社員が十日町市市報に紹介されました。

どうして? プレカットなどに頼らない、墨付けや刻みのできる本当の大工さんになりたくて。インターネットで検索すると当社の様な工務店は他に見つけられなかった。との言葉。

入社6年目!はじめて、棟梁を経験させました。刻みの精度もあがり、まじめな性格。朝礼で社員大工に意見を聞いたところ『ぜひ、やってみれ!』と後押し。

引き渡した後の感想は『楽しかった』

弊社の社員にとって、その楽しさが大切と改めて思いました。

※写真は技能試験の為の練習風景。ほかの工務店は資格を取っても生かす現場がありませんが当社では十分に生かせます。

ちなみに現在、築後40年の住宅のリノベーションと、築年数不明の古民家解体移転に向かってます。また、技術を生かす経験を

積んで よき棟梁の道を進むことでしょう。

       

                                   十日町市市報 令和5年4月10日発行より


自分ちの木材で『棺桶』を造りたい!と言われ・・・。虫食いだらけの板。

材種は不明。

埋木しました。よ~く見ると 細かく黒い虫穴が点々と!『そくい』で直します。

『そくい』は当社ではこその秘儀

ネットでも検索で引っかかるかな?

箱の形に。釘は一切 使いません。使えません!

底板です。形ができました。

完成!

この棺桶は無垢の材料。

苦労したのは重量。

葬儀社が使っているのはベニヤ板の張り合わせで軽い。一人でも持てます。

板の厚みを検討し製作しました。

二人でも持てます。

故人の体重を考えても大丈夫です。

まだ、元気で生活していらっしゃるお客様からの注文でした。

本当の大工だからこそできる『匠の技』を公開しました。

 

追伸 ご希望の人はお申込みを。お待ちしてます。

 

 

 

 女性で喧嘩をよくしてた同級生の家。当社の設計施工ですがこの度、病で亡くなり(涙)無人に。手放すことになりました。

 小学校入学の時は筋ジストロフィーとは知りませんでした。中学入る前でしょうか突然、クラスからいなくなりました。

 一人で親元を離れ、20人足らずのできたばかりの筋ジストロフィー患者専門の千葉県にある学校に転校していました。そして、再開したのは小学校卒業いらい20年以上も過ぎたとき。

 彼女はタイプライターの技術を身に着け、長野市の作業所で働いていました。そして、給料の1部で本を購入、母校の貝野小学校(廃校になりました)に毎年、寄贈していました。そんなことを知ったのは私の次女が障がいをもって生まれたから。当時、貝野小学校の校長先生は障がい児の教育に理解を示す先生でした。私は

表敬訪問した際に彼女の名前をネーミングした『○○○文庫』を

知りました。とても、懐かしくなり、実は文通が始まりました。

 そして、2003年春、初めての電話『洋治君 私に家造って!』驚きでした。 

 彼女の生活環境を知るために何度も長野市に通いました。当時の施設の工場長さんに言われた言葉『住めない家を造ったら許さないぞ!』彼女の頑張りと明るい性格に周囲には大勢のボランテイア(フアン)が存在。その中の一人が工場長さんでした。車いすのアームの高さは『1mm単位だから』と工場長から言われました。彼女の病気の進行が年々変わるのだと言われました。

 引き渡しの後、自動車いすでスロープを登り(後ろ向きに上りました。前に転倒したほうが恐怖感が無いなのとか)、玄関建具の鍵やフックの高さ、スイッチ・コンセント、ベット・トイレなどの高さをチエック。彼女に『住めるウ♡』と言われ、工場長さんから握手を求められ『ありがとう』の言葉。帰りの車中、涙が止まりませんでした。この住宅ほど細かいプレッシャーのかかった仕事は未だ、ありません。でも、感謝の気持ちでいっぱいです。難しい作業に弊社大工たちや協力業者の理解で完成しました。この思いは一生の宝物です。

 彼女は生い立ちや両親、仲間のことなどをつづった本を自費出版。青年の主張で優勝し、天皇陛下様と個室で言葉を交わしたことなど、数々のエピソードをお持ちです。そのこともまた、この家を造ったこともすべて彼女の歴史。『この家で亡くなりたい。』と言い続け、とても大切にしてくれました。最後は病院のベットで亡くなりましたが、次にこの家に住む方も大切に住まわれてくれると願いつつ、1年半過ぎた今、公開させていただきました。

                        合 掌

 建前後の祝宴。中央奥が私です。2004年春

※弊社HPで完成写真公開予定。