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++  エピソード日本史 ~人物で繋ぐ日本の歴史~ 
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━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ vol.040━2007.02.15━…‥*


 ◆◇ 聖武天皇 《ショウム天皇》…


 奈良朝第三代の天皇。文武天皇の子で諱を首といい、藤原不比等の孫にあたる。
 国分寺や東大寺大仏の建立の詔を発するなど、仏教を篤く信仰し、興隆に力を注いだ。
 その一方で、都を転々とさせ、迷走した帝とも目されるが…。


 《*諱:イミナ》

 《*首:オビト》

 《*詔:ミコトノリ…天皇の命令やその命令書など》


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■ 早過ぎた民主主義?コンプレックス大帝、聖武
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奈良県奈良市雑司町、華厳宗大本山の東大寺。
修学旅行シーズンには、多くの中高生が訪れる世界遺産の一つ。
ここに、国宝に指定されている盧舎那仏があります。
俗に言う『奈良の大仏』。

《*盧舎那仏:ルシャナ・ブツ》

743年に大仏建立の詔が発せられ、約10年後の752年に完成したとされます。
今から1300年も昔のお話です。

この世界的にも有名な『奈良の大仏』の建立を考え、
実行した人物が、聖武天皇だと伝えられています。


この聖武、わずか14歳で皇太子となりながら、
24歳まで即位出来なかった経歴があります。

彼の即位を邪魔した、もしくは拒んだ形になったのが、
叔母にあたる・美貌の女帝・元正だったと言われています。

父・文武が15歳で即位した例が存在したにも関わらず、
幼過ぎて任せられないという理由から、
10年にも渡って帝になることを許されませんでした。

表向きは、聖武に帝としての器量と経験をつけてから、と言う事らしいのですが、
どちらにしても、「帝としての資質に欠ける」と突きつけられたようなものでした。


これは聖武にとってどんな思いだったでしょう。


そんな彼がようやく手に入れた帝の地位。
その直後から、とても不運な事が続きます。

ようやく生れた自分の子が夭逝してしまいます。
その原因は長屋王による呪詛だと言う密告がなされ、
無実である長屋王の一族を滅ぼしてしまいます。

長屋王の変(729年)と呼ばれるものです。


この長屋王の変後、翌年(730年)に大かんばつが訪れます。
春から日照りが続き、夏まで雨が全く降らず、
全ての川の水が減り、五穀が痩せたとまで言われました

また、同年に神祇官の家に二日続けて落雷し、火災。死亡者も出しました。
732年、733年と、またしてもかんばつが襲い、さらに翌年、734年には大地震発生。


今でこそ、天変地異を国のトップのせいだと思う人はいないと思いますが、

古代の日本では、このような自然災害などは、王の不徳によるものと考えられておりました。


つまり、帝である聖武に問題があるのではないか、という疑いが生れました。


聖武はなんとか、そういった悪評を払拭しようと、

飢え苦しんでいる民衆に食料を与えたり、罪人の罪を許したりし、

また、囚人達に衣服を与え、更正を助けるよう指示もしました。


しかし、それも無駄に終わります。

735年、最大の不運が襲い掛かるのです。

疫病の大流行です。



国の要職についていた藤原四兄弟がバタバタと死んでいき、

国の政にまで影響が出てしまったのです。


もう、聖武の不徳を疑うものはいなかったと言ってもいいでしょう。

それが藤原広嗣の乱によって明確に言葉として発せられます。


『天地の災異を陳ぶ』

つまり、『天災の原因は帝、あなただ』と。


この時、聖武のコンプレックスは最高点に達しました。

「自分は天皇として失格なのか…!?」


このコンプレックスに苛まれていた聖武に希望の光を与えたものが、仏教でした。



この広嗣の乱が起きる数ヶ月前のこと。
聖武は、河内の国にあると言う知識寺という寺に立ち寄りました。

《*河内:カワチ…現在の大阪府東部周辺》
《*知識寺:チシキ・ジ》

知識という言葉は、仏教用語で、
仏へ信仰心を同じくする信者の仲間による団体行動、
あるいは彼らの財産や労力をも指す言葉とされています。

つまり、この知識寺。
信者による自主的に、彼らの力のみで作られた寺だというのです。


天皇失格と烙印を押された聖武は、仏教をより篤く信仰するだけでなく、
この時から、知識という民衆の力に注目し始めるのです。

この知識寺に安置されている盧舎那仏にいたく感動した聖武は、
自分も同じようなものを作ると心に誓いました。


そして、大仏建立の詔が発せられました。
その中で彼は、自分は天皇としての力を用いず、
仏の前では皆平等なのだから、力をあわせて大仏を作ろうと呼びかけるのです。

そして、あまりにも一方的な民主主義的活動を強制した聖武。
あくまで、天皇としての力を用いなくても、
自分は民衆を動かせる力があると言う事を示す為だけに知識を用いると言う
コンプレックスに象徴される活動だったのです。

結果は、やる前から分かっていました。
財政難による計画の中断でした。

その後都を転々とさせ、時には都はどこがいいか?というアンケート調査まで行います。
民衆の声を少しでも集めようという心がけが見え隠れしますが、
結果としてそれは、聖武の権威を失墜させるだけという皮肉な結果に終わるのです。


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さて、紆余曲折はあったものの、最終的に奈良の大仏は、

当時の都、平城京にて再度建立され、完成します。


その完成にこぎつけるまで、聖武のこだわりである「知識」のせいで、

色々な壁が立ちふさがり、大仏の建立は困難を極めました。


大仏自体に使用する金や銅が足りなかったり、

建立の為の財源が乏しいなどの原因もさることながら、

一番の困難がありました。


それは、大仏の作り方です。


その当時、世界的にも大仏を作る技術自体がないに等しいものだったからです。

聖武は困りはてました。


「どこかに大仏を作れるものはいないものか…」



そこへ「大仏は私が作ってみせる」と一人の人物がやってきました。

彼が、天平時代の天才仏師、国仲連公麻呂なのです。



┏━◇  次回の予告  ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓


  天平のミケランジェロ、国仲連公麻呂


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━━[編集後記]━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ごぶさたしております。yatarouです。

ようやく、日本が世界に誇る国宝「奈良の大仏」まで漕ぎ着けました。

東大寺で大仏を見れば、当然聖武天皇の話は聞く事も多く、

日本史の登場人物ではメジャーな方だと思いますが、

改めて考えてみると、聖武の人間的な部分と言うのはあまりよく知りませんでした。


恐怖におびえ、都を転々とさせたひ弱な天皇だとか、

自分は三宝の奴だと言って勝手に出家してしまうなど、無責任なやつだとか、

そんなイメージがあったのですが、

改めて調べてみると、一概にそうも言えないのかな?と感じたきっかけが、

遠山美都男氏の著書「彷徨の王権聖武天皇」を読んででした。

今回の更新に関しては、大部分を遠山氏の見解を参考にさせていただいております。


今回は紙面上の都合もあるので、簡単に書いてしまったのですが、

実は聖武は本当に民主主義を目指したのではないかと感じたのも事実です。


ただ、民衆や文化が成熟していなかった当時の社会で、

現実問題として、民主主義という価値観が受け入れられたかどうかは疑問が残りますが…。


とはいえ、もし機会があれば、聖武の民主主義というテーマで

何か書いてみたいぁとも感じました。


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