結成当時のBUCK-TICKはBOØWYに代表される所謂ビート・ロックを基調としながらも、
今井寿の言うところの「ありえないコード進行を駆使し、奇妙なビート感を生み出していた。
奇抜な進行を影で支えていた骨組みは、間違いなくこのバンドのリズム隊のヤガミ樋口兄弟の存在である。
そこに星野英彦のギターカッティングの味付けと
今井寿の脳裏に残るギターリフのメロディーが加わりBTの楽曲は構成される。
そこに、まだ未完成ながら光る原石を見出すのだ。
櫻井敦司の存在感が楽曲に加わる頃には、BT楽曲は誰にもマネ出来ない仕上がりとなる。





それでは本日も
BUCK-TICK HISTORY
⇒http://bbs2.mbsp.jp/ch.php?ID=redroom2097&c_num=9216

から原文のまま掲載させていただく。
結成当時からのスポークスマン兼、優秀な営業担当もこなした
バンドのムードメーカー“樋口U-TA豊”の登場だ。
彼の誰からも愛される人間性は、このBUCK-TICKという超個性集団の中で
絶対、必要な要素であったに違いない。
彼がいなければ、恐らく空中分解し、こんにちのBUCK-TICKは存在し得ないといえる。
まさにバンドの“ベース”部分を担当するのが愛すべき“U-TA”の姿である。



樋口 豊
personal story

  
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樋口家の末っ子。
小さい頃から気を使う性分で、
二歳か三歳で既にタバコを吸っている人に灰皿を持ってくるような子供だったようだ。
毎月いくらという決まった小遣いではなく、欲しい物があるとその都度買ってもらえるという、
金銭的に恵まれた幼少時代。
と言っても、買う物といったら駄菓子がほとんどだったのだが。
その当時のヒーローはウルトラセブン。ミクロマンもよく見ていた。
テレビは「8時だよ!全員集合」やピンクレディ全盛期。ブームはスーパーカー。
高度成長の昭和の良き時代に幼少期を過ごす。

上に兄が二人に姉が一人。
お姉さんは小学生の樋口さんを当時全盛だったディスコや飲み屋(飲むのはもちろんジュース)に連れていった。樋口さんの社交性と年上に可愛がられるキャラクターはそうして培われていったのかもしれない。
上のお兄さんは樋口さんが小学生の時に交通事故の後遺症で亡くなる。
(バイクに乗って家の駐車場に入ろうとした所を車にぶつけられる。
入院し元気になった二年後くらいに突然に亡くなってしまう)
音楽への道を開いてくれた「亨」兄さんはよく一緒に遊んでくれるやさしい人だった。
樋口さんが小学四年の時に両親は離婚。
以後、祖母、父、兄、姉との生活になる。お手伝いさんもいたようだが(樋口家の裕福さが伺える)、昼がお弁当だった中学生時代はお父さんが毎朝きちんとお弁当を作ってくれていたらしい。
そんなふうに大人たちに囲まれ、大人たちの事情と気遣いをなんとなく肌で感じつつ、
気の回る察しの良い人間へと樋口さんは成長してゆく。

小学生時代から野球好きで、プロ野球の選手になりたいと思った事も。
憧れの選手は巨人の「いぶし銀の土井」さんだった。
(野球チームの監督の息子さんが阪神の佐野選手で、しかも樋口さんのお姉さんの同級生。
計らいで会わせてもらって以来、阪神ファンに)
野球への熱中は中学に入っても続いていたが、その頃から徐々に当時で言うところのツッパリに。
社交性ゆえにか、そういった遊び仲間でもリーダーシップをとる事が多く、
教師たちに睨まれたりしていたようだ。

そんな樋口さんが本格的に音楽と出会う事になったのは今井さんの部屋に遊びに行くようになってから。
高一の秋に同じ電車で通う一学年上の先輩から
「面白いヤツがいっぱいいるから、おまえも来ない?」
と今井さんの部屋に誘われた。
そこでセックス・ピストルズやエルビス・コステロなど様々な曲を聴いているうちに、
どんどん音楽とバンドというものにはまっていった。
バンドを始めようと話が盛り上がり、樋口さんが選んだ楽器はベース。
当時、もうヤガミさんがバンドでライブをやるようになっていて、
それを観に行った時にベースの人に弾き方を教えてもらったりしていたからだった。
憧れたベーシストは雰囲気的にはシド・ヴィシャス。
ミック・カーンやスティングも参考に、独自にコピーしながら練習をした。

樋口さんは兄のバンドを見て、バンドをやるならまずライブ活動を活発にやらなければいけないと感じていた。ライブをやって動員を増やしていく。
その為にはブッキングを組む人間が必要で、樋口さんがそれをやっていた。
バンド黎明期のマネージャーや営業を実質的にこなしていたのは樋口さんが主で、
活動上の諸問題に対しての樋口さんの果たしてきた役割は大きい。

1985年の春。樋口さんは経営関係の専門学校に通う為に東京在住に。
この時点で父親はまだ樋口さんに自分の会社を継がせようと考えていたようだ。
だが、本人的にはバンドをメジャーにする為の東京への拠点の移動で、
専門学校にはまともに通っていなかった。
どんどん出来る新曲を練習し、多い時には月四回のライブをこなし、
バンドが日々成長しているのを実感していた。

中学まで野球に燃えていた少年は高校で、自らの運命を変える程にまで音楽にのめり込む事になった。
そして持ち前の社交性と
(社長である父親の遺伝的気質か、一応経営を学んだからか)経営手腕を発揮し、
バンドをただの夢物語に留まらせる事なく、
現実的な方法と牽引力で成功へと導く手助けをしつつバンド活動を続けてゆくのだった。

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TO-SEACH
(作詞・作曲:HISASHI / 編曲:BUCK-TICK)


用意はできてる いつでも平気さ
目に付くものなら ONE BY ONE
うそをちらかし 下心かくし
手当たりしだい CASE BY CASE

やるなら今さ 暗がりのうちに 近寄れたら
そうさ BREAK OUT(BREAK OUT) CAUTION(CAUTION)
手をぬかねぇで 暗がりのうちに
うまくやって このまま

だまし続けて すきまをつくって
スキを与えず ONE BY ONE
合図を決めたら 話を合わせて
生かさず殺さず CASE BY CASE

やるなら今さ 暗がりのうちに 近寄れたら
そうさ BREAK OUT(BREAK OUT) CAUTION(CAUTION)
手をぬかねぇで 暗がりのうちに
うまくやって このまま

どうせやるなら 暗がりのうちに バレねぇように
そうさ BREAK OUT(BREAK OUT) CAUTION(CAUTION)
今ならできる 暗がりのうちに
うまくやって このまま

TO SEARCH TO SEARCH
TO SEARCH
しょうがねぇぜ まったく…




STAY GOLD
 (作詞・作曲:HISASHI / 編曲:BUCK-TICK)


変わり果てた姿をうつす 灰色の感動
バラの日々がわすれられず 光は消えて
愛を夢を未来をすてて くだけちる心は
どこにいてもわかるはずさ 痛んだままで

Ah 冷たい メトロポリスは
心まで ゆるしてはくれない
Ah ダンスに見とれた奴は
飛ぶことが できるはずがなくて

STAY-GOLD STAY-GOLD そこから
STAY-GOLD STAY-GOLD かがやけ
STAY-GOLD STAY-GOLD そこから
STAY-GOLD STAY-GOLD とび出せ

ロマンティックいくつもの夜 数えたら知らずに
からみついたいつかのこと 思い出すから
うつろな目に光をさがす 夢からさめたとき
ありふれてるいいわけならば 今はいえない

Ah はじける スターダストは
行く先が わからずうつむいて
Ah ダンスを からかう奴は
とぶことを わすれているはずで