司会(敬称略)

辛坊治郎

 

パネリスト(敬称略)

三宅久之、田嶋陽子、筆坂秀世、桂ざこば、勝谷誠彦、宮崎哲弥、村田晃嗣、山口もえ

 

インタビュー取材(敬称略)

渡辺恒雄(読売新聞グループ本社会長・主筆)

 

今週の「委員会」は「三宅はこのまま引退しちゃって委員会!? 政界五大ニュースで振り返る三宅久之ヒストリー(最後の激論対談)&三宅先生の人生全て語り尽くしまスペシャル」と題し、引退を宣言した三宅氏が選んだ五大ニューズなどについて話をした。以下、テキトーなまとめ(恐縮だが、三宅氏の個人的な話は割愛):

 

五大ニューズその①鳩山一郎内閣誕生

  • (ナレイション)昭和291210日、鳩山一郎は待ちに待った総理の座についた(第52代)。昭和21年の総選挙で日本自由党が第一党になり、鳩山総裁が総理の指名を待つばかりだったが、就任目前に「軍国主義台頭に協力した」などの理由でGHQに公職追放されていた
    • その後、追放解除目前に脳梗塞で倒れ、悲劇の政治家として同情を集めた
    • 貴族主義でワンマンと呼ばれた吉田茂が総理の座に居座り続けた。吉田は「追放が解除されたらすぐに君に総理を譲る」という鳩山との約束を反故にしたため、2年に渡る政権争奪が鳩山/吉田間であった
    • 昭和29年、鳩山は反吉田派を集めた日本民主党を結成し、総裁に就任。追放から8年後、吉田内閣を総辞職に追い込み、政権の座についた

 

  • (ナレイション)昭和30年、鳩山一郎は自由党と日本民主党の保守合同を成し遂げ、自由民主党を結成。これにより、保守勢力と革新勢力を軸とした55年体制を確立
    • 吉田の米中心の外交から転換し、昭和31年に日ソ共同宣言で国交回復。ソ連に動向したのは鳩山の側近中の側近である河野一郎農水大臣
    • 河野は鳩山引退後、岸信介を支持。岸内閣成立後、主流派になる

 

五大ニューズその②河野一郎 v. 池田勇人

  • (ナレイション)弱体化しつつあった岸政権の再構築を図るため、岸信介は主流派の領袖だった佐藤栄作、大野伴睦、河野一郎と密約を交わす(政権禅譲の密約)。それは岸引退後、大野・河野・佐藤が順番で総理になるというもの
    • 右翼の巨頭・児玉誉士夫、大映社長・永田雅一、北海道炭礦汽船社長・萩原吉太郎が立会いのもと4人は誓約書に帝国ホテルで署名
    • 密約の後、岸と河野の関係は悪化。6月の改造内閣で河野は幹事長のポストを要求するが、岸は副総理を提示。河野はそれを拒否すると、改造内閣の名簿に突然現れたのが池田勇人(通産大臣)
    • 池田は入閣の前日まで「岸総理とは政治哲学が違う。入閣はあり得ない」と断言していたが、一夜にして反主流派から主流派入りを果たした。池田は入閣後「私情においては複雑なものがあるが、政局安定を願う国家・国民の要請に応えて」とコメント
    • 帝国ホテルの誓約書は空証文となり、昭和35年岸の次は池田になった

 

  • (村田氏)世襲議員(河野家、鳩山家)をどう評価するか
    • (三宅氏)河野家(河野一郎→洋平→太郎)は太郎さんはなかなかいい。親父よりかはよほどいい。一郎さんにちょっと似ているところがある。頑固でね
    • 鳩山邸に通っているころ、由紀夫さん・邦夫さんは小学生で見かけたから、何となしに鳩山政権にはうまくいってもらいたいという願望はあったが、あんなに支離滅裂だとは思わなかった
    • (鴻池氏)吉田茂の孫(麻生太郎)、鳩山一郎の孫(由紀夫、邦夫)、河野一郎の孫(太郎)は全部知っているが、彼らは仲が悪い
    • (三宅氏)吉田さんは貴族主義で若手の記者はシッシってなもんだった。記者会見の途中でも気に入らない質問が出ると、パッといなくなる人
    • (勝谷氏)三宅さんの著書「書けなかった特ダネ」によると、鳩山一郎が内奏のため皇居に行ったら、昭和天皇が日ソの交渉そのものについて「今はそんなことをしている場合ではない。復興のほうが大事」というようなことをおっしゃったので、鳩山がしょぼんとして帰ったという歴史的な話がある
    • (三宅氏)それは実際に私が河野さんから聞いた話よりもおさえて書いた。憲法上、政治には関わらない立場でおられる天皇陛下のご発言だから。それが内閣の方針に異議をはさまれたとなると、内閣総辞職になるため。そこで河野が鳩山から聞いたときに、それは陛下が政治に関するご発言をされたのではなく、ご質問をされたのであって、見解を示されたわけではなかったことにした

 

  • (筆坂氏)鳩山さんが日ソ共同宣言で引退し、岸さんが日米安保で引退したように、当時の政治家は政治生命をかけてやった。これが本当の政治主導

 

続きはその2をご覧下さい。