備内(びない)といっても、山陽筋の国々(備前・備中・備後)のことではありません。


君主は身内に用心しなさい、という意味です。特に妻には気をつけなさい。

と韓非は忠告しています。



人主之患在於信人。信人則制於人  人主の患(うれい)は人を信ずるにあり。

                        人を信ずれば、すなわち人に制せらる。


人臣之於其君、非有骨肉之親也。  人臣のその君におけるや、

                        骨肉の親しみあるにあらざるなり。

 

縛於勢而不得不事也。         勢に縛られて事(つか)えざるを得ざるなり。

 

故為人臣者、窺覘其君心也、     故に人臣たる者、その君の心を窺覘(きてん)するや、

無須臾之休。               須臾(しゅゆ)の休むことなし。


而人主怠傲処其上。          而(しか)るに人主は怠傲(たいごう)して

                       その上に処(お)る。


此世所以有劫君弑主也。       これ世に君を劫(おびやか)し

                       主を弑(しい)するゆえんなり。


為人主而大信其子、          人主となりて大いにその子を信ずれば、

則姦臣得乗於子以成其私。     すなわち姦臣は子に乗じて、

                       もってその私(わたくし)を成すことを得ん。


故李兌傅趙王而餓主父。       故に李兌(りたい)は趙王に傅(ふ)となりて

                       主父を餓えしむ。


為人主而大信其妻、          人主となりて大いにその妻を信ずれば、

則姦臣得乗於妻以成其私。      すなわち姦臣は妻に乗じて、

                        もってその私(わたくし)を成すことを得ん。


故優施傅麗姫殺申生而立奚斉。   故に優施(ゆうし)は麗姫(りき)に傅となり、

                       申生(しんせい)を殺して奚斉(けいせい)を立つ。


夫以妻之近与子之親、         夫(そ)れ、妻の近きと子の親しきとをもってして、

而猶不可信、則其余無可信者奚   而(しか)も信ずべからざれば、

                        すなわちその余は信ずべき者なからん。


且万乗之主、千乗之君、        且(か)つ、万乗の主、千乗の君の、

后妃夫人適子為太子者、        后妃・夫人の適子(てきし)の太子たる者、  

或有欲其君之蚤死者。         或いはその者の蚤(はや)く

                        死せんことを欲する者あり。


何以知其然。               何をもってその然(しか)るを知る

夫妻者非有骨肉之恩也。       夫(そ)れ、妻は骨肉の恩あるにあらざるなり。

 

愛則親、不愛則疏。           愛すればすなわち親しみ、

                       愛せずばすなわち疏(うと)んぜん。


語曰、其母好者、其子抱。       語に曰く、「その母好まるれば、

                       その子抱(いだ)かる。」


然則其為之反也、            然(しか)らばすなわちそのこれが反(はん)を

                        為(な)すや、

其母悪者、其子釈。           「その母悪(にく)まるれば、

                        その子釈(す)てらる。」 


丈夫年五十而好色未解也、      丈夫は五十にして色を好むこと

                        いまだ解(おこた)らざるに、

 婦人年三十而美色衰奚。       婦人は年三十にして美色衰(おとろ)う。


以衰美之婦人、事好色之丈夫、   衰美の婦人をもって、好色の丈夫に

                       事(つか)うれば、

則身見疏賤而子疑不為後。     すなわち身は疏賤(そせん)せられ、

                       子の後とならざるを疑わん。

此后妃夫人之所以冀其君之死者也。 これ、后妃・夫人の、その君の死を

                         冀(こいねが)うゆえんのものなり。


唯母為后而子為主、則令無不行、  ただ母、后となりて、子、主とならば、

禁無不止、男女之楽、不減於先君、 すなわち令して行われざることなく、

                       禁じて止まざることなく、男女の楽しみは先君

而擅万乗不疑。             よりも減ぜず、而も万乗を擅(ほしいまま)

                       にして疑われず。


此鴆毒扼昧之所以用也。       これ、鴆毒(ちんどく)・扼昧(やくまい)の

                       用いらるるゆえんなり。


故桃佐春秋曰、人主之疾死者、   故に、「桃佐(とうさ)春秋」に曰く、

                       「人主の疾(や)みて死する者は、半(なかば)に

不能処半。                処(お)ること能(あた)わず。」


人主弗知、則乱多資。         人主知らざれば、すなわち乱に資多し、

故曰、利君死者衆、則人主危。   故に曰く、「君の死を利とする者

                       衆(おお)ければ、すなわち人主危うし。」




君主にとって、人を信ずることは有害です。人を信ずれば自分が人に抑えられます。


臣下は君主と血縁の親しさがありません。君主の権勢に抑えられて、やむを得ず

服従しているだけです。


だから臣下という者は、隙あらばつけ入ろうと寸時も休むことなく君主の本心を

窺(うかが)っています。


ところが君主といえば、そのような臣下の上で安閑としているだけです。


これでは君主が地位をおびやかされたり、殺されたりするのは当然です。


君主が我が子を盲信すると、腹黒い臣下は君主の子を利用して私欲をとげよう

とします。


例えば、李兌(りたい)は趙の恵文(けいぶん)王に仕えて、王の父である

主父(しゅほ)の武霊(ぶれい)を餓死させました。


君主が妻を信ずれば、腹黒い臣下は君主の妻を利用して私欲をとげようとします。


例えば、優施(ゆうし)晋(しん)の献(けん)公の愛妾麗姫(りき)に仕え、

世継ぎの申生(しんせい)を殺して、麗姫の子奚斉(けいせい)を擁立しました。


このように、君主は近くの妻も親しい子さえも、信じてはいけません。

ましてそれ以外に、信じてよい者がいるはずがありません。


そればかりか、万乗(大国)、千乗(小国)の君主の世継ぎが立てられた場合、

ほかならぬ妻自身が、君主の早く死ぬことを願っているかもしれません。


何をもってそんなことがわかるのでしょう。


妻は、もともと血縁によって夫と結ばれていないのです。

愛される間こそ近づけられますが、愛されなくなれば、疎(うと)まれるのです。


ことわざで、「母が愛されていれば、その子は父の腕に抱かれる。」

というのがあります。


これを逆に言えば、「母が愛されなければ、その子は父に捨てられる。」

ということになります。


男は五十になっても色好みはやまないのに、女性は三十になれば

容色は衰えます。


衰えた容色で色好みの夫に仕えるものですから、その身は疎まれ

貶(さげす)まれるようになります。


すると、妻は、「これでは我が子は、あとを継げないのではないか。」

と疑うようになります。


これが、君主の妻が夫の死をこいねがう所以(ゆえん)なのです。


ただ妻にとっては、自分の生んだ子が君主の座につきさえすれば、

やりたいことは何でも命令できますし、嫌なことは何でも禁止できます。

男女の楽しみは、夫の死後も以前にも増して楽しめます。


大国を思いのままに動かしても、誰からも文句は出ません。


こういうことで、毒を盛ったり、闇打ちをしたりのお家騒動がはじまるのです。


桃佐春秋(とうさしゅんじゅう)」に、「君主のうち、まともな死に方をする者は、

半分にも足りない。」と。


君主がこれを知らないために、お家騒動の種がつきません。


だから、君主の死によって利益を得る者が多ければ、その君主の身は危ういのです。



李兌(りたい):

趙の武霊王(在位:前325年~299年)は「胡服騎射(こふくきしゃ)」、騎馬民族の

戦法をいち早くとりいれ、趙を軍事的に発展させた英君でしたが、晩年に寵愛した

恵后のために後継問題の処理を誤りました。

すでに太子に決まっていた長子章(しょう)を廃嫡して、恵后の子何(か)に王位を

譲り(これが恵文王)、自分は主父(しゅほ)として一種の院政をしきました。

ところが、恵后の死後、もとの太子章を哀れむ気持ちが起きて、迷いはじめました。

そのため内乱が起きて、主父は沙丘(さきゅう)の別宮で三月あまり包囲されて、

ついには餓死したのです。 李兌はその時の包囲軍の指揮官だったのです。



優施・・・ 

晋の献公(在位:前677年~651年)は西方の異民族驪戎(りじゅう)を征伐して麗姫を

得ました。これを寵愛して奚斉(けいせい)が生まれました。

麗姫は陰謀によって太子申生を追いおとし奚斉を太子に立てました。

優施は献公に仕えた俳優であって、麗姫をそそのかして太子申生を讒言(ざんげん)

させた役回りをしたようです。



桃佐春秋・・・

孔子が魯国の年代記を整理したのが「春秋」ですが、それを模して他の諸国にも

「OO春秋」という年代記がありました。これもそのひとつですが、現存していません。