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++  エピソード日本史 ~人物で繋ぐ日本の歴史~ 
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━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ vol.041━2007.02.16━…‥*


 ◆◇ 国仲連公麻呂 《クニナカ(の)ムラジ・キミマロ》…


 奈良時代の仏師。祖父の代に百済滅亡に際して日本に渡った渡来人の一人。

 大和国(奈良県)国仲村に住んだ事から、国仲姓を賜った。

 同時代、東大寺大仏の造仏司長官となって活躍した大仏師とされるが…。


 《*仏師:ブッシ》

 《*百済:クダラ…朝鮮半島の南に位置していた古代朝鮮の一国》

 《*造仏司長官:ゾウブツシ長官》


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■ 天平のミケランジェロ、国仲連公麻呂
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ミケランジェロといえば、14世紀後半から15世紀前半、
イタリアのルネッサンス時代に活躍した彫刻家。
有名なダビデ像を作った人と言えば、分かりやすいかも知れません。


その世界的に有名なミケランジェロに勝るとも劣らない偉大なる彫刻家が
統一国家が生れたばかりの古代日本にいたのです。

時はミケランジェロの時代から遡る事700年前、8世紀、奈良時代。
統一国家の象徴として造営された平城京を舞台にドラマは始まります。

その頃、疫病や大地震など大きな災害が続く、不安定な世の中でした。
時の帝・聖武は、その責任を感じ、悩み苦しんでおりました。
その帝の心を慰めたのが、仏教だったのです。


聖武は自らを“三宝の奴”とまで呼ぶほど、篤く仏教に帰依し、
その信心が大仏建立の決意をさせたのです。

《三宝の奴:サンポウのヤッコ》


“大仏を造る”

そう宣言した大仏建立の詔によって、大仏が造られるはずでした。


その時に関する記録として、続日本紀には、このように記されております。

『鋳工敢へテ手ヲ加フル者ナシ』

つまり、誰も作る事が出来なかったのです。


この時代、日本の鋳造技術は進んでおり、
当時、世界的に見ても大きな溶解炉を持っておりました。

しかし、それまでの大仏と呼ばれるものでも、
大きさは3メートルに満たないものばかり。

この時、聖武がイメージした大仏は16メートル。
およそ5倍もの大きさになるのです。

未曾有の大きさに誰もが尻込みしたにも関わらず、
一人の人物がその一大プロジェクトに手を上げました。


それが、国仲連公麻呂でした。


公麻呂は、この時代を代表する仏師です。
後の世に、大仏建立の統括ディレクターとして名を残しますが、
彼個人の作品については、記録が残っておりません。

ただ、大仏建立という未知のプロジェクトの指揮は、
並大抵の人物には任せられません。

記録には残っていなくても、彼個人の力量は高かったはずです。

その公麻呂の作品ではないかと考えられているものに、
東大寺戒壇院の四天王像、新薬師寺の十二神将像や、
法隆寺夢殿の行信僧都像など、があります。

《東大寺戒壇院:トウダイジ・カイダンイン》
《四天王像:シテンノウ像》
《新薬師寺:シン・ヤクシジ》
《十二神将:ジュウニシンショウ》
《法隆寺夢殿:ホウリュウジ・ユメドノ》
《行信僧都像:ギョウシン・ソウズ像》


これらが全て公麻呂の作品だとしたら、
まさにミケランジェロに勝るとも劣らない偉大な彫刻家だったといえます。


さて、その公麻呂が、どのようにして、大仏建立の難題に取り組んだのか?

そのヒントは、大仏の所々にある、
ひび割れのような『鋳境《イザカイ》』というものにあります。
この鋳境は、同じ高さでぐるっと大仏の回りを一周しています。
さらに、その上に同じように鋳境がぐるっと一周しています。

この鋳境。実は銅を鋳造した時のつなぎ目なのです。

まだ溶接の技術が存在しなかった頃。
部分的に作るにしても、手だけなら手、頭だけなら頭、
というように分けて作る事が出来ませんでした。
そして、一度に造る事の出来る高さも3メートルほどと限界のあった技術。

ならばと、公麻呂は、発想を転換します。

下から順々に輪切りにした大仏を積み上げていけばいいじゃないか!と。

それならば、溶接の技術もいらない。
高さも3メートルぐらいずつ造っていけばいい。

その方法は見事当たり、途中聖武の死に際し開眼供養が早められたものの、
20年にもわたる一大プロジェクトは完成をみるのです。


後に世界遺産として、世界中の人々に愛され、
国宝として、長い歴史の間大事にされてきた
奈良の大仏が、ここに完成したのです。


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公麻呂の天才的発想によって完成した奈良の大仏。

この大仏の開眼供養の後、上皇となっていた聖武のたっての願いとして、

一人の僧が大仏殿前に戒壇を築き、多くの人を受戒しました。


彼は、何度となく来日に失敗し、失明しながらも

6度にも及ぶ渡航によりようやく日本に降り立ち、

日本の仏教に多大な影響を与えました。


彼こそ、唐招提寺の創建者にして、日本律宗の開祖、鑑真なのです。



┏━◇  次回の予告  ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓


  日本仏教の大恩人、盲目の大僧正、鑑真


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━━[編集後記]━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ようやく奈良時代の中期のお話の山場、大仏が完成しました。

大仏の話は日本の歴史上必ず出さなければならない話ではありましたが、

それでも、聖武天皇が造れといいました!では面白みもないので、

やはり、大仏建立の統括ディレクター、国仲連公麻呂は出したいと思っておりました。


古代日本には、世界に決して負けることのない偉大な芸術家がいたこと。
それを国仲連公麻呂が証明してくれました。
一人でも多くの人に、奈良の大仏と共に、彼の名も覚えていて欲しいものです。



※国仲連公麻呂については、『天平のミケランジェロ(田中英道氏著)』と、
 堂々日本史の大仏建立の話を参考にいたしました。



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