女性で喧嘩をよくしてた同級生の家。当社の設計施工ですがこの度、病で亡くなり(涙)無人に。手放すことになりました。
小学校入学の時は筋ジストロフィーとは知りませんでした。中学入る前でしょうか突然、クラスからいなくなりました。
一人で親元を離れ、20人足らずのできたばかりの筋ジストロフィー患者専門の千葉県にある学校に転校していました。そして、再開したのは小学校卒業いらい20年以上も過ぎたとき。
彼女はタイプライターの技術を身に着け、長野市の作業所で働いていました。そして、給料の1部で本を購入、母校の貝野小学校(廃校になりました)に毎年、寄贈していました。そんなことを知ったのは私の次女が障がいをもって生まれたから。当時、貝野小学校の校長先生は障がい児の教育に理解を示す先生でした。私は
表敬訪問した際に彼女の名前をネーミングした『○○○文庫』を
知りました。とても、懐かしくなり、実は文通が始まりました。
そして、2003年春、初めての電話『洋治君 私に家造って!』驚きでした。
彼女の生活環境を知るために何度も長野市に通いました。当時の施設の工場長さんに言われた言葉『住めない家を造ったら許さないぞ!』彼女の頑張りと明るい性格に周囲には大勢のボランテイア(フアン)が存在。その中の一人が工場長さんでした。車いすのアームの高さは『1mm単位だから』と工場長から言われました。彼女の病気の進行が年々変わるのだと言われました。
引き渡しの後、自動車いすでスロープを登り(後ろ向きに上りました。前に転倒したほうが恐怖感が無いなのとか)、玄関建具の鍵やフックの高さ、スイッチ・コンセント、ベット・トイレなどの高さをチエック。彼女に『住めるウ♡』と言われ、工場長さんから握手を求められ『ありがとう』の言葉。帰りの車中、涙が止まりませんでした。この住宅ほど細かいプレッシャーのかかった仕事は未だ、ありません。でも、感謝の気持ちでいっぱいです。難しい作業に弊社大工たちや協力業者の理解で完成しました。この思いは一生の宝物です。
彼女は生い立ちや両親、仲間のことなどをつづった本を自費出版。青年の主張で優勝し、天皇陛下様と個室で言葉を交わしたことなど、数々のエピソードをお持ちです。そのこともまた、この家を造ったこともすべて彼女の歴史。『この家で亡くなりたい。』と言い続け、とても大切にしてくれました。最後は病院のベットで亡くなりましたが、次にこの家に住む方も大切に住まわれてくれると願いつつ、1年半過ぎた今、公開させていただきました。
合 掌
建前後の祝宴。中央奥が私です。2004年春
※弊社HPで完成写真公開予定。