山本昭彦のブログ
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奪われた国の子供たち4

 

中国がやたらとフィリピンにちょっかいを出している。

それは報道でも、報道モドキのワイドショーでも、

中国が横紙破りの因縁をつけまくって、

まるで暴力団のようなやり口で弱いフィリピンをいじめている、

みたいな論調で語られている。

それに対して日本からは巡視船を提供したりしてるわけだが、

そこからは、フィリピン=こっちがわの国みたいな、

安直な国際関係=いざとなれば同盟関係を期待している雰囲気が

プンプン匂ってくる。

 

 

結論を先に言えば、フィリピンが日本の、

真の同盟国になることはあり得ない。

大雑把に書くが、フィリピンは日本なんか嫌いなんだ。

太平洋戦争で国土は破壊され、

国民はいいようにこき使われて威張り散らされ、

だから戦争末期には、多くのフィリピン人が連合軍側として戦った。

戦後は日本から莫大な額の援助が提供されたが、

それは、フィリピンとしてはもらって当然の慰謝料であって、

やさしい日本人が恩恵を施してくれたなどと考える者は一人もいない。

そしてその時代に、お金持ちニッポン人が

フィリピンでむさぼるように買いまくったもの、

それが女性の性だ。

 

 

それはまだ少年だった私の耳にも届くくらい公然とされていた。

ビジネスマンや旅行者が、

旅の慰みに羽目を外して、そのような遊びをするばかりではない。

あろうことか、表向きにこそ言わないまでも、

そのこと自体を目的にしたツアーさえ無数に組まれた。

大手旅行代理店だってそれをやった。

むろん旅行代理店が買春そのものを斡旋するわけではないが、

現地に同行するツアコンとしては、客のリピートを確実にするため、

そこはそれ蛇の道はへび的なことをやる。

 

 

しかも日本人はアレだもん。

船が沈むとき、海に飛び込むことを決断させるセリフ。

アメリカ人には「飛び込めばきみはヒーローだ」

イギリス人には「紳士はまず自分が危険を冒すものです」

ドイツ人には「こういう時は飛び込むのが最も合理的です」

日本人には「みんな飛び込むことになってるから大丈夫」

 

 

たとえばアメリカ人ならひとりか二人で女性を口説くだろう。

映画にもそういうシーンがよくある。

ところがくだんのマニラの夜の街では、

だらしなく酔った勢いの日本人が十数人でそういう場所に行き、

ツアコンの手引きでわいわいがやがやと売春宿になだれこむ。

どうだい。

買春がいいことだとは言わないが、

それでもスマートな奴とアレな奴がいる。

その中でももっとも醜悪なのが、わが大和民族だろうぜ。

フィリピンの人びとが、

そのような日本人を共に戦う仲間と認めるかどうか?

ちょっと想像してみるがいい。

 

 

戦後、連合軍の占領下にあった日本では、

米兵によるレイプ事件が頻発した。

しかし日本の警察はこれに介入できなかった。

加害者はMPによって逮捕され合衆国の司法で裁かれる。

「あの女は商売女だ。俺から5ドル受け取った」

加害者がそう主張すればたいていの場合は無罪放免だ。

日本人の多くが一日も早い講和と独立を望み、

それを成し遂げた吉田茂を国葬で送った、その心底には、

このような、理念でも国家論でもない、

理屈抜きの生々しい屈辱に起因する怒りがあったはずだと、

私は確信している。

こういうのを何と言えばいいんだろ。

私は学者じゃないのでえーかげんにでっちあげるが、

とりあえず性的ナショナリズムとでも言っておくことにする。

 

 

さてパレスチナばなしに入る前に、

ひとつだけ、ついでに書いておこう。

華僑はフィリピンの経済界において隠然たる力を有している。

彼らは政治にも外交にもとーぜん強い影響力を持つ。

したがって、かの国が中国を完全に敵に回すことはあり得ない。

仮に合衆国や日本と同盟関係を結んだとしても、

その先行きは風向き次第。

もっと露骨に書けば、風向き次第で中国にすり寄るだろう。

あの戦争の時、

日本軍は戦費調達のために在比華僑の財産を根こそぎ奪った。

習近平がそれ以上のことをしない限り、天秤は日本に傾かない。

世界を、テレビを通してのみ見ることほど、危険なことはない。

 

 

 

きみに贈る映画100選 No.148 ユダヤ人ジュース 1940 ドイツ

 

 

この映画はNo.093で「サルバドル」を採り上げた時に紹介したが、

100選にはカウントしていなかったので、

ここで改めてナンバリングする。

でもって、

そのときの記事がわかりやすいので、一部コピペするw

 

 

1940年にドイツ国内で、ほとんど同時に2本の映画が封切られた。

「永遠のユダヤ人」と「ユダヤ人ジュース」だ。

ジュースってのは人の名前だぞ、勘違いするな。

どちらもユダヤ人を排斥するプロパガンダのための映画だ。

「永遠」はドキュメンタリーで、

ユダヤ人ってこんな最悪な奴らなんだぜーと延々と語るのだが、

面白くもなんともないのでまったくウケなかった。

反対に、劇場を連日超満員にしたのが「ジュース」だ。

 

 

「ジュース」 はめちゃ強引にたとえると 

「ベニスの商人」的ドラマ。

主役のジュースが悪いやつ、だけど金持ち。

しかもシャイロックより権力者。

とうぜん劇中では弱い者をいじめまくり。

そのうえ美貌の未亡人を権力をかさに押し倒すんだが、

これがこの時代にしてはかなり露骨なエロ描写シーン。

 

  

 

左が「永遠」

ユダヤ人は誰とでもセックスしてネズミのように子供を増やすという、

ヒトラーの主張を映像化したのがこのカットだ。

右が「ジュース」 

どっちもうっふんあっはんの暗喩だがえらい違いだ。

 

 

ゲッペルスは正しく理解していた。

ドブネズミと押し倒される未亡人。

どちらが観客の感情中枢に有効に作用するか。

どちらが、ユダヤ人を憎む感情を、より強く培養するか。

冷静な分析や理性的な判断の入り込む余地のない、

本能的で原初的な怒りを生むのはどちらか、ということをだ。

 

 

長くなったので次回へ続く。

すんましぇーんだんけしぇーん。

 

 

奪われた国の子供たち3

 

上海で仕事をすることになった時、

最も心を砕いたのが、

現地スタッフを完全に「私のチームの一員」にすることだった。

そのためには、まず例のやつを徹底した。

蛇だろうが犬だろうが、

青灰色のだんだら模様の皮がついたままの、

その皮の内側にねっとり脂肪が張り付いていて、

下ごしらえって何それ?状態で調理してるもんだからドブ臭い、

そういうウシガエルのブツ切りのスープも笑って食ったわw

 

 

しかしそれ以上に、

彼らの心に、強烈な好感度を醸成したらしいことがある。

 

 

ロケのコーディネイトを担当した上海のプロダクションは、

本来は独立した制作プロダクションだが、

日本の制作会社の中国ロケをサポートする業務も多かった。

その場合は、日本からプロデューサーだの監督だの、

カメラマンだの制作主任だのが乗り込んでくるわけだが、

ほとんどの場合、

これに広告主企業の担当者や広告代理店が同行する場合が多い。

問題はここだ。

こいつらの中にゲスが少なくなかった。

 

 

広告代理店にとって、広告主企業の担当者は、

大切なお客様であったり、ネギをしょったカモだったりする。

そういうクライアントに対して、

業者側がおべっか、ごますり、ヨイショするのは当然として、

それが度を超すと賄賂、袖の下、魚心と水心ってことになる。

 

 

それらのヨイショ系でもっとも醜悪なのが、

特に海外ロケの場合、クライアントに女性を世話することだ。

早い話が買春の手伝いをするってことよ。

下半身別人格の是非善悪はここでは語らない。

私が問題にするのは、

パンツぐらい自分で脱げってことだ。

 

 

広告代理店の人間がそういう遊びの達人ならともかく、

そうでない場合、

彼らはそれをまず日本側プロデューサーに相談する。

日本側プロデューサーがそういう遊びの達人ならともかく、

そうでない場合、

彼はそれを中国側のプロデューサーもしくは制作主任に要求する。

 

 

中国側としては、それはクライアント=依頼主からのオーダーだ。

寝言は寝てから言えと怒鳴りつけることはできない。

やむを得ず、その道に通じた者を呼んで便宜を図る。

 

 

さてそこでだ。

このような日本人の醜行の手伝いをさせられる彼らは、

そもそもどのような人びとか?

マスコミや広告関係で働ける者は、それなりの教育を受けている。

それは経済的に恵まれた家庭に育ったことを意味する。

その結果、是非は別としてエリート意識を持つ者が多い。

加えて自分はクリエイターであるという自負を抱いている。

そいつらがだ、

日本人の買春の手伝いをさせられることを、どう感じるか。

彼らが、その日本人を、

共に仕事をする仲間であると認めるかどうか?

勘違いしまくっているゲスどもには、

そんな想像力がまったく欠けていた。

 

 

そういうことがある、ってことを知っていた私は、

最初に彼らに伝えることにした。

俺のチームにそういうことをする奴はいない。

広告代理店にも広告主にも、断じてさせないし、

そもそもそのようなゲスな人間はひとりもいないと。

 

 

だがこれだけでは、いかにも清く正しく美しくはあるが、

逆に、堅苦しくて融通の利かない奴だと思われそうだから、

ひとつだけ、こう付け加えた。

なぜなら、そういう遊びは自分の国でやることにしてるんでw

 

 

 

今日はいったんここで終わる。

この話のどこがパレスチナばなしなのよ?と疑うなかれw

ちゃーんとつながるからさ。

 

 

私は、このガザ紛争でイスラエルにめちゃ怒っている。

だがいつも言っているように、

怒りは恐怖を生み、心の目を曇らせ、中正な判断をできなくする。

だから、あえてイスラエルの立場になって考えてみる。

私たちには、それを助けてくれる映画がある。

 

 

次回

きみに贈る映画100選 No.148 ユダヤ人ジュース 1940 ドイツ

きみに贈る映画100選 No.149 悲しみの青春 1970 イタリア

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

涙はティッシュで拭くもんじゃない

 

 

「壬生義士伝」という映画がある。

新選組の物語。

主人公の中井貴一は東北出身の貧乏ざむらい。

食うや食わずの生活を抜け出そうと脱藩して京都に来た。

こいつがやたらと金に執着するさもしい男。

だが、それは国に残してきた妻子への仕送りのためだった。

 

 

とまあ、主人公はそういうキャラなんだけどな。

中井もまだ若く、これ見よがしな芝居でちょっとしらけるが、

彼に対置される佐藤浩市がさすがの演技で何とか見られる。

 

 

だが後半に至って、あちゃーな絶望的シーンを見せられ、

私はそこで、もはやこの映画を見る気がしなくなった。

 

 

戊辰戦争。

新選組を含む幕府軍は、

近代装備の明治政府軍を相手に悲惨な戦いを強いられる。

さてそこでだ。

戦争してりゃとーぜん腹が減る。

丸一日飲まず食わずでは戦えないから、

戦闘中であっても後方から戦闘配食ってやつが届く。

この映画ではにぎりめし

中井がそれを皆に配り、

最後に佐藤浩市のところにやってくる。

 

 

箱の中には握り飯が一個。

佐藤はありがたいと言ってそれをむさぼり食うのだが、

半分ほど食ったところであることに気づく。

彼は中井に向かって問いかける。

「おぬしはもう食ったのか?」

 

 

実に絶望的なのはここからだ。

問われた中井は泣きそうな笑顔を作るが、

佐藤からの問いには答えない。

佐藤は叫ぶ。

「これが最後の一個か?」

「バカ者!俺が食ってしまったじゃないか!」

 

 

もはや救いがたいほど絶望的なのがそのあとだ。

中井は箱に残った飯粒を拾い集めて口に運び、

か細い声でこう言うのだ。

「私は東北の貧乏侍。これで十分なのです」

 

 

この映画の原作は浅田次郎だ。

彼ほどの作家がこんな表現をしたとは思えん。

だとすると、このくだりは、

アホな脚本家がコンビニで買ったペンで書いたのか?

東北の人間を、

男というものを、ましてやサムライを、

ここまで見損なっている表現を私は他に知らない当社比。

 

 

本当なら、そのとき中井は笑顔で

「申し訳ねっす。先にいただきました」と言っただろう。

そしてそのあと、彼の腹がグウと鳴るだろう。

訝しむ佐藤に、中井はさらにこう言っただろう。

「いやあ、やっぱり握り飯一個では足りねっすなw」

 

 

いやさ、腹の虫の演出でさえ余計というべきだ。

腹も鳴らず、中井がどれほど涼しい顔で「食った」と主張しても、

映画を見る者は、彼は食べてないのだ、そういう男だと、確信してしまう。

そういう演出と演技があってこそ、

このシーンは見る者の胸を打つだろう。

 

 

こないだ、あるミーティングで、

私の隣の席の男が、テーブルの上に茶をこぼした。

すると向こう隣りにいた女性が、

素早くティッシュの箱に手を伸ばし、

バーテンがシェイカーを振るようなスピードで

十枚ほどのティッシュを引き出し、

こぼれた茶の水たまりにあてがって処理をしようとした。

 

 

まだ足りない。

彼女はさらに

しゅしゅしゅしゅしゅしゅしゅ

同じことをやる。

あとにはションベン色に染まった、濡れたティッシュの山が残った。

 

 

私はそのとき思った。

きみにこれを教えるのを忘れていたと。

こういうことをする女性とは付き合うなということをだ。

 

 

こぼれた水は盆に還らない。

英語ではこれが、水ではなくミルクになるらしいが、

フランス語ではどう言うのかね?

そこで慌てたってしょうがないのよ。

だいたい、その慌てる姿自体が実にみっともない。

ただ静かに自分のハンカチなりバンダナなりを差し出して、

「お使いください」と言えばいいのだ。

 

 

憶えておきなさい。

日本の美しさは、そのような心の持ち方にある。

その国の作法に合わせることも大切だよ。

だけど真に美しいものは、どこにいても美しいものだ。

 

 

こないだ車検を受けたら、

サービスですとティッシュを20箱もらった。

使い道に困っているw

 

 

 

 

 

しかし私信に使うのにアメブロは確かに便利だ

視点を変えてみよう。
てか、新しい視点を持ってみよう。


予想123は、おそらく正解をかすめているんだ。
当たってはいないけど、正解のすぐそばを通っている。


新しい視点とは「民族」だ。
三国志はほとんど100%
漢民族の物語だ。
徐樂さんは「私たちとは違う人たち」という言葉を使った。
それは、彼が漢民族ではないことを言ったのではないかな。



中国の歴史の表舞台に漢民族以外の異民族が登場してくるのは、
まさにポスト三国志の時代=晋を経て五胡十六国の時代だ。
胡は漢民族にとっての異民族を表す文字。
晋の末期に、あの中国大陸が南北二つに割れた。
南は漢民族の国=東晋が支配したが、
北半分では5つの異民族がそれぞれの国を作ったり滅んだりで、
大陸の北半分だけで16か国が興亡した時代だ。

この時期から漢民族と異民族の融合が始まる。

血が混じり、文化が交差していく。



でもって、やがて隋、そして唐という、漢民族の統一国家が生まれる。
生まれるんだが、
そもそも、この隋や唐の皇帝が漢民族であるという確証はないそうだ。
てか、どうやら五胡系の人だったらしい。


隋の初代皇帝・楊堅。
唐の初代は李淵。
このふたりはどうやら異民族系の人。

でも漢人ぶって漢民族風の国を作った。

のちに、我らが福岡市中央区赤坂2丁目まで攻めてきた元寇は

元の初代皇帝フビライ・ハンがやらかした大失敗だが、

このフビライもやっぱ漢民族風の国を作っている。

 

 

なぜか?

それまでに存在した漢民族の国が、

彼らにとってスーパー先進国だったからだよ。

日本人だって同じことやってら。

京都の碁盤目な町は平安京の名残だが、

平安京は先進国・唐の首都である長安を真似て作ったものだ。

漢字だって大陸からの輸入品だしな。

 

 

異民族はたいてい騎馬民族であり遊牧民族だった。

だが彼らも、

農耕民族である漢民族風の習俗の中で暮らしていくうちに、

やがて漢民族と同化していく。これを漢人化という。

漢字を使い、漢語をしゃべり、

論語を読み、字=あざなを持つようになる。

 

 

 

字は人に自分を呼んでもらうための「もうひとつの名」だ。

相手の本名を呼ぶのは失礼にあたるという

儒教の屁理屈が、

こんなややこしい習慣の元である。

諸葛孔明は本名を諸葛亮といい、孔明が字。

日本の武士社会にも同じようなものがある。

坂本龍馬は本名を坂本直柔なおなり といい、

龍馬は仮名=けみょう である。

 


さてそこで、

三国志と水滸伝を読み比べると、はてなと思うことがある。

水滸伝にはほとんど字が出てこない。

わずかに主人公である宋江が宋公明と呼ばれているぐらいだ。

三国志は後漢末期からの物語。

水滸伝は宋の時代の物語。両者の開きはおよそ800年。

その間に「字を重要と考える」文化が衰退したのだろうかと私は思った。

この800年の間に、大陸では数多くの異民族王朝が興亡した。

その結果ではないだろうかと推測したわけだわ。

 

 

中島 敦=山月記・名人伝の著者。

彼の作品「李陵」は

前漢・武帝の時代を背景とした物語で、

李陵は実在の人物であり、物語も史実に則しているが、

そこに興味深い記述があった。

主人公・李陵は匈奴との戦闘で捕虜になり、

敵地での生活を強いられる。

狩猟民族の、単純で素朴な人間性に接していくうちに、

やがて李陵はひとつの疑問を抱くようになる。

「字って絶対に必要なものか?」

「それは単に虚栄や虚飾やええかっこしいじゃないのか?」

 

 

習近平の字を知ってるやつはおらんやろ?

私が中国で知り合った中にも字を持つ人はいなかった。

先に書いたように、字は儒教もしくはそれ的な、

大昔の中国の士大夫クラス=上級国民 の教養が産んだ習慣だ。

共産主義がそれを容認するわけがない。

私が知っている20世紀以降の中国で字を持った人は、

中華民国建国の父・孫文、字は中山、

そのライバル蒋介石、字は中正だけである。

 

 

字ひとつとってもこんな具合だ。

中国は、漢民族と異民族とがわやくちゃになりながら

歴史を紡いできた国である。

民族とはその人の血筋を表すだけのことであり、

人間はその時そのときの社会に順応するように生きる。

日本だって同じだ。

信長も西郷もカミカゼの若者たちも、

イマドキのコンビニ頭の日本の若者も、

みーんな同じ大和民族であるw

 

 

ではあるのだが、

たとえば麻生派だけが派閥解散しなかったのはなぜだと思う?

麻生さんが福岡の人だからだよ。

福岡には俺が俺がな奴が多いと、こないだ書いたばっかりやろw

よく言やゴーイングマイウエイ、悪く言や空気読まん奴w

菅さんが自助>共助>公助と、トーゼン顔して言ったのは、

彼がそうせざるを得ない自然環境の東北に育った人だからだ。

彼にしてみれば、この理屈は理解できてトーゼンの真理であり、

わからん奴がアホなのだということになる。

そのように、人格の大元は育った風土によって形成される。

麻生さんを福岡民族、菅さんを秋田民族と呼ばないだけで、

私たちの身体には確かにそれぞれの民族の血が流れている。

 

 

最近、ネットではNHKの番宣がやたら露出している。

朝ドラ「虎がナントカ」と大河「光る君へ」のPRだ。

その、視聴率ほしさの必死さは痛ましいほどである。

私はこの十年以上、大河をまったく見ていない。

特に今年のは見る気がしない。

平家物語も徒然草も大好きだが、

源氏物語なぞはとてもじゃないが読む気にならない。

平安貴族=上級国民=不労所得も同然の金持ちたちの

あっはんうっふん好きよ愛してるアイラブユー物語なんか読んで

そこから何を得るのかという気しかしない。

徐樂さんが中国人でありながら三国志を読む気にならないのは、

たぶん、私のこの感覚に近い。

 

 

私はこの記事の初めに、

「民族」という視点に立ってみようと言った。

だがそれは、

なんたら民族はこんな人たち 

と、ひとからげに規定する「民族」のことではない。

その人に内にある、誰にも冒すことのできない、

それどころか自分自身でも修正できないDNAみたいなもの、

それがこの場合の「民族」だ。

修正できないからガザでは今でも血が流れているだろ。

三国志はつまるところ、

中国大陸という、広いが・狭い土地の、

権力欲に燃えた者たちによる奪い合い物語だ。

徐樂さんは、そのような歴史を、

それがどうした?と感じることのできる

DNAの持ち主なのだと思うよ。

 

 

彼のご先祖が、土にしがみついて生きてきた農民階級か、

あるいはユダヤ人のように、迫害の中で生き延びた人びとか、

それとも馬を駆り羊を追う遊牧民族だったのか、

それはわからないが、

少なくとも三国志的価値観や倫理観に縛られている人ではないね。

ここでの三国志的価値観とは「狭い中国」的価値観だ。

三か国語を自由に操るというだけでもそれが察せられるじゃないか。

きみの友人として不足はないと思うぞ。

 

 

父より

 

 

たかが電気の分際で人間様を評価するんじゃねえ!

 

 

ずっとアクセスしてなかったので

アメーバへのショートカットが消えていた。

なので検索したら、

「山本昭彦のブログ」という項目がいくつも出てきた。

 

 

なんか今までと違うな、と思って凝視すると、

ブログタイトルの後に小文字で解説が付加されている。

今まではブログ本文の一部が表示されていたんだが、

それは明らかに私ではない誰かが作った文章だった。

 

 

読んでみるとはあ???

 

 

それはクリスマス・チキンと題したあの記事だ。

解説にはこう書かれていた。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

2023年12月11日 · 

山本昭彦は、トムとジェリーの七面鳥の丸焼きを見て日本人が

クリスマスにチキンを食うようになったことを批判する。

また、クリスマスに食べるチキン …

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

俺がいつそれを批判したよ?

 

どーせチャットGPTとかにでっちあげさせたんだろうし、

あるいは和文を構築する機能がポンコツなんだろうが、

A I なんてこんなもんだ。

ついでに、今イマのパレスチナばなしにも、

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

山本昭彦は、パレスチナ問題の歴史的背景や国際的な背景を分析し、

英国や米国の二股外交や国連の役割を批判する。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 

なんて書かれてたりする。

俺の記事はそれほどゴーマンでもバカでもないわ!

たかが電気の分際で人間様を評価するんじゃねえ!

アメーバ離れ加速しそうだわ。

 

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