画史繆太太
(画史の繆婦人)
光緒年間の中葉以降、西太后慈禧は突然書画を嗜み始め、草花の絵を学び、大きな字を学んだ。常に福・寿などの字を書き、お気に入りの大臣らに下賜した。
慈禧は一人か二人代筆してくれる女性を置きたいと思っていたが、見つからなかったので、命を下して各省の督撫に探させた。四川に役人の家柄の繆氏という人がいて、雲南人で、夫は官員で蜀で死亡しており、子もまた科挙に合格していた。繆氏は花鳥の絵がうまく、琴を弾くのが上手で、小楷がまた整然と美しかったので、求める人材にぴったりであった。そこで彼女は駅伝によって北京に送り届けられた。
茲禧は彼女を召して面接するとたいへん喜び、左右に侍らせ一日中離れなかった。また跪拜の礼をすることを免除した。月俸は二百金で、彼女の息子のために捐官して内閣中書にしてやった。繆氏はついに慈禧の清客になった。世間で繆老太太と呼ばれていたのは彼女である。
その間交際によって彼女の作品が瑠璃廠の店に売られていた。私は以前これを見た事があるが、非常に趣のあるものであった。これより後、大臣という大臣の家には皆、慈禧から賜った花卉の扇や軸などの物があったが、すべて繆氏によって画かれたものであった。
慈禧の還暦のお祝いに先立つこと数日、慈禧は急に繆氏に「おまえは満洲の婦人の正装の大妝は見た事があるだろう。私はまだお前たち漢人の大妝が果たしてどんな物か見た事が無い。」と言った。繆氏は「いわゆる鳳冠霞帔がこれに当たります。」と答えた。慈禧は「今度のお祝いの日にはおまえは絶対にそれを着て私のお供をするのだぞ。」と言った。繆氏は畏まって承諾した。そこでその日すぐに冠帔を購入し、祝いの日にこれを着た。慈禧は大笑いをして彼女を見る事が出来ないほどであり、戯劇に出てくる誰某みたいだと言った。祝いの席で慈禧は繆氏を人々の目に付くところに立たせた。満人の婦人でお祝いを言いに来た人々は皆大笑いをして言葉を発する事ができなかった。慈禧はこの日一日中大変楽しみ、褒美は数知れなかった。繆氏は一日中立たされて、言葉にならないほど辛い思いをした。
当時満人が漢人をおもちゃにしたのはこんな具合であった。しかし当時は宮廷内の命婦がこれを聞けば、皇族に優待され皇帝の恩恵を受けたとして、羨ましがらない者はいなかった。繆氏は名を素筠といい、母方の姓は不明である。