お互い様などというありきたりの言葉では濁せない、決定的な意思疎通の齟齬。
 
それでも人は孤独の中で生きることはできない。
 
キュルケゴールが言った「死に至る病」は肉体的な死ではなく、心の死であると。
 
周りの人々が一人、また一人と離れていった時、心はそれを埋めるように過去や妄想に逃げ込む。
 
わたしは離れて行くことに対して寂寥感よりも深い恐怖を感じる。
 
だから顔色を伺い、おもねり、おどけ、相手が思っているだろう人物像を演じ続ける。
 
皆が皆、そうではないとは思っている。
それを知っていながら、変わることもできない。
 
自分は自分と言ったとしても、みてくれている他人がいなければ、存在を認識できない。
自分らしく振る舞えるのは、自分を受け入れてくれる他人がいてくれるからだ。
 
生命の個体数はある一定の数を切れば、どんなに保護をしたとしても滅びの道を歩んでしまう。
 
北アメリカの50億もいたリョコウバトは乱獲され、1億羽になった時、手厚い保護をしたにもかかわらず、寂しさに耐えかねるように自ら絶滅の道を歩んだ。
 
トキ(時)はどこで途絶えてしまうのだろう。
 
今は医療が進んで体だけは丈夫に保つことができる。
 
昔は心の衰弱と、体の衰弱はリンクしていたのかもしれない。いつしか心と体は引き離され、体だけが取り残されている。
 
食物を摂取することだけが、命を維持するものではない。
 
「何かたべないんですか?」
「あ、ああ、まだ大丈夫。」
ごく当たり前の、今の状態を問う会話がここに帰ってきた。
 
しかし、それからの会話はどこかふわりと浮かんでいる感じがした。
 
いくら話が今のわたしの状況や、立場に関することになったとしても、どこか虚実が入り混じった、奇妙な感覚に陥っていった。
 
明らかに虚言とわかる彼女の身の上は、今までの時間さえも虚飾に彩られてしまったようだ。
それでもそこから離れられないのは、絡みついた縁のような気がして、紐解いていかないといけない気がしたからだろう。
 
「そろそろ行きましょうか、夕方には浅草寺に行きたいですからね。」
 
当たり前の会話、当たり前の仕草、当たり前の時間の経過。
 
また初めて出逢った時の、意識の薄いベールが彼女の前にかかった。
わたしは途端に無口になる。
 
店を出て通りを渡ると、次の目的地はすぐに現れた。
 
「玉姫稲荷神社」
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境内には有名なボクシング漫画の主人公とヒロインのパネルがある。
 
この先に泪橋があると聞いた。
川は埋め立てられ、今は地名だけが残っているが、ここがあの漫画の舞台だったのか。
と、すればここいらはドヤ街、日雇いの人足達が住んでいた地区だったのか。
その日、その時を生きることに必死にしがみついていた時代の人々が、肩を寄せ合って行きていた地。
 
「ここは浅草、山谷地区って呼ばれてたんですよ。今でもそういった人を見かけますよ。」
 
今はもうあの泪橋を逆に渡る者もいなくなり、当たり前の生活がここにもたらされたのだと、そんな印象を受ける。
ビルもなく広がった空の下、その日を生きる人たちも、まだいるのだろう。
 
ただ、無知なだけなのかもしれない。
そんなことはないと思い込んでいるだけなのかもしれない。
見せないだけなのかもしれない。
見ようとしないだけかもしれない。
 
たかだか自分の判断基準だけで彼女の話を虚言と決めつけただけで、自分がただ無知なだけなのだろうか。
 
わたしが知らない生活があるに違いないのに。
 
また二拝二拍手、一礼をして御朱印をもらい、次に向かう。