初めて孫文蓮を観に行った | ニッコリ会・下関

ニッコリ会・下関

ニッコリ会・下関は
「日本とコリアを結ぶ会・下関」
の略
【目的】
日本と朝鮮半島の和解と
平和を求める活動

今朝、初めて孫文蓮の開花を観に長府庭園に行った。
この時期の早朝でないと開花したものを見ることが出来ないので、この土日と早朝5時からの開園だった。(明日7月24日まで早朝5時開園。通常は午前9時開園)
6時過ぎに着くともう結構の人々が来ていた。
これは1918年に孫文が亡命して下関に滞在中に中華革命を熱烈に支持した田中隆に送られ、その妻子が大切に保存していて、その後息子さんが東大の大賀博士に頼んで開花に成功したもので、田中隆が手にして、彼が居た長府に1994年に還って来たもので、76年の歳月を経て長府庭園で見ることができるようになった。今年は孫文からもらって98年が過ぎている。
そして初めて美しい開花した孫文蓮を見ることができた。最初開花しかけのものを見て、30分後に行くと見事に開花していた。。
中国革命を熱烈に支持した田中隆については地元の作家古川薫氏がその短編『海と西洋館』で紹介をしている位で、他に詳しく知らせるものを知らない。
海峡の街、下関はいつも流れている海のように、過去のことを記憶にとどめないのか、いやそうではない今も平家最後の合戦、壇ノ浦に没した安徳天皇のことをしのぶ、先帝祭(女郎に身をやつした女官が安徳天皇を追悼するといういわれの祭り)や、明治維新の高杉晋作、伊藤博文等の奇兵隊については記念の行事や史跡が大事に保存されている。
しかし、この孫文の中国革命を熱烈に支援した田中隆についてはほとんど知られてはいない。私も昨年、私たち「日本とコリアを結ぶ会・下関」の公開学習会講師から教わったのだった。(「第一次世界大戦と下関」)
孫文の中華革命を熱烈に支持した宮崎滔天はあまりに有名で熊本県荒尾市には記念館があり、多くの資料が展示されているが、下関には何もない。
孫文蓮を観た後に、園の係りの人に「〇〇先生の講話があります」と言われたので、すぐそばの建物に上がり聴いた。市内の園芸センターの若い職員だったが、田中隆の名前については一度だけ「中国革命の父といわれる孫文から田中さんという人がもらった蓮の種が、大賀さんという人によって開花したもの」としかなかった。話の大半は植物の蓮としての孫文蓮の説明だった。30分間の話は園芸の話となった。
外に出てもう一度孫文蓮を見ると、先ほど開花しかけていた蓮がきれいに開花していた。それを目に収め写真に撮れたことが収穫だった。
それにしても田中隆という破格の人物が第一次大戦の頃、事業で大儲けをし、その収益金を古い清朝から近代革命を成し遂げようとした孫文に惜しげもなく贈った史実、そして孫文の中華革命の成功はもっと評価されなければならない。彼は地元長府のためにも大きな財政的貢献をしたというが、このような人物を忘れ去っているのが下関市だ。忘恩の街と言われないようにしたいものだ。
孫文蓮 http://kinuyo-bunka.jp/mutter/post-165.html