今日の稽古(堀内宗心宗匠が亡くなった事など) | 茶の湯放浪記

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田舎に住む、普通のサラリーマン茶人のおろかな日々を綴っています。
ご一笑頂ければ幸いです。
筆者は坊主頭ですが毛髪の事情によるもので、寺とは関係ありません。

朝、ブログの「マイページ」を開くと、過去の記事「『雨にもまけず粗茶一服』を読んだ」にコメントが入っていた。

そのコメントには、本の感想から始まって、5月27日表千家の重鎮「堀内宗心」宗匠が亡くなった事が書いてあった。


お茶の世界ではあんなに有名で偉大な人なのに、どのTV・新聞でも報道されていないとも、書いてあった。


確かに、京都新聞のホームページを検索しても出てこない。

それ以前の問題として、「堀内宗心」と入力しても、何も出てこない。

矢張り、お茶の常識は、世間の非常識なのだ。


知っている人は知っているが、知らない人は知らないと思うので、堀内宗匠がどんな人かを、私見も交えてちょっと書く。

御存じの方は飛ばして読んで下さい。(失礼なことは書きませんから、ご安心を。)


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堀内宗心(ほりのうち そうしん) 

大正8年(1919年)1月京都に生まる。

昭和19年9月京都帝国大学理学部卒業、同理学部副手。

昭和21年2月、幽峯斎宗完(他次郎)の死去に遭い、長生庵を継ぐ。

同年4月、表千家不審庵入門、以後内弟子として即中斎宗匠(表千家前家元)に師事。

同年12月、建仁寺竹田益州老大師より兼中斎の斎号を受く。

昭和28年4月、北野天満宮千五十年万燈献茶奉仕に際し、十二代堀内宗完を種名する。

平成9年10月甥の堀内國彦氏が宗完を継ぎ、宗心を名のる。

平成11年5月、表千家家元より的伝を受け、今日に至る。

著書多数。

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以下は、私見だが、私は宗匠のファンで著書も多数持っているので、多少の事は知っている。

しかし96歳やったんやなあ。

これは知らんかったが、数えたことが無かっただけ(笑)

ここ数年は表には出てこられてなかったそうだが、臥せっておられたのかなあ。


堀内家というのは表千家門下の茶家で、門弟筆頭の家柄。

家元の親類筆頭の久田家と並ぶ、両家老みたいな家。

彼は、そんな家の三男に生まれた。

京都帝国大学理学部び進み、卒業後も大学に残った。

太平洋戦争中に兵役を免除されたくらいの秀才科学者だった。

ところが、長兄が幼い子供を残して急病死したため、三男の彼が急遽家を継がなければならなくなった。

(次男は既に夭折)

しかも、自分の跡は甥(長兄の子)が継ぐと言う損な役回りで。

しかし、宗匠は科学者の道を諦めて、お茶の家を継がれた。

そして精進して、大茶人になられた。


この宗匠のユニークなところは、お茶に科学を持ち込まれた事。

また、テキストや茶書の解説も判り易くて、面白かったなあ。

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今日の稽古の道具組は下記の通り。(笑)


最初に炭手前があり、今週は私が稽古を付けてもらった。

予習は、せんかった(笑)


床 : 久田尋牛斎 色紙表装(横物大)「室閑芳茶味」(しつ、かんにして、ちゃみ、かんばし)


花 : 縞芦(葉) 壺珊瑚(赤) 沙羅(白い花と明日咲く蕾)


花入 : 丹波焼 雅峰窯 青くすんだ色合いの「ロウソク手」


花入敷板 : 真塗丸板

 

釜 : 棗釜

松風が良く鳴る。

師匠に「友人が松風が鳴らなくて困っています。」

と相談したところ

「釜を空焚きし過ぎると、鳴らなくなるとT先生が言ってました。T先生は、炉に残った炭をほとんど取ってしまって、わずかな炭で釜を乾かします。私は、灰が欲しいので、炭は全部燃やしたいし、釜もしっかり乾かしたかったんですけど、それを聞いてからは、そうしてます。まあ、釜底を大事にせえと言う事でしょうね。」


それで私が

「私は錆びるのが怖くて、しっかり乾かしたい方ですが、そうすると、釜の底の小さな空間の中に仕込んである鉄片がくっついて振動しなくなるんですね。・・・そうなってしまったら、どうしたら良いんでしょうか?」


「そら、冷たい釜に熱湯を入れて刺激を与えるしかないでしょうね・・・。こういう事は、どんな本にも書いてませんが。」


風炉 : 唐銅の前欠風炉。前瓦は白。


敷板 : 真塗


棚 : 桑小卓


水指 : 京焼 染付山水 塗蓋


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濃茶席


茶入:備前焼 木村陶谷造 火襷肩衝


茶碗 : 佐々木昭楽造 香具山写し


茶杓 : 光永ナントカ大阿闍梨作  比叡山の古い山門の古材  

今日のは普通の長さ。実は2本あるので、1本は師匠が少し切ったのである。

やっぱり使いやすいわー(笑)


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蓋置 : 紫交趾 青海波


建水 : 唐銅平建水


主菓子 : 諏訪園 きんとん 青楓


菓子器 : 染付 鱗鶴(うろこづる)喰籠


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薄茶席


茶碗 : 九谷焼 谷敷正人造 伊羅保茶碗 


茶器 : 堆朱 棗・・・朱漆を彫って牡丹を多数浮き彫りにしている。


替茶器 : 沖縄 壺屋焼 蓋付小壺

5年以上前の私の沖縄旅行の土産である。

爪楊枝入れだと思うが、茶入に似ていたので求めた。

師匠はそれに、象牙の蓋を載せて出して下さった。


拝見中の薄茶器に替えて、これを棚に飾って、拝見後の薄茶器は持ち帰る。

だから、替茶器に抹茶を入れる必要は無く、飾り物。

それで見立てで遊ぶことも許されるとか。

しかし、蓋さえあったら何でも様になる訳では無い。

見立ての眼力が試される。

今日のは、師匠の先生が、アボリジニ(オーストラリアの先住民族)の小壺に蓋を添えて出されたのにヒントを得たそうだ。


干菓子 : 胡麻煎餅 二人静(紅白の半球和三盆を一つにして、和紙でキャンデー包み)


菓子器 : 根来塗盆

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稽古後、Iさんの家で謡の稽古。

羅生門の3回目であったが、一応修了した。

次の謡「采女」のテープ吹き込みを承知していただいた。

ありがたいなあ。


6月23日(日)に京都観世会館で一門会があるそうで、誘われたので行く事にする。

演目は、能が「望月」その他は素謡・仕舞・舞囃子などで「花筐(はながたみ)」「放下僧」「歌占(うたうら)」

「富士太鼓」である。全部知らん演目だが、猛勉強して、楽しめる様にしたい。

まあ、習ってから行くなんて言ってると、いつまでたっても行かれへんもんなあ~。


稽古後、Iさんが今稽古中の「七騎落」の話になる。

これは、一寸面白い話なんで紹介すると、下記の通りです。

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治承4(1180)年8月、石橋山の合戦に敗れた源頼朝は、他日を期して安房上総の方へ落ちのびようとします。

そして、一行の軍師格の土肥実平に、船の用意を命じます。

ところが、いざ漕ぎ出そうとして船中を見ると、主従の人数が八人でした。

頼朝は、祖父為義が九州へ落ちた時も八騎であり、父義朝が近江へ敗走した時も八騎であったことを思い出し、不吉の数だから、一人を降ろすように命じます。

実平は、いずれも忠義の者ばかりで選びかねた末、最長老の岡崎義実を降ろそうとしますが、彼は承知しません。

やむなく我が子遠平を下船させ、一行は親子の別れに同情しつつも、船を沖に進めます。

遠ざかる陸を見ると、敵の数は多く、遠平は討死するに違いないと、実平は心ひそかに悲しみます。

翌日、沖合で和田義盛が頼朝の船を捜し出し、声をかけてきます。実平は義盛の心を試すため、主君はいないと偽ります。

すると、義盛はそれでは生きているかいがないと、腹を切ろうとするので、これを止め、近くの浜辺に船を寄せて頼朝に対面させます。

そこで、義盛は実平に向い、遠平は自分が助けて来たと言い、父子を引き合わせます。

実平は夢かとばかり喜び、父子は抱き合います。

そして一同は酒宴を催し、実平はすすめられて喜びの舞をまいます。


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私やったら、頼朝に

「そんな事言うんやったら、アンタが降りんかい!」

と言ってしまいそう(笑)


最長老の岡崎義実は、石橋山の合戦で息子を亡くしてるんだ。

それで、「親子」で乗ってきた土肥実平に「命が二つ有る者は一つを降ろせ」なんて言うんだ。


しかし、8人乗った船で、独りを降ろす。

降ろされた者は必ず殺される状況なんて、心理ドラマ的に面白いなあ。