先日のクリニック定期受診にて話したこと。主に私からの独白。

医師はそれにうなづいたりするだけな感じだった。

安定しているというのを確認しつつ、という診断だったのだろうか。

 

・躁鬱のアップダウンが始まりそうな気配を感じるようになってきた気がする。

・躁や鬱のモードに入りそうなときはとても不安だが、その不安自体にも慣れてきている。

・会社の業績も、躁鬱の繰り返しのように安定しないが、そのこと自体にも慣れてきている。

もちろん事業継続をさせなきゃいけないので油断はできないが、以前に比べて焦燥感はなくなってきているように感じている。

・週末など子守のために休むことが多くなり、そのことが休息となり良い効果があるのかもしれない。

 

ざっとこんな感じ。

 

先日、1カ月ぶりのクリニック。

カウンセリングと診療とを継続的に受診している。

カウンセリングについては、いったん、今回で終了しましょうということになった。

落ち着いているから。

 

医師も、同じ判断。

医師の診断では、躁うつ病自体は、まだ当然ながら継続しているので、服薬は続けるとのこと。

数年にわたって、服薬についてはコントロールする必要があり、止めてしまったら元に戻るので、慎重にしなくてはいけないとのことだった。

 

今週はうつ期に入ってきたか?という感じ。

 

飲み会が楽しめなかったり、

家族との会話でも皮肉、自己卑下っぽくなったり。

自分でもまたアップダウンが起きていくのじゃないかと不安が湧きあがり自信が持てなくなってゆくのが苦しい。

 

頑張らなきゃな。

今日はクリニックの日。

かつての会社の同僚たちとの飲み会をしてきた。

もはや悪友。

戦友、同士とも呼べるかもしれないが。

 

その会社は、現在は1部上場企業。

我々がいたときは、急成長中のベンチャーで、私が入ってから数年後にIPOをした。

その時から会社にいる人たちと、退社して独立したり会社を作ったり、転職したり、の人も。

出戻り組もいた。

 

私は、現在はその会社の事業とは全く別業界に生きていて、ほとんどの仲間たちは同業界にいて、まずは情報にキャッチアップするのが大変。

あとは、どうしても会社の話になりますね、

「あの人はどうした」とか、「誰と誰がくっついた」とか。

愛すべき会社だし愛すべき人たちだと思う。

 

ただ、

自分としては、楽しめないことに気づいた。

もしかしたら、やや鬱期に入っているのかもしれないが。

 

もともとアスペで人々がどうしたこうしたに関心がないし。

かつての上司からも「君は人に無関心なんだね」と言われたことがある。

その人も、周りからは奇人変人と言われていて、人の心が読めないキャラでしたが。

そのかつての上司も、上場組。

私は、人に無関心なのだろうか、とずっと自問している。

そうかもしれない。

関心の持ち方がわからず、スキルを持っていない、という感覚が自分の中にはある。

そういったことを習うことはできるのだろうか?

認知行動療法的に習ってゆくのだろうか?

 

会社の経営、運営でも、人への関心が薄いために前に進みづらいことが多いのだろうな、と思う。

昨日の仲間たちは、もともと私が無口だし、そういったキャラだし、というのをある程度わかってくれているのが楽ではあるが。

 

経営理念を構築しなきゃ、とずっと思っていて、考えていて、でも出てこない。

かんたんにまとまるものでもないとは思うけれども。

 

目の前の仕事に追われる中で、また考える作業が追いやられてゆく。

 

http://www.asahi.com/articles/ASJBJ7D61JBJUUPI00G.html

「バイバイ」笑顔の幼子、母は橋から落とした」の記事。

 

朝から仕事が手につかない。

バイバイ、って、そんな。。。

 

3才だったら、もう大体のことはわかっている。

落ちたらどうなるとか、死ぬとかはわからんでも、感受性が大人より鋭敏だから、何か違うぐらいはわかる。

悲しい。ひたすら。

言葉が出ない。

 

短歌の鳥居さんも、目の前で踏切を通る電車に友人が飛び込むのを見ていて。

 

自分はバツイチで、今2回目中だが、子どもは両方に授かった。

最初の子供の「親」には、なれなかった。

今の子供には、頑張って「親」をやれるよう、努力しなきゃと思っている。

 

子どもができたからって、生まれたからって、そのまま「親」に自動的になれるわけじゃない。

そうなれる人もいる、もちろん。

でもなれない人もいる。

なれない場合やなれない人をサポートする仕組みが必要だと思う。

親になれない人たちを罰するだけでは、事態は変わらない。

今回の事件も、児童相談所も入っていたようだが、でも結果は悲しいことになった。

 

人生は、すでに90年時代で、人生50年だった時代とは大きく状況が異なる。

20代では、オトナになれない。

30代半ば、ぐらいが現実的な感覚なように思う。

もちろん、若くから精神的に成熟する人もいる。

自分も含めて、30を過ぎて、やっと精神性が実年齢に追い付いてきた感覚がある。

それまでは肉体を持て余していたような部分も、思い返せばある。

そういったことは、20代の真っただ中にいるときには、むしろ気が付かず、オトナだと自分のことを思っていて、それはただ大人ぶってみているだけで、コドモであることの証明に他ならないのだが。

 

今の世の中の仕組みは、どちらかというと老人を大切にするほうに偏りすぎ。

もちろん先達を大切にすることは大事だが、あまりにもバランスが悪い感じ。

もう手遅れになり始めている。

なんとかせねば。

 

土曜と祝日は、子どもサービス三昧。

自分も結構、休養になった。

気持ちは休まる一方で、体は、これ四十肩?ってぐらい、肩と首が痛い。

以前も、雨や低気圧の日になったような記憶があるが、今回もそれだろうか?

ぐるぐる回したりほぐしたりしてもなかなかよくならない。

 

「合理性」には、「知的合理性」と「感情的合理性」がある、という話。

http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=4046

 

感情的合理性、というのはやや論理矛盾な気がするのだけど、ナイスネーミングではある。

女性はえてして、感情的合理性が高いし、女性に限らず、昨今のコミュニケーション重視の世の中においては、老若男女の間で重視されていると思う。

 

アスペルガーがもっとも不得意とする分野。

感情的合理性で来られると、落ち着いて思考できるときは「あ、感情的合理性で今はこの人はいるのだな」と理解しながらコミュニケーションできるが、その余裕がなかったり、コミュニケーションの時間が制限されていたりという状況の中では、自分の知的合理性を全面に押し出して自分の論を展開することになってしまうので、結局のところ折り合いがつかない。

 

そんなコミュニケーション、会話をしている中で、相手の顔色の変化には、気づく。

「あ、なにかあったな」とか「何か、自分は言っちゃったな」とか「何か地雷踏んだな」とか、想いながら話を聞いてる。

そして、その会話の行方は、その場では修正が効かない方向へ行ってしまうことが多い。

なぜなら、相手の感情を、理屈で害してしまったのだから。

たいていの場合、理屈は感情に勝てない。

一時、勝てたように見えても、最後には感情が勝つ、良くも悪くも。

 

人間は、生き残るために感情を発達させてきたので、それは当たり前だろう。

いちいち理屈で時間をかけて説明したり伝達したりするよりも、いざという場面では、感情や感性で、一瞬で物事を伝え合う必要があって、そのために感情は合理的に進化の過程で発達してきた、と読んだことがあるが、とても納得のいく説明だった。

 

ただのメモです。

 

 

●双極性と経営者

・双極性の経営者、有名人を調べてみた

 

●双極性の人が向いている職業、生き方

 

●双極性と健常者とのリスク比較

自殺リスク

人生の幸福度の実現に対するリスク(どちらが幸福な人生を送れるか?)

 

 

●双極性とアスペルガー

 

●双極性を人生に活かす

 

●双極性と飲酒などの依存症

東京はじっとりと湿気が強い天気。

体調や気分はなぜか変わらない。

「天気が影響する患者さんも多いです」と医師は言ったのだが。

もしかしたら、プラセボ的にそのようなことを言うことで、私の症状を和らげようとしたのかもしれない。

それも治療の一環と考えると、医師とはさすがであるとも思う。

 

体調や気分が落ち着いていると、仕事も進むし落ち着いてものごとを考えたり、周りとのコミュニケーションも円滑になり始める。

とても気持ちが良い。

 

経営の事を考えたりしている。

例えば、経営には哲学がなければいけない、とか、哲学や思い、理屈よりも稼がないと何ともならない、とか。

どちらも正解で、真の正解は、両者とも同時に成し遂げることなのだろう。

アスペルガー的なのかもしれないが、両立というのが難しい、どちらかを選択したくなってしまう。

こちら、何か理不尽な少額訴訟に巻き込まれた方に参考になれば幸いです。

 

以前に、私は仕事上のことで裁判になったことがある。

顧客から取引のことで訴えられたのだ。

特に当方には非のない案件だったが、相手側にとっては騙された、ということで訴えられた。

説明などは十分にしたし、相手側も一部、自分の思い込みだと認めていたのだけど、どうにも引き下がれなかったらしい。

 

当初、

「出るところへ出るぞ」とすごまれたが、当方としては取引において何も負はないと考えていたので「どうぞどうぞ」としていた。

脅しのような電話もかかってくる。「おい、こら、なめんなよ」。いつの時代だよ。

こんな人たちいたんだ、と思ったが、確かに精神的には負担になる。

 

それから少しして、裁判所から書類が届く。

略式裁判だった。

私にとって、初めての裁判沙汰であり、興奮した。

やるならやってやるぞ、と。

 

弁護士とも相談した。

弁護士の見立てによると、少額裁判の場合、裁判官は、ほぼほぼ高い確率で和解を勧めるでしょう、と。

弁護士としても、時間と費用と労力から考えれば、理不尽でも和解がお勧めになってしまう、ということ。

もちろん、徹底抗戦するということであれば協力は惜しまないが、少額でもあるし、名誉等だけが問題であれば、名誉棄損はさせないなどと和解に入れてしまえばいい、ということ。

弁護士によれば、とにかく、裁判官の体質として、早く終わらせたいし面倒なので和解を勧めるのだ、と。

 

結果として、裁判所には4回ほど出向き終了。

和解で終了。

和解内容は、金額部分では、言わゆる間をとって、中をとって、という額。

 

流れは、以下のように進んだ。ちなみに約1か月ごとに裁判は開かれる。

 

1回目。

裁判室には、裁判官と書記官1名、立会人1名。そのメンバーで順番に裁判をどんどん進めている。

 

我々の番がやってくる。

お互いの言い分を言いあい、終了。15分ぐらい。

ちなみに、事前に言い分の根拠となる資料を郵送やFAXなどで裁判所へ提出済み。

当方は被告として、経緯を説明し、当方に非はなく原告主張に同意することはできないことを主張。

裁判官は物腰は柔らかかった。

 

裁判の前後に、列室の裁判室の掲示板を眺めてみる。

簡易裁判所は、小さな裁判室がずらりとフロアに何部屋も並んでいるのです。(東京日比谷の場合)

どの裁判の部屋も、消費者金融の利息返還訴訟と思われるものばかりなことに「やっぱりそうなんだ、へえー」となる。

自分の裁判が始まるまで、後方の傍聴席で待っていた。

自分の裁判は午前の一番最後。

それまでの裁判は、いずれも消費者金融のもの。

淡々と裁判官が「これでよろしいですね?」と金額を述べ、代理人の弁護士と思しき人物が「はい」と答えて進んでゆく。

事務処理と言った感じ。

 

 

2回目。

前回の主張補足。

当方は前回から変わらずなので、特に補足もなし。

相手は、主張があるにも関わらず、自分で資料などを用意できず。

裁判官もそれには苦笑。

なので、裁判官は「主張整理」をしましょう、と、途中で立会官さんとともに別室に移り、言い分を整理。当方の言い分は変わらない。原告は延々と主張。

それから裁判室へ戻り、立会官から裁判官へ報告。

裁判官から当方への確認は、「新たに主張や補足などありますか?」→「これまでと変わりません」で終了。

 

 

3回目。

前回のさらに補足。

ちなみに原告は1時間ほど遅刻。

原告失格だろう。

原告が主張補足をするべきだが、この回も十分な資料などはなく、口頭で延々と自分の言いたいことを言う。

裁判官は、「和解をお勧めします」という。

当方も、弁護士とも確認し、和解でいいやということにしていたので、「和解でお願いします」と。

するとここで原告、「和解ではなく、私は徹底的にやりたい」旨を裁判官に言う。

おい、それはこっちのセリフだよ、と思いつつ聞く。

裁判官は原告に対し、「いや、これは被告さんも和解でと言っているんだから、和解でいきましょう」と、ぴしゃっと。

裁判官「次回は、和解書を作成して、それで終わる予定です」と。

 

4回目。

和解書を作成し、終了。

 

日本の裁判はこうなっているのだな、と思いました。

 

自分の場合は、民事裁判で、刑事裁判とは事情が違うと思います。

刑事のことは、冲方丁氏の「こち留」で面白く書かれています。

正義や善悪、筋を通すとかという議論もありますが、裁判所としては、かなりの訴訟件数があり、事務的にどんどん進めないと処理できないということ。

これはAI裁判などが早く実現してほしいなと思うが、一方で、裁判所は民事の場合、あくまで立ち会って仲裁するということしかできないのだな、とも思う。

現実はそればかりではないことを勉強した良い機会でした。