑居地に住み、貿易・銀行買弁、海運関連業務、印刷製本、食品雑貨、漢方薬の調合販売、洋服仕立て、理髪、塗装など様々な仕事に従事しました。


1870年から広東省・福建省・江蘇省・長江下流域等、出身別に同郷団体として「公所」が作られ、

1893年に神戸・大阪の華僑を統合する組織の建物として「神阪中華会館」を創建。


1911年、中国で辛亥革命で清王朝が倒れ、中華民国臨時政府が誕生。

1914年に日本亡命中の孫文らによって、東京では「中華革命党」が結成され、その神戸大阪支部長に、華僑の「王敬祥(おうけいしょう)」が任命されました。

 1931年に始まった日本の中国侵略戦争から終戦まで厳しい監視と弾圧が続き、華僑が「通敵」・「スパイ」などの嫌疑をかけられて拷問の犠牲になった「神戸福建同胞弾圧事件」も起きました。


 終戦後、空襲で店を失い露天営業をする人や、東南アジア・中国との貿易を再開をする人など、再興が始まりました。

 さらに互助団体の復活・設立、神戸華僑総会や華僑系の金融機関・病院の創立、神戸中華同文学校の再建設なども進められました。


 1970年代以降、中日間の交流は活発になり、日本企業への就職、日本人との国際結婚が増えました。

 1995年の阪神・淡路大震災では、神戸中華同文学校が避難所になり、南京町が炊き出しを行うなどして、地元の人々と共に復興に取り組みました。


 資料館は、1868年から現在までの文献・写真・現物などが展示されていて、当時の様子をリアルに感じることができました。