咸豊の末年、天下は極度に腐敗し、ほとんど収拾のつかない状態であった。そのため文宗[1]
は酒と女に溺れ自らを害した。当時、若い女優で朱蓮芬という者がいた、容貌は役者の中でもピカ一で、昆曲が上手で、歌声の優美で清らかなことこの上なく、さらに詩を作るのがうまく、楷書が上手であった。文宗は彼女を寵愛し、しじゅう彼女を宮中に呼び寄せた。陸御史という者がいて彼もまた彼女をひいきにしていた。彼女にしじゅう会うことが出来なくなったので、遂に文宗に直言し厳しく諫めた。経書を引用し、長々と数千言におよんだ。文宗はこれを見て大笑いし「陸都老爺がやきもちを焼いている。」と言い、手ずからその奏に対して「犬が噛んでいる骨を人に取り上げられたようなものだ、どうして恨まない訳があろうか。欽此。」 と返答を書き、罪に問わなかった。文宗はこのように風流で滑稽であった。わたしは丙子(1876年)に都におり、合肥の龔引孫比部がこの話を私に聞かせてくれた。龔もまた蓮芬をひいきにしていた。